「先生、紅茶飲みます?」
「紅茶?」
「うん」
 風呂あがりにソファへ座っていたら、彼女がキッチンから声をかけてきた。
 ……紅茶。
「いや、飲んでるし」
「アイスじゃなくて、ホットですよ」
「あー。俺はいいよ」
「はぁい」
 手に持っていたグラスを見てから彼女に言うと、くすくす笑って首を振った。
 ホット、ね。
 そりゃまぁ寒い夜に温かい物を飲むのはいいが、今はアイスを飲んでる最中。
 彼女に断って再びテレビに向き直ると、ほどなくして隣に腰を下ろした。
 湯気が立つカップを少し熱そうに持ちながら、口をつける。
 冷ますように息を吹く仕草は、結構かわいい。
「今度は平均点より上ね」
「……え?」
「化学、1学期は平均ギリギリだったろ? だから、今度は平均を軽々上回るように」
「……が……んばります」
「ん。明日は勉強だから」
「お願いしますね」
 わざと教師っぽく言ってやると、苦笑を浮かべてうなずいた。
 実際、週末彼女と会っているときは大抵午前中が学習時間。
 受験生だしね。
 遊びに連れて行ってやりたいのは山々だが、それはまぁ受験が終わってからということで。
 それに、こう……時期が寒くなると動きたくなくなるってのが人間の性分なワケで。
 スキーとかのウィンタースポーツもいいとは思うが、受験生を“滑らせる”ことはしたくないし。
 まぁ、今年1年の辛抱。
 しばらくは勉強に専念させるか。
 テレビに流れているスキーのCMを見ながらそんなことを考えていると、同じように見ていた彼女が俺を見上げた。
「先生、スキーできます?」
「それ、馬鹿にしてる? 昔から体育は成績よかったんだ」
「もぅ、馬鹿になんてしてませんよー。スノボ派じゃないの?」
「スキーのほうがいいね。スノボはなー……」
 ふと思い出されるのは、数年前の学生時代。
 友人らとスキーに行ったとき、孝之が無様にすっ転ぶ姿を見て以来……敬遠するようになっていた。
 ……何かとトラブルも多いし。
 どうしても、俺の周りで起きたことを総合すると、やりたいと思わない。
「じゃあ、今度教えてくださいね」
「なんだ。羽織ちゃん、できないの?」
「……できないっていうか……苦手で」
 確かに、スポーツはなんでも任せろっていうタイプじゃないよな。
 それはむしろ、絵里ちゃんのほうがイメージできる。
「じゃあ、ビシバシ鍛えてあげるよ」
「……うぅ。優しいほうが……」
「それじゃ覚えないだろ? ま、来年ね」
「はぁい」
 笑いながら来年をほのめかすと、苦笑を浮べて小さくうなずいた。
 ……そんな彼女に、ふと目が行く。
 残り少なくなった紅茶を飲もうとしている、彼女。
 ……んー……。
「……やっぱり、ひとくち」
「え? あ、どうぞ」
 声をかけると、笑みを浮かべてカップを差し出してくれた。
 ……わかってないな。
「カップじゃ、いらない」
「……え? でも、ストローで飲むならもう少し冷まさないと――」
「そうじゃなくて。……飲ませて」
「……はい?」
「だから、飲ませて」
 にっこり笑って伝えると、一瞬なんのことかわからなかったらしく戸惑っていた。
 そんな彼女にカップを押し返し、にっこり笑う。
「……飲ませる……って?」
「ほら、口があるだろ」
「……口?」
 ここまで言っても、まだわからないか。
「……え?」
 カップと俺とを不思議そうに見比べる彼女からカップを取り、ひと口含む。
 百聞は一見にしかず。
 ……というわけで、実演してやる。
「っ……ん!」
 紅茶を含んだまま唇を合わせ、キスする要領で飲ませる。
 つ……と口の端から流れる紅茶。
 それを舌で拭うと、小さく喉を動かしてから驚いたように瞳を丸くした。
「……な……なっ!」
「ほら、飲めたろ?」
「そうじゃなくてっ……! 飲ませるって……口移し!?」
「そ。たまにはいいかなって」
「よ、よくないですよっ!」
 うなずいてから笑うと、ぶんぶんと激しく首を振った。
 ……しかし。
 頬を染めて上目遣いに見られると、余計にやってほしくなる。
「今度は、羽織ちゃんの番」
「……えぇ……?」
 当然のことを伝えると、少し情けない顔をしてから困ったように視線を合わせた。
「……本気ですか?」
「俺が冗談言わないってことくらい、わかってるだろ?」
 にっと笑ってみせると、すぐに本気かどうかを探るような視線に変わる。
 悪いが、冗談でやってくれなんて言ったりしない。
 まぁ、そんなこと彼女ならば言わないでもわかるだろうけど。
 じぃーっとその後の彼女を見ていたら――……ようやく、少し考えてからカップに口をつけた。
 ……へぇ。ずいぶん素直になったな。
 唇をきゅっと結んだ彼女が、俺を見下ろすように膝で立った。
「…………」
 ものすごく困った顔。
 それでも、肩に手を当ててからしっかりと唇を合わせる。
 温かい……というよりは、若干冷めてぬるくなった紅茶。
 遠慮がちに入ってきた紅茶を飲んでから唇が離れると、恥ずかしそうに頬を染める彼女が目の前にいた。
「……ん。うまい」
「……もぅ」
 大きくため息をついてから俯いた彼女に、しっかりと人差し指を立てる。
「……え?」
「もうひと口」
「えぇ!?」
「ちょうだい」
 にっこり笑っての、催促。
 ……どうだ?
 …………お。
 動向を見守っていたら、渋々といった感じながらももうひと口運んでくれた。
 ……相変わらず、聞きわけのいいお嬢さんだ。
「ん」
 唇が離れた途端、口の端から紅茶が少しこぼれた。
 慌てて指先でそれを拭――……おうとした、とき。
「……え……」
 彼女が、舌で拭ってくれた。
「……もうおしまいっ」
 ぷいっと顔を背けてカップを手に立ち上がり、そそくさとキッチンへ向かう彼女。
 ……これはこれは。
 ずいぶんとサービスがいいじゃないか。
 やっぱり、俺との賜物か?
 などと思いながら口元に手を当てて彼女を見ていると、視線を合わせようとせずにそのまま寝室へ向かってしまった。
 ……しょうがないな。
「なんで怒ってるの?」
「怒ってません!」
 彼女の背中に声をかけてからリビングの電気を消し、同じく寝室に向かう。
 すると、ベッドに座った彼女が視線を合わせてきた。
「ん? どうした?」
「……だって……」
 鼻先をつけるように座ってから目線を合わせてやると、頬を染めて首を振る。
「……恥ずかしいもん」
「だけど、してくれたろ?」
「……うん」
 かすかにうなずいた彼女の頬に唇を寄せると、そのまま腕を回してきた。
 ……どうも、今日は少し積極的な気がするんだが、なぜだ。
「……ずいぶん、積極的だな」
「ちょっとだけ……人恋しくて」
「血が足りないから?」
「……かもしれないです」
 くすくすと笑いながらのやり取りをしていたら、彼女が腕を引いて身体の向きを変えさせた。
「何?」
「……ちょっと……実験」
「実験?」
「うん。だから、目を閉じて」
「……何するんだよ。ヤラシイな」
「そ、そんなことじゃないもんっ」
「そう? ……ま、いいけど」
 ぶんぶんと首を振った彼女を小さく笑ってから瞳を閉じると、目の前に風。
 ……そんなことしなくたって、ちゃんと閉じてるって。
 どうせ、目の前でひらひらと手でも振ったんだろう。
 ……しかし、一体何をするんだか。
「っ……!?」
 いきなり、耳に濡れた感触。
「だ、だめっ! ……そのまま……」
 慌てたように両肩を手で押さえられ、思わず焦る。
 ……な……に?
 今のは、なんだ。
 肩に当てられた手が、すごく熱くて。
 ……本気か?
 などと思っていたら、再び彼女が続けた。
「っ……」
 温かい、濡れた感触。
 ゆっくりではあるものの、触れたそれは――……彼女の舌に違いない。
 ……参ったな。
 いったい、なんの実験だ。
 時おりかかる息に反応しそうになりながら口元を抑える。
 ……が。
 途端に、彼女がその手をどかした。
「……手はいらないの」
「なんで?」
「……だって、先生の声が聞きたいんだもん」
「…………は?」
 囁いた彼女にまぶたを開けると、眉を寄せてまっすぐに俺を見ていた。
 顔は真っ赤。
 ……それはそうだろう。
 それにいても、やけに積極的だと思っていたら……。
 まさかこんな展開になるなど、微塵も思ってなかった。
「……なんでまた、そんなことを思いついたんだ?」
「……田代先生と絵里に言われたの」
「何を?」
 あのふたりに、いったい何を吹き込まれたのかと聞き返すと、俯いてからしどろもどろに続けた。
「……先生みたいなタイプの人は、逆に迫られると意外に弱いかもって」
「…………またそういう妙なことを真に受けて……」
「だ、だって!」
 小さくため息をつくと同時に、彼女が顔を上げた。
 ……しかし、あのふたりの影響力はデカいな。
 こんな顔してまで彼女が自分からやりたいと思うなど、正直まだ信じられない。
「……だって、いつも私ばっかりなんだもん。だから、たまには……いいかなって……」
「……何が?」
「だからっ! ……私も……先生の声が聞きたいの」
「でも俺は、羽織ちゃんの声聞いてるほうがずっといいんだけど」
「っ……でもっ!」
 意地悪く笑うと、案の定困ったような顔を見せた。
 そんな彼女の頬へ手を当ててから、ベッドに上がる。
「……え……?」
 枕を背に当て、棚に寄りかかるような格好。
 そのままで彼女を見つめると、こちらに視線を向けて何か言いたげな顔を見せた。
「俺は、そう簡単に落ちないよ?」
「……わかってるもん」
「じゃあどうぞ」
「……え?」
「責めたいんだろ?」
「……う、うん」
 うなずいた彼女を手招きすると、すんなり足の間へ身体を滑り込ませた。
 ……珍しい。
 しかしながら、こうして肩に手を置いて見下ろされる格好は――……割といいな。
 照れた顔をしている彼女をまじまじと見れるのも、なかなか楽しいし。
「……あ」
 間接照明を少し落として彼女を見ると、淡い光を受けて……いつもより艶っぽく見えた。


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