「こんばんは」
「お、いらっしゃい」
私服に着替えた自分を、純也さんはにっこりと迎えてくれた。
部屋へ通されてわかったが、つくりこそ違っていたものの、どことなくうちのマンションに似た感じを覚える。
「もうすぐ、メシできるらしいからさ」
「あ、これ少しですけど」
「なんで、手ぶらでいいって。勝手に誘っただけなんだから」
「いや、ほんの少しですよ。絵里ちゃんは何飲むかわからなかったんで、適当ですけど」
「あー、いいのいいの。どうせアイツ、なんでも飲むから」
「ちょっとそこ。軽く人のことけなしてるんじゃないわよ」
「褒めてんだよ」
リビングに入った途端、キッチンへ自然と目が向いた。
オープンキッチンになっているそこには、羽織ちゃんたちの姿があったが、何やらせかせかと動いている。
「……ふたりが作るんですか?」
少し驚いて純也さんを見ると、苦笑を浮かべてから首を振った。
「ふたりじゃないね。……どっちかっていうと、ひとりっていう表現が正しいかな」
「え?」
そんな言葉に疑問をもちながらソファに座ると、目の前にさまざまな料理が運ばれてきた。
「うわ。何お前、こんなに食う気?」
「いいじゃない、別に。4人で食べるんだから、少しくらい多くたって。残ったら、明日お弁当で持ってけば?」
「弁当って、お前……」
――が、作るわけじゃないだろ?
とっさに出そうになる言葉を飲み込んだ純也さんを、絵里ちゃんが睨んだ。
目だけでの意思の疎通は、十分できているようだ。
「以上が、本日の夕食メニューよ」
あれよあれよという間に、幾つもの大きな皿が運ばれてきた。
すべてを置いてから絵里ちゃんが言うと、グラスを持った羽織ちゃんを手伝いに、もう1度キッチンへ戻る。
「祐恭先生、何飲みます?」
「あー……じゃあ、お茶か何かを」
「え、どうせなら飲めばいいのに。せっかく冷えてるの買ってきてくれたんだし。車?」
「いえ、歩きです」
「じゃあ飲みなよ。俺は付き合えないけど」
「飲まないんですか? なら、また今度の機会に。次は、別の銘柄持ってきますから、そこで飲みましょうよ」
「あはは。じゃあ、そうして。ありがとう」
そう言うと、純也さんは手渡した袋ごとキッチンへ運んでいった。
代わりに絵里ちゃんがお茶のペットボトルを持ち、ようやくふたりそろってリビングに姿を現す。
「こんばんは」
「こんばんは……お疲れ様です」
「いや、俺は何もしてないよ。むしろ、羽織ちゃんたちが作ってくれてたんでしょ? これ」
「私がしたのは、少しですけどね」
苦笑した羽織ちゃんは、まだ制服を着ていた。
夏服とあってブラウスにスカートだけだが、同じ格好をしていたはずの絵里ちゃんは、すでに私服へ着替えている。
「あ。小皿」
言うが早いか立ち上がった彼女を見て、なんとなく感じた違和感。
いや、違和感というよりは当たり前に物を取りに行く姿に、まるで家であるかのような……。
「絵里が、我が物顔なのが気になる?」
「あ、いや……そうじゃないんですけど……」
「え? 何よ、私別に何もしてないけど」
口を尖らせながらお茶をそそいだ彼女が、グラスを羽織ちゃんの前へ。
純也さんが俺の前へ同じく緑茶のグラスを置いてくれながら、小さく笑う。
「一緒に住んでるんだよ、今」
「……え!?」
思わず耳を疑った。
付き合っていることは先日聞いたが、まさか一緒に暮らしているとは思いもしなかったからだ。
「いや、ご両親が今アメリカにいてさ。前にあいさつへ行ったら、ひとりっ子だから心配っていうんで……保護者代わりにっていうか」
「保護者、ね。ふーん。知らなかった」
「保護してやってるだろ、飯も作ってるし」
「はいはい。おいしいわよ、毎日」
なるほど。
さっき羽織ちゃんが言った『私がしたのは、少し』という言葉は、てっきり絵里ちゃんが作ったんだと思っていたが、そうではなく彼の仕事だったのか。
退勤時間は俺とさほど変わらなかったはずなのに、こんな量を仕込んでいたとは。
もともと今日、俺を誘ってくれるつもりだったのか、それともこれが日常なのかはわからないが、どちらにしてもすごいと思った。
俺にはとてもじゃないけど、真似できない。
「保護者って感じたことないけどねー」
「当たり前だろ。俺は彼氏で、保護者代理でしかないんだから」
「……まぁ、そうね」
グラスを持った純也さんに対して、絵里ちゃんは嬉しそうに笑った。
ああ、なるほど。
付き合うっていうのは、こういうのが正解なんだな。
今までの自分にはなかった姿を見せられた気がして、不思議な感じがした。
「あー、お腹すいた。いっただきまーす」
「いただきます」
「んじゃ、祐恭君」
「お疲れ様です」
お箸を持った彼女らと違い、純也さんとグラスを手に乾杯。
よく響く音がして、これはこれでオツだなと思う。
手作りの食事なんて、久しぶりだな。
あたたかそうな湯気が立っている料理は、レンジで温めただけのものとは違い、見るからにうまそうだ。
「……うまい」
手近にあった、鶏肉とピーマンの炒め物を口にすると、自然に頬が緩んだ。
あー。米食べたい。
さすがに人様の家で要求できないーーと思ったが、絵里ちゃんが茶碗へよそってきたのを見て、思わず見つめる。
すると、純也さんが気づき、小さく笑った。
「祐恭君、夜もメシ食える人?」
「飲むときは、なくてもいいんですけど……この味、米食べたくなりません?」
「だってさ。よかったね、羽織ちゃん」
「え……」
にやりと笑った純也さんから視線を移すと、なんともいえないような顔をした羽織ちゃんが、お箸を置いた。
「羽織ちゃんが作ったの?」
「はい。おつまみっていうより、完全に夕飯のおかずになっちゃったんですけれど……でも、そう言ってもらえて嬉しいです」
言うが早いか、彼女は立ち上がるとキッチンへ向かった。
戻ってきたときには、白い飯が。
「どうぞ」
「ありがとう」
受け取って彼女を見ると、目があってすぐにこりと笑った。
……そうか。こういうやりとりも、久しぶりだな。
それこそ、赴任してすぐのころ、彼女を送りに行ったあの夜以来。
受け取った茶碗を手に、改めておかずへ箸を伸ばす。
その様子を、絵里ちゃんと純也さんが揃って笑っていたとは気づかなかった。
多いと思っていた料理も、話しながら食べていたらあっという間に片付き、あとには空になった皿が残っているだけ。
うまい飯は、文字通り箸が進むものなんだなと思う。
「さー、ケーキ食べよ」
「……お前、まだ食うの?」
「何言ってるの? 今食べなくていつ食べるのよ。だいたい、純也食べないんだから私ひとりになっちゃうでしょ? やー、無理無理。いくら好きでも無理だわ」
いそいそとキッチンへ行った絵里ちゃんは、あのケーキの箱と皿を手に戻ってきた。
それを見るだけで、さらに満腹感が増す。
「そんなもん目の前で食われると、余計苦しくなるからやめてくれ」
「食べない人は黙ってなさい」
「……よく食べれるな……」
箱を開けた途端、いかにも甘いチョコレートの香りがして、さらに満腹になる。
香りの効果は、意外と大きい。
これがコーヒーの香りだったら、また違っただろうに。
「あ、どうせなら羽織、持って帰らない?」
「え?」
「孝之さん、好きでしょ?」
「でも、絵里食べれるでしょ?」
「いやいやいや、さすがにこんなワンホール食べれるわけないじゃない。孝之さんなら、がっつりひとりで食べれるかもしれないけど」
「「確かに」」
緑茶を飲みながらついうなずくと、同じタイミングで羽織ちゃんとハモった。
だよね。
そう言う代わりに笑うと、彼女も久し振りに俺を見ていつものように柔らかく笑う。
「絵里ちゃん、孝之のこと知ってるの?」
「私、もともとは、羽織の家の近くに住んでたんです。だから、小さいころから見てますよー、イケメンなお兄様」
「なるほど」
どうりで、アイツの情報が出てくると思った。
対する純也さんは『羽織ちゃんの兄貴』程度しか情報がないらしく、自分とは高校時代から付き合いがあることを補足した。
「んー……おいしい」
「……はぁ……幸せだね」
「ほんとほんと」
ふたりで食べたのは、4分の1程度。
ということはそれ全部、孝之に行くのか。
いや、さすがにない……とは言い切れないか。
あいつなら、もらってすぐと朝食で片付けそうだ。
「……見てるだけで胸焼けする」
「わかります、それ」
しわわせそうに食べるふたりを見つつ、純也さんと緑茶を呷る。
だが、匂いはチョコレートなわけで、なんとも複雑な気分だ。
「あ、そうだ。これ……」
「え?」
渡すのをすっかり忘れていた、根付のうさぎを思い出し、手のひらごと差し出す。
すると、羽織ちゃんも『あ』と反応した。
「よかった……! これ、なくしちゃったのかと思って、すごくショックだったんです」
嬉しそうにまじまじと見つめてから鍵を取り出し、取れてしまった紐にもう一度付け直す。
そして、きちんと取れることなく収まるったのを見て嬉しそうに微笑むと、改めて笑みを浮かべた。
「本当にありがとうございます」
「いいえ。喜んでもらえてよかった」
いつも通りの笑みを見ることができて、ついこっちも笑みが浮かぶ。
朝は……このやりとりができなかった。
いや、今まではと言うべきか。
「やっぱり、祐恭先生はそうやって笑ってるほうがいいですよ」
「……え?」
よく、男が女に対して使う言葉でありーー以前、俺が彼女に言ったセリフ。
まさかこんなところで返されるとは思わず、目が丸くなった。
「……そうだな。うん、そうかもしれない」
前までは、こんなふうによく笑う人間じゃなかった。
それこそ、冬瀬高校へ赴任していた去年までは、ありえなかった姿。
にこにこ笑うことなく、淡々と授業をこなすのが常。
それもあって、生徒受けはそこまでよくなく、どちらかというと『厳しい』側に立っていたように思う。
にっこり笑った彼女を見ていたら、笑みが浮かぶから不思議だ。
いや、不思議じゃないな。
その表情は、つられるような笑みなんだから。
そんな自分たちのやり取りを見ながら、純也さんたちが顔を合わせて微笑んだのは、そのすぐあとのことだった。
結局、純也さんにマンションまで送ってもらい、そのあとは羽織ちゃんを送るからとその場で別れた。
いつもどおりの彼女。
プライベートで会うことはないと思っていただけに、たとえふたりきりじゃなくても十分に嬉しかった。
「……うまかったな」
以前、彼女の家で食べたものもうまかったが、今日の料理はまた違ったうまさがあった。
反芻のように呟いてからマンションに入り、ふと先ほどの彼女の言葉を思い出す。
『笑っているほうがいい』
あんなふうに言われたのは、人生で初めて。
「………………」
自分の中の彼女への感情が形を変えていくことに抵抗や迷いを感じる必要は、そこまでないとわかった今。
あとは……どう動けばいいか、だけか。
ふと夜空を見上げると、この時期には珍しく星がいくつも見えた。
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