「祐恭君、悩んでることあるでしょ」
「……え?」
席についてパソコンを開くと、目の前の純也さんにいきなり聞かれた。
途端、脈が速くなるのがわかる。
どうしてわかったんだろうか。
思わず眉を寄せると、苦笑を浮かべてから頬杖をつく。
「……なんとなく、だけどね。今の祐恭君見てると、昔の自分と重なるんだよ」
まるで懐かしむように呟いてから、立ち上がった彼はカップを手に、コーヒーメーカーの前へ。
ほどなくして、室内にコーヒーのいい香りが広がる。
「俺も……ちょうど、2年前の今ごろだったかな。同じような顔してイライラしてたことがあってさ」
そう言って、手にしたカップのひとつをこちらにくれてから、彼が窓際の低い棚に腰をかけてコーヒーを含んだ。
「自分がどうすればいいのか、わかんないんだよ。どうすれば丸く収まるのか、って。そればかり考えてた。……で、そのとき斉藤先生に言われたんだ」
ふっと主がいない席を見つめた彼は、微笑んでからこちらに顔を向ける。
そんな彼の言葉に、なんとなく親近感を覚える。
もしかしたら、何か感じるものがあったのだろうか。
彼と自分が似ている、と感じるような何かが。
「思っていても相手には伝わらない。まわりのことじゃなくて、自分がどうしたいかを考えるべきだ。……本当に大切なものなら、どんなものからも奪うくらいじゃなきゃ、何も手に入らないんだぞ、ってね」
「……斉藤先生が……?」
斉藤先生というのは、定年間近の厳格な教師だ。
化学担当教師がつめているこの部屋の中でもっとも年長者ということもあってか、敏感に人の心を見抜く力を持っている。
悩んでいても、誰かに相談しても、結局は自分で決めなければいけない。
ここに赴任してすぐのころに、彼に言われて吹っ切れた経験が自分にもあった。
「そ。だけど、『奪った以上、自分が死ぬ気で護れないのなら、そんな気持ちは捨てちまえ』って、すげー怖い顔で言われてさ。……で、吹っ切れたんだよ。あぁ、なんだ、こんな簡単なことに気付かなかったのか、って」
ふっと懐かしむような笑みを浮かべてから、少し真面目な表情を見せた彼と目が合った。
悩んでいるそのすべてに対する答えを出してやる。
まるで、そう言われたような気がした。
「悩むってことは、それが自分にとって大事だから悩むわけだろ? どーでもいいことだったら、気にも留めないわけで。……今しかないんだよ? 時が経てば、それを失いかねない」
「……純也さん……」
「なーんてな。いやー、俺もずいぶん語るようになったよ。はは、ごめん」
そう言って笑った彼は、いつもの彼だった。
だが、だいぶ気が楽になったのがわかる。
これまで自分が悩んでいたことが、するりと解けたような、そんな感じだ。
「お。……時間ですよ? 瀬尋先生」
時間を告げるチャイムが鳴ると、にっこり笑って実験室へと促された。
「皆瀬絵里」
「え?」
「ここだけの話、ね。……アイツに告白されてさ。教師と生徒はやべぇだろうってずっと考えてたんだけど……悩んでる自分がいたんだよ。で、あぁ俺はアイツが好きなのか、ってね」
「っ……そうだったんですか?」
「うん」
小さな声でのまさに“告白”で、目が丸くなった。
伏せ目がちに呟いてからコーヒーを含み、笑った彼。
どうやら、純也さんには、すべて見透かされていたようだ。
自分と同じことで悩んでいる、と。
「それ以来、あいつには振り回されっぱなしだけど……あのとき行動してなかったら、後悔してただろうなって思うよ。祐恭君も、そんな後悔はしないほうがいい」
「……あ」
ぽんぽんと肩を叩いた彼に言いかけると、授業が始まるよ、と背中を向けられてしまった。
席に着いた彼に、立ち上がってから頭を下げる。
心の中で礼を言い、今自分がするべきことのために実験室へと足を向けた自分は、気持ちにかかっていたもやが少しだけ晴れたかのように感じていた。
「……………」
ざわめく実験室に入ると、まっさきに羽織ちゃんへ目がいった。
いつもどおりの彼女。
笑みもあり、絵里ちゃんと話している姿はいつもと変わらないように見えた。
そんな姿に少し安心している自分に驚きながら、あいさつをして着席させ、今日は自習と伝えてから自分も椅子へ座ると、少しざわついたもののすぐ静かになった。
いよいよ、来週には化学のテストがある。
途中までしか問題を作成していなかったので、その続きを作るためにパソコンを起動した。
――……どれくらい時間が経っただろうか。
ふと腕時計を見ると、授業終了まであと10分弱というところ。
問題作成が完了したファイルを保存して電源を落とし、パソコンを開いたまま生徒たちへ視線を向ける。
真面目に問題集をやっている子、何やら筆談で盛りあがっている子、余裕なのか寝てしまっている子……と、本当にさまざま。
だが、こうして前の席に座っているだけでも誰が何をやっているかすぐにわかる。
自分が教師になって初めてわかったことだが、そう考えると高校時代寝ていた自分は教師からバレバレだったんだな、と苦笑を浮かべたこともあった。
『自分にとって大事なことだから気に留めて、それを悩む』
純也さんに言われた言葉が脳裏から離れない。
――あの夜の出来事。
彼女に告白され、思わずキスしそうになったのは事実。
教師と生徒の関係は禁忌だというわりに、頻繁に耳にする。
だが、自分はそんなことないと思っていた。
というのも、これまで年下の子に対して恋愛感情を抱くことがなかったからだ。
ましてや、教師という立場ならばなおさら。
年下の子は妹のような目で見てしまうクセがあるらしく、大学時代もそういう対象としては見れなかった。
事実、これまで付き合った女性は同い年か年上ばかり。
主導権を握られるのは嫌いだったが、面倒を見てやりたいという気持ちとは違うためか、無意識のうちに年下の子は敬遠するようになっていた。
……紗那のせいか。
ふと、妹のことが頭に浮かぶ。
年が離れているのもあって、小さなころからあれこれと彼女の面倒をみてきた。
そのせいか、甘えん坊で泣き虫で人をすぐに頼る彼女を見て、年下の子=紗那みたいな子という刷り込みがされたのかもしれない。
……そんな自分が、まさかあの子に対して“女”を意識することになるとは思わなかった。
彼女を初めて見たときにも、妹に似ていると思ったからだ。
雰囲気も似ているが、あどけない表情で笑うところなどそっくりで。
そして孝之の妹であると知り、さらに恋愛対象から外れていくハズだった。
なのに――……『好き』と言われて、違う目で見ている自分がいた。
いや、もっと前から……そう、あの遠足で一緒に行動したときからだろう。
寺でのんびりしたいと聞いたとき、ずいぶん変わった子だなという印象を持った。
ほかの班の行動を見に行くつもりだったのに、その不思議なところに興味を持ってつい足を運んでしまった。
一緒にいて、ずいぶん自分と波長が合っていることに気付いたのも、あのとき。
のんびりしているし、どこか抜けているとは思うのだが、なんだかほっとできる雰囲気を持っていて。
屈託なく笑う姿に、こちらも笑みがこぼれる。
楽しいことは楽しい、おいしいものはおいしい、嫌なことは嫌。
感情がすぐに顔にでるからか、純粋な子だという印象も持った。
……そして、あの日の夜。
目の前で涙を流し、先ほどの純也さんのようなことを言われた。
『行動しなければ、大事なものをなくしてしまう』
どうして、他人に対してそんなにも簡単に涙を流せるのだろうと不思議に思った。
ましてや、いち教師である自分のためになど。
……そして、羽織ちゃんに対して土産を選んだ自分にも戸惑った。
泣かせてしまったことを謝るため、そして……何か自分の存在の意味を示す何かをあげたかったという思いもあって購入した、高い物でもない、普通の白いウサギの根付け。
だが、予想以上に喜んでくれたことが、自分も嬉しかった。
あれを見たとき、似ていると思ったんだ。
白くて小さな陶器のウサギが、純粋でけがれていない……そして、寂しがりやで、どこかもろい雰囲気のする彼女に。
髪を切ったときに感想をくれたことも、素直に嬉しかった。
それだけじゃない。
放課後の実験室で、したいことがあるという話になったときの彼女に対して、幼く儚い印象を持っていただけに、芯の強い瞳を見て心が揺れた。
あのとき自分は、なんと答えるつもりだったのだろう。
自分は誰を思い浮かべていたのだろう。
そんな疑問が、今さらながらにふと頭へ浮かぶ。
「……あ」
頬杖をついてそんなことを考えていたら、チャイムが響いた。
我に返って立ちあがり、号令を頼む前に授業終了を告げる。
「いいよ、このままで。お疲れさま」
その声で、ぞろぞろと生徒たちが実験室を出て行った。
自分もパソコンを閉じ、荷物と一緒にまとめて手で持ちながら――。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「今、何か落ちた音が……」
ふと顔を上げると、何かを探す羽織ちゃんの姿があった。
「え? でも、何もなくなってないんでしょ?」
「うん、それはそうなんだけど……ね。うーん……おかしいなぁ」
きょろきょろと床に視線を落とす彼女の肩を叩いて絵里ちゃんがうながすと、苦笑を浮かべながらふたりも実験室を出て行った。
そんな姿が気になって、生徒がいなくなったあと、彼女らが座っていたテーブルに近づく――と。
「……?」
テーブルと椅子の間の、ちょうど陰になったところに、何か小さな物が落ちているのに気付いた。
そっと指先でつまみあげてみると、それは彼女にあげた根付けのうさぎで。
留め具がゆるんで、紐から滑り落ちたのだろうか。
「…………」
どうしようか迷ったものの、そのうち取りに来るかもしれないと思い、ポケットへしまったまま自分も実験室をあとにした。
|