「ちょっとー、羽織聞いてる?」
「え?」
「……あんたねぇ。何よ、なんかあった? 月曜からそんな辛気臭い顔して」
 絵里がそう言うのも無理はない。
 月曜の、1時間目が終わった休み時間。
 次の授業は化学なので、本来ならばもうとっくに化学室へ行っていなければいけない……のに、今日はこの時間でもまだ椅子に座ったままなんだもん。
 いつもと違い過ぎるよね、それはわかる。
 いつもだったら、授業が終わってすぐにでも行っていたのに。
「……先生と、何かあったの?」
「え!? う……ううん、別に。何もないよー」
「じゃあ、早く連絡行きなさいよ」
「う。そうなんだけど……」
 瞳を細めてうながされるものの、腰が重い。
 朝のHRで祐恭先生に会ってはいるけど、そのときもマトモに見れなかった。
 今の態度といい、きっと絵里には私のテンションの低さは祐恭先生と何かあったとバレてるんだろうな。
 ……いつまでも黙ってても、しょうがないよね。
 なにより、絵里だからこそきちんと言わなければいけないとは思う。
「えっと……この前、お兄ちゃんに誘われて、飲み会に行ったの」
「飲み会? 飲めないのに?」
「うん……人数が足りないからこい、って言われて。それで……祐恭先生も来るって言われて、つい……」
 ぽつりぽつりと話し出した私を見ながら、絵里はうなずきながら何も言わないでいてくれた。
 真剣に聞いてくれる彼女が、ただただありがたい。
「……それで、先生に途中で帰ろうって言われて、車で送ってもらって……その帰りに、告白したの」
「え!? 羽織が?」
「うん」
 絵里が驚くのも、無理はない。
 これまで、どんなときでも自分の思いを伝えることなく失恋を経験してきたのが、私。
 でもね、自分でもびっくりはしたんだよ。
 そんな大胆な行動が取れるなんて、思わなかったもん。
「で?」
「え?」
「好きって言ったんでしょ? そしたら? 先生なんて?」
「…………何も、言われてない」
 ちくりと胸が痛む。
 そう、なの。そうなんだよね。
 中野さんのとき、彼は『考えられない』と返事をしている。
 でも、私は何も言ってもらえなかった。
 ダメなのか、いいのか。
 わからないまま、気持ちが宙ぶらりんでどうすればいいのかわからない。
「……何それ。ずるい」
「絵里……?」
「告白されて黙ってるなんて、ずるいじゃない! ……いい。私が行ってくる」
「え!? い、いいよ、そんな!」
「だって、悔しいでしょ! ていうか、瀬尋先生がそんな態度取るなんて思わなかった! 信じらんない!」
 眉を寄せて怒っている絵里を見ていたら、とてもじゃないけれど『キスされそうになった』とは言えない。
 もちろん、あれはそんなつもりじゃなかったのかもしれないけど、もしかしたら、ってすごくすごくドキドキしたんだもん。
「ねえ絵里、大丈夫だから! 心配かけてごめんね。行ってくるから、平気」
「……大丈夫なの?」
「うん。平気だよ」
 実はあんまり大丈夫じゃないけれど、そうは言えない。
 心配そうに見つめる絵里に笑って見せてから、席を立ち上がる。
 行かなきゃ。
 会ってーー聞かなきゃ。
「羽織」
「え?」
 心配そうな声が聞こえて振り返ると、そこには不安そうな絵里がいた。
「……何かあったら、すぐに言うのよ」
「うん。ありがとね」
 これ以上、彼女に心配をかけるわけはいかない。
 微笑んで手を振り、『大丈夫』と言ってから、ゆっくり実験室へ向かって歩き出せた。

 あれ以来、祐恭先生と会うことはもちろんなく、これがふたりで話す初めての機会だった。
 緊張するし、何よりも……行きたくないという気持ちが先に立つ。
 彼は、どんな顔をして迎えてくれるだろうか。
 私のこと、避けたりするんじゃ……。
「………………」
 浮かんでくるさまざまな不安を払うように、ドアノブへ手をかけたまま深呼吸を繰り返す。
 そして、ゆっくりと準備室のドアを開けるべくノブを回した。
「失礼します」
 そっと声をかけてから入り、祐恭先生の机を目指す――けれど、そこに彼の姿はなかった。
「あ、祐恭君なら実験室にいるよ」
 窓際に立っていた田代先生が、笑みを浮かべて実験室を指さした。
「ありがとうございます」
 そんな彼に見せたのは、いつもの笑み。
 ……だけど、不思議そうな顔をした彼が身体ごと振り返る。
「羽織ちゃん?」
「え?」
 呼び止められて振り返ると、先ほどの絵里の表情が重なって見えた。
 ああ、ふたりは似てるんだな……なんて、こんなときながら思う。
「……何かあった?」
「っ……ど、うしてですか?」
「いや、なんとなくね。元気ないからかな。……そういや、祐恭君も元気なかったな」
「え……」
 彼も元気がなかった……?
 そう聞いて、少しだけ不安になる。
 そんな彼を見たことがないので、普通に話せるか不安だ。
 ……やっぱり、私のせいなのかな。
 あの日、あの夜の――。
「……私は大丈夫です。すみません」
 笑みを浮かべて軽く頭を下げ、実験室へ足を向ける。
 これ以上田代先生と話していたら、優しさで泣いてしまいそうな気がした。
「そう? なら、いいんだけど」
「ありがとうございます」
 頭を下げ、実験室へのドアノブを握る。
 そんな私の後姿を見て、彼が小さくため息をついていたなんて、このときは知るよしもなかった。

「あ……」
 実験室の1番前にある教員用実験台に、彼はいた。
 パイプ椅子へ腰掛けたまま、青い液体が入ったビーカーを頬杖をついて見つめている。
「……祐恭先生」
 小さく声をかけると、ゆっくりこちらに振り返った彼と目が合った。
 田代先生が言うとおり、その顔には彼らしさがない。
 こんな顔、見たの初めて。
 初めて会ったときから、祐恭先生はいつも優しく笑っていたのに。
「もうすぐテストだし、今日は自習にするから。好きな教科持ってきていいよって伝えて」
「わかりました」
 いつもの語調ではなく、やけに静かだった。
 覇気がない、と言えばしっくりくるかもしれない。
 ……でも、いつもある笑みが見られないことが、こんなにも不安になるなんて知らなかったな。
 HRのときは顔を見ることができずにうつむいていたのでわからないけれど、口調が今と同じことから考えても恐らく笑みはなかったんだろう。
 祐恭先生らしいあの優しい微笑みは、今もそこにもない。
 しばらくそんな彼を見ていたものの、会話が弾むはずもなく、軽く頭を下げてから出て行くことにした。
 ……空気が重い。
 この雰囲気に潰れてしまいそうで、少し怖かった。
「羽織ちゃん」
「……え?」
 かちゃ、とノブを回すと、ふいに名前を呼ばれた。
 そちらを振り返るものの、彼の視線はビーカーのまま。
 でも私にとっては特別な瞬間で、名前を呼ばれただけで鼓動が早くなった。
「……ごめん、なんでもない」
「っ……」
 ゆっくりと私のそばへ歩いてきた彼は、まじまじ私を見下ろしてから、首を横に振った。
 もう一度『ごめん』を口にした彼が、ノブを回して先に出て行く。
 パタンと閉じられたわけじゃないのに、彼の姿が見えなくなったことが切なくて。
 まるで彼との関係が断たれたかのように思えて、なんとなく切なかった。
 祐恭先生は、何を言おうとしたのか。
 それが気になるけれど、これ以上ここにいても彼は戻ってこないだろうし、何よりもすごくつらかった。
 ……通れないな、あっちの部屋は。
 今ごろきっと、田代先生は何かに気づいているはず。
 もう一度あの心配してくれる顔を見たら、確実に泣いちゃう自信ある。
「っ……」
 じわっと涙が浮かびそうになり、きびすを返して向かうのは、廊下へのドア。
 ああ、ダメだなぁ私。
 今、絵里の顔を見たら泣いちゃうかもしれない。
 廊下を戻りながらまばたきを増やし、滲んだ涙を消すべく必死に彼女への弁解を考えるしかなかった。


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