3時間目が始まるチャイムが、響いた。
 この時間、純也さんは授業で実験室にいるものの、ほかの教師たちは姿が見えず、準備室には自分ひとりがいるかたち。
「…………」
 自分ひとりだけの時間は、そういえば赴任して初めてだな。
 窓際にあるコーヒーメーカーに近づいてコーヒーをそそぎ、さっそくひとくち。
 コーヒーより紅茶のほうが好きとはいえ、さすがにそこまで贅沢を言うこともできず、そしてわざわざ淹れるのも面倒で。
 この時期からアイスになったコーヒーをひとくち含むと、窓の外から笛の音が聞こえた。
 2号館と呼ばれるこの実験室がある校舎の横には、校庭が広がっている。
 この時間、校庭は3年2組の生徒たちが使っているのを知っている。
 ……のだが、そんな中、無意識のうちに羽織ちゃんを見つけようとしている自分に気付き、おかしくなった。
 今日の授業は外でのバレーらしく、数人で輪を作ってボールをトスしている姿が見える。
 ……と、そこに遅れたらしい彼女が駆け寄っていった。
 それに対して絵里ちゃんが投げたボールが、背中に当たる。
 窓が開いているため、笑い声などが小さく聞こえてきた。
 絵里ちゃんに文句を言うように屈託なく笑う顔と声は、いつもと同じ彼女。
 いつもの。
 ああ、いつだったかな。あの笑顔と声が、俺に向けられなくなったのは。
「…………」
 久しぶりに見た姿に、つい顔が(ほころ)んだ。
 どうすればいいか、考えてはいた。
 答えが出ない……いや、出していいものかわからず、ぐるぐると堂々巡りのまま。
 それでも、少しだけ。
 純也さんと絵里ちゃんのことを聞いたとき、ものすごく驚きはしたが、ああそういう答えを出してもいいのかとほんの少しだけ安堵した。
「……仕事するか」
 ついつい目で彼女を追ってしまっていたが、席に戻ってテスト用紙をプリントアウトすることにした。
 テストが終わったら、自分も答えを出せればいいな……と、ふいに考える。
 なかなかプライベートで会うことはないだろうが、どこかで期待している自分もいる。
「わがままだな」
 これまで、自分では感じなかった感情。
 パソコンをつけてコーヒーを含むと、自嘲気味な笑みが漏れた。

「……古月(こげつ)のケーキ、ですか?」
「ええ。いただいたんですけれど、うち、みんな甘い物ダメなんです」
 放課後の化学準備室で、明らかに純也さんが困っていた。
 先輩化学教師の彼女に『ちょっといい?』と言われたあとすぐ、差し出された箱を受け取ってしまったからだ。
 ……純也さんも確か、甘い物食べなかったはずだけどな。
 それは自分とて同じで、甘い物を喜んで食べるヤツは、知り合いにひとりしかいなかった。
「でもあそこのケーキ、結構いいお値段ですよ?」
「あらあら、田代先生ってば。いいんですよ、どうせいただき物ですから」
 ほほほ、とおかしそうに口元を押さえて笑った彼女が、何度もうなずく。
 ……そう言われてもな。
 と思っていそうだが、口にしないあたり空気を読んでいるのか、はたまた無駄な労力は使わないタチなのかは、さすがに背中から読み取れなかった。
「それじゃあ、お先に失礼します」
「あ……はい。お疲れさまです」
 にこやかに彼女が頭を下げたのにならい、純也さんも同じく頭を下げた。
 続いて自分も声をかけると、丁寧にあいさつを返された。
「……なんで祐恭君断っちゃうかな」
「いや、自分一人暮らしですもん。食べ切れませんよ」
「俺だって似たようなモンだし。あーあ、どーすっかな。こんなワンホールとか……ていうか、そもそもなんで職場にこんなもんがあるんだ」
「昼休みにもらったらしいですよ、お客さんから」
「客ぅ?」
「ええ。教科書のセールス」
「うわ。それ、もらっちゃダメなヤツじゃないか? うわ。うわー……めんどくさいものつかまされた」
「お疲れ様です」
 あからさまに嫌そうな顔をした純也さんは、ため息をつくと箱を机に置いてスマフォを取り出した。
「……あ、もしもし。お前、古月のケーキ食う? そうそう、チョコレートらしいぞ」
 きれいにラッピングまで施されており、電話しながら純也さんがそれをいじった。
 かと思いきや、ふいに目が合ったまま会話がなされ、なんとも不思議な気分を味わう。
「あー、なるほど。いいよ別に。ていうか、そのほうが楽しいんじゃないか?」
「……?」
「いや、こっちの話。んじゃ、またあとでな」
 彼の意図を汲み取れずにまばたくと、電話を切ったあと彼はにっこり笑った。
「祐恭君、このあと暇?」
「今日ですか? まあ……別に予定はないですけど」
「じゃあ、うちにこない? うまい飯、ご馳走してやるよ」
「……いいんですか? そんな急に……」
「いいんだよ。それに、これ。食べるだろ?」
「え。いや……甘い物は」
「まあまあ。俺がもらって帰るんだから、せめて分与には付き合わないと」
 いつもと違って悪戯っぽく笑われ、思わず苦笑が漏れた。
 どうやら、ケーキの出所を黙っていたのがまずかったらしい。
「じゃあ、お邪魔します」
「よかった。えーと、家……すぐわかると思うんだけどさ」
 手近にあったミスプリント紙を裏返した彼は、簡単な地図を書きながら説明を始める。
「ここがコンビニのある交差点ね。で、ここにデカいマンションがあるんだけど、そのちょっと先に行ったところの脇道入ると、斜めの道があって。そこにある、レンガ風のとこ」
「……これ。うちのすぐそばですよ」
「え? そうなの?」
「ええ。うち、ここですから」
 地図上で自宅マンションを示すと、純也さんは目を丸くした。
 今まで知らなかった事実に、思わず顔を見合わせて笑う。
「そっか。じゃあ、場所は大丈夫だね。着いたら2305押して」
「わかりました。じゃあ、あとでお邪魔します」
 メモを受け取り、手をあげた彼を見送る。
 にっと笑って出ていった彼は、まるで何かを企んでいる少年みたいにも見えたが、このときは特に気に留めなかった。
「……一度帰るか」
 手ぶらでお邪魔するわけにもいかないので、飲み物程度買って行こうかとも考える。
 椅子を押し込み、鞄をーー手にしたとき、机の上の、ある物が目に入った。
「……結局、取りにこなかったな」
 ころんとしたそれをつまみ、スマフォを取り出す。
 下校時刻からかなり経っており、もう学校にはいないとは思うが……それでも、つい。
 いい口実だと思ったせいで、彼女のIDを探し出していた。
「…………」
 先日、アキから送られてきた、彼女の連絡先。
 名前を検索すれば、もちろんしっかりと登録されていて。
 少しとまどったあとで通話ボタンを押すと、呼び出し音が響いた。

「あ、ごめん。ちょっと電話」
「どーぞ」
 絵里に断ってからスマフォを取り出したところで、羽織は目を疑った。
 表示されている名前は、もちろん知っている人。
 だが、いつのまに登録されていたのか知らない、ものすごく欲しかった人の名前で、何がどうなっているかわからず出ることに戸惑った。
「わ、わっ……!?」
 慌てて画面をスライドし、耳に当てる。
 と、いつもと同じ……いや、初めて。
 電話越しに聞く彼の声に、身体が大きく反応する。
『もしもし、羽織ちゃん?』
「祐恭……先生……」
 きっと、こんなに近くで声を聞いたことはない。
 どきどきして、上ずった変な声が出たことを後悔する。
「先生、どうして……?」
『この前、アキが繋げたらしいんだ。それで……ごめん、急に電話したりして』
「いえっ、それは別に! というか、全然大丈夫です!」
 そういうわけじゃないことを伝えたくて、慌てて首と手を振る。
 って、見えないのにね。
 でも、こんなふうに話せたのが嬉しい。
 ずっと……ずっと、聞けなかった気がするもん。
 いつもの、声を。
『羽織ちゃん、根付けのウサギをなくさなかった?』
「え? うさぎですか?」
 彼にもらったうさぎは、家の鍵につけている。
 そういえば、今日はずっとスカートのポケットに入れっぱなしだったんだよね。
 いつもは鞄にしまうのに、遅刻しそうだったこともあって走りながらポケットへ入れたことをふいに思い出す。
「っ……あれ……!?」
 スカートから鍵を取り出してみたら、そこには赤い紐だけになっている寝付けがあった。
 肝心の、ころんとしたうさぎがいない。
「え、なんで……っ」
『あぁ、やっぱり。実験室に落ちてたんだよ。……羽織ちゃん、今どこにいる?』
「えっと、今は先生方の駐車場です」
「羽織ー、そろそろ行くよー?」
「あ、ごめん、ちょっと待ってっ」
 慌てて絵里に断ると、ちょうど田代先生の車のそばにふたりが立っていた。
 でも、今の会話が祐恭先生にも聞こえたらしく、電話の向こうから小さ声が聞こえた。
『絵里ちゃん、ってことは純也さんも一緒?』
「はい。……それが何か……?」
 田代先生の名前が出たことで、少しだけ目が丸くなった。
 けれど、電話の向こうの彼が小さく笑い、そちらに意識が引っ張られる。
 小さく聞こえた『なるほどね』が何を表すのかはわからないけれど、彼なりに何か思うことがあったようだ。
『俺も今日、純也さんに呼ばれたんだ』
「っ……う、そ……!」
『だから、そのとき渡すね』
「はい……っ」
 電話しながら視線が向かうのは、絵里と話し込んでいる田代先生。
 その手には、見たことのある包装紙のかかった大きな箱があった。
「田代先生……祐恭先生が来るって、知ってたんですか?」
「うん、さっき誘ったんだよ。マズかった?」
「んなっ……!? なんで!? はぁ!? なんで誘ったりしたの!?」
「なんでお前が怒るんだよ。お前じゃなくて、羽織ちゃんに聞いてんだろ?」
「そういう問題じゃないでしょ、馬鹿!」
「なんだと!?」
 意図的なのか、違うのかはわからない。
 でも、先に絵里が反応したかと思いきや、田代先生のネクタイをがしっと掴み睨みつけたから、とっさに慌てて絵里を止める。
「絵里! ねぇ、大丈夫だから!」
「何が!」
「その……あのね? 祐恭先生、なんか……いつもと一緒だったし」
 ぽつりと呟くと、スマフォを握ったままの私を絵里が見た。
 ものの、彼の名前を口にしたからか、意外そうな顔をする。
「え……電話、先生からだったの?」
「うん」
 でもそうだよね、私だってそう思ったもん。
 まさか、こんなふうに電話で話すことになるなんて、想像もしなかった。
 どうやら絵里もそうらしく、田代先生を見つめた。
 きっと、この中では一番事情を知っているはずの人。
 でも、彼は肩をすくめただけで車の鍵を開けると私たちを促した。
 ……これから、先生と会う。
「っ……」
 そう実感した途端、あの夜にも似た緊張感が身体の奥から湧いたのを、どこかで感じた。



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