本当は、羽織ちゃんを車へ乗せるべきじゃなかった。
走らせたあとで気づいたものの、もう、そのときには止まれなくて。
……馬鹿なのは俺のほうだ。
彼女が何を言うかも、俺をどう思ってくれているかも、わかっていたのに。
「……祐恭先生が……好きです」
潤んだ瞳で見上げられ、思わず喉が鳴る。
渇いた喉が、張りつきそうだった。
彼女の気持ち。
本心……だろう。
それを聞いた今、後悔してもいた。
ひとりの教え子としてではなく、確かに今、ひとりの“女”として彼女を見ている自分がいたから。
ましてや、彼女の気持ちを聞いた今、このままふたりきりで何事もなく過ごせるだけの自信がなかった。
「……せんせ……?」
気付いたときには、もう遅い。
彼女の頬に両手を当て、その涙をぬぐっていたんだから。
ぽつりと言葉を呟いた唇が、化粧のせいかやけに色っぽく見える。
「………………」
そっと目元へ指で触れると、彼女はなんの躊躇もなく目を閉じた。
ほんの一瞬の間に距離が近づき、引き寄せるように身体が動く。
まずいだろ。手を出すな。
どこかでそう聞こえたら、俺は止まれたのか。
「っ……」
すんでのところで、我に返った。
唇が触れそうになった瞬間、着信を知らせる音が車内に響いたのだ。
無機質な音と、目に鋭く入る光。
液晶パネルを光らせているスマフォを手にすると、アキからの着信だとわかった。
「……もしもし」
電話に出た自分の声が、少しだけかすれていた。
「今駅にいるけど。ああ……わかった。じゃあ、道渡って反対側で待っててくれ」
手短かに用件を済ませて電話を切り、エンジンをかけてロータリーを抜けるべくギアを入れる。
「アキも帰るっていうから、一緒に送るよ」
「あ……お願いします」
漏れたため息は、どうしてか。
何に対するものなのかは、俺にもよくわからなかった。
「悪いわねー。ありがとー」
居酒屋まではたいした距離でもなく、簡単にアキの姿を見つけることができた。
後部座席に乗ったアキが、すぐに助手席と運転席の間から顔を出す。
「もー、みんな孝之に絡んでてさー。あれじゃ、いつまで経っても帰れなさそうだから助かったわ。明日、朝から出かけなきゃいけないのよ」
「ごめんね、アキちゃん」
「あら、なんで羽織が謝るの? あんたのせいじゃないってば」
ミラー越しに笑ったアキは、そのまま助手席の彼女の頬をつついた。
「で? ふたり仲良くどこへ行ってたのかしら?」
「そっ……そんなんじゃ……」
「聞いたわよ? 祐恭、今冬女に勤めてるんですってね。しかも羽織の副担なんだって?」
「……孝之か」
「ダメよー? 教え子に手ぇ出しちゃ」
冗談なのはわかっているものの、いたずらっぽい声に俺ではなく羽織ちゃんが先に反応した。
肩を震わせたのがわかり、ああそうだよな、と内心思う。
何をしたんだ、俺は。
あれじゃ、物事の良し悪しもわからない子どもと同じ。
したいと思ったのか、それとも雰囲気に呑まれたのか、どちらとは断言できない思いが胸の奥でくすぶる。
「あ、そーそ。羽織、ID交換しない?」
「えっ、いいの? 教えてほしい!」
「かーわいいわね、その反応。すっごい嬉しい」
アキは、QRコードを映した画面ごと羽織ちゃんへ渡した。
さっきまでとは異なる、いかにもいつもの彼女らしい反応に、少しだけアキへ感謝もする。
あのまま重たい雰囲気で別れるのは、少し罪悪感があった。
「……あ」
国道から住宅街への細い路地へ入り、ゆっくりと進めば見慣れたシャッターが目に入る。
何度となく来た場所だが、まさかアイツじゃなくてその妹を送るために来るとは、当時の俺は考えもしなかった。
「私もここでいいわ。ありがとね」
「ああ」
ふたり同時に車を降り、ともに運転席へ回ってきた。
そういえば、アキの家はここからすぐだったな。
孝之と幼馴染とは知っていたが、どうりで羽織ちゃんのことを構うわけだと改めて納得もする。
「あのっ、ありがとうございました」
「……またね」
アキと話しているときとは違い、俺を見た羽織ちゃんは表情が翳った。
その瞬間を見てしまい、俺のせいだなと痛感する。
ぺこりと頭を下げた彼女は、アキにも礼を告げると、少しだけいたたまれないように玄関への外階段へ向かった。
「祐恭、あの子になんかした?」
彼女へ手を振ったときとは違い、俺を振り返ったアキはどこか訝しげだった。
鋭いな、相変わらず。
何も言っていないし見てもなかっただろうに、雰囲気だけで察するとは。
鈍い孝之とは大違いだ。
「あの子、祐恭のこと好きなのね。あんなキラキラした目で見られたら、実物以上にかわいく見えない?」
「……さあ」
「あら。ずいぶんそっけないじゃない。それは先生だから? それとも、孝之の友達だから?」
「どうかな」
視線を外し、メーターへ移す。
いつもと同じ、変わりばえのしない場所。
だが、同じことは安定につながる。
こんなふうに、いろんなことがありすぎた日は、特に。
「祐恭が羽織を好きになる確率は?」
窓へ手を置いたアキは、いたずらっぽく笑った。
確率、ね。
数字で弾き出せない事象を求めるには、なんの関数を使えばいい。
学生のとき、心理学の授業で言われた様々な定理が、一瞬よぎる。
「あの子ね、昔から単純で素直で……あんまり人のことを疑わないの。それが、好きになった人ならなおさら。だから、あの子のことをからかってるなら、やめてあげて」
「……俺は……」
「祐恭ならそういうことしないだろうな、とは思ってる。でも、あの子が傷つくのは見たくないの」
ふいに声色が変わり、何かを隠すような笑みではなく、見極めるかのような真剣な顔つきをしていた。
俺は、なんて答えようとしたんだろうな。
被せ気味に言われた言葉のおかげで、出そうになった言葉が消えたことに少しばかり感謝する。
「またな」
「はいはい。余計なお世話でしたよ」
「そうは言ってない」
「あら。顔に書いてあるわよ?」
肩をすくめたアキが、くすくす笑った。
そんなはずないのに、言われると気になるあたり図星なのか。
思わずため息をつくと、小さくアキが笑った。
「…………」
週明けには、金曜の続きが待ち構えている。
なのにーーああ、月曜が来るのが嫌だと思ったのは久しぶりだな。
授業連絡で、羽織ちゃんは俺のところへ来るだろうが、一体どんな顔して接すればいい。
……そう。
あの子ではなく、悩むのは自身の対応。
「……はぁ」
国道で左折しながらそんなことを考えると、また重たいため息が漏れた。
――祐恭の車が見えなくなった、そのあと。
ぼちぼちと歩きながらスマフォをいじっていたアキは、羽織宛にメッセージを送りながらにんまり笑った。
余計なお世話だと祐恭は言うかもしれない。
それでも、何かが変わるかもしれないのなら、それに賭けてみたい思いもあった。
小さいころから知っている、妹のような存在の彼女と、学生のときに知った、孝之とは違う真面目で不器用な友人。
果たしてそのふたりが今後どんな関係を築くのか、近くで見てみたい気持ちもあった。
「……さて、どうなるやら」
祐恭宛に羽織のIDを伝えるメッセージを送ると、タイムラグなく送られた。
彼のものを羽織に送ることは、しない。
困るのは、ひとりでいい。
どうなるかしらね。
運転中とあって既読の付かないメッセージを見ながら、アキは思わずひとりごちた。
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