「はー……もう日本史やだ……」
「あはは。羽織ってば文系得意のクセして、ホント日本史苦手ね」
本日、期末テスト1日目。
今日のテストはすべて終わり、すでに教室をあとにしている子たちも少なくない。
「……ん?」
机へ半ば突っ伏すようにして外を見ていると、何やらすごい勢いで中野さんが渡り廊下を走っていくのが見えた。
「……ねぇ」
「んー?」
帰りじたくをしている絵里にそのままの姿勢で声をかけ、起きあがってから指をさす。
「……中野さん、実験室に行ったんだけど……なんだと思う?」
「え? 中野がぁ?」
嫌そうな顔をした絵里もどうやら彼女の姿を見つけたらしく、さらに嫌そうな顔を見せた。
「また、祐恭先生にちょっかいでも出しに行ったんじゃないの?」
「……でも、この前フラれたんだよ?」
「何、あの子告白したの!?」
「うん」
内緒にしておこうと思ったけれど、とっさにうなずいてしまったので、仕方ない。
黙っておいてねと付け足すも、絵里は腕を組むと改めて実験室のほうへ視線を向けた。
まるで、何かを心配でもするかのように。
「ヤバいんじゃない?」
「何が?」
「だってあの子、純也にフラれたとき無理やり迫ったのよ?」
「え!? ……ホント?」
「ウソつかないわよ。私、現場押さえてケンカしたんだから!」
そういえば、しばらく絵里と中野さんが些細なことでも言いあいをしていたのを思い出す
――どうしよう。
途端に血の気が引く。
「あ、羽織!?」
「ごめんっ! ちょっと、行ってくる!」
いてもたってもいられない、というのはこういうことなんだ。
片付けをしていた鞄をそのままに教室を飛び出すと、絵里が声をかけたけれどーー振り返ったら、『がんばんなさいね』と励まされた。
「うんっ」
正直、何をどうがんばればいいのかはわからないけれど、でも、やれることはやっておきたいし、不安なことは拭っておきたい。
今誰かに会ったら『廊下を走るな』と叱られそうだけれど、今日……ううん、今だけは破ります、ごめんなさい。
ぱたぱたと渡り廊下を駆けて曲がると、ちょうど中野さんが実験室へ飛び込むところだった。
嫌な予感はしたの。
この前の、積極的な彼女が脳裏をよぎる。
……そして、絵里の忠告も。
実験室への廊下が、やけに長く感じられた。
「っ……!」
やっとのことでドアに辿り着くものの、ノブがうまく開かない。
まどろっこしさを感じながら勢いよくドアを開くと、彼女はいた。
祐恭先生の両腕をつかみ、無理やりに距離を詰めながら。
「……何してるの……?」
ありえない距離の近さに、嫌な気持ちになった。
彼女が許されていいはずない。
もちろん、それは私とて同じだけれど……でも、嫌だ。
擦り寄るようにした彼女を見て、思わず唇を噛む。
「あなたには関係ないでしょ?」
「ねぇ、こんなことしていいと思ってるの? いけないってわかってるでしょ?」
「ちょっ……やめて! 離して!」
彼女の腕を取り、彼から引き離す。
だけど、彼女はしがみついたまま離れようとしなかった。
許されていいことじゃないのに。
なのにどうしてーー。
「ねえ、やめてあげて!」
「ッ……瀬那さんには関係ないでしょ!?」
「っきゃ……!」
両手で彼女の腕を掴んだ瞬間、身体ごと突き飛ばされた。
テーブルの角に当たりーーそうになったと気づいたのも、当たらずに済んだのがなぜかというのも、腕を伸ばした彼がつかんでくれたからとわかったのは、目を開けてからのこと。
「……祐恭先生……」
「こんな場所でやることじゃないな。角が多くて、ただの怪我じゃ済まないよ」
「私っ……だって私……!」
彼が私を引き寄せたことで、中野さん自身が離れた。
ふるふると首を振り、一歩ずつ後ずさる。
「だって私、先生のこと好きなんだもん!」
「その気持ちは、俺だけに向いているものじゃなくて、先生方全員に向いてるんじゃなくて?」
「そんなことないです!」
「そう? 日永先生も心配してたよ。この間、ALTの先生へ絡んだんだって?」
「あ……あれは……違うんです。ただ……」
「学校は恋愛するための場所じゃないよね? 3年生の今、必要なことは何?」
「ッ……もういいです!!」
静かに諭すように続けた祐恭先生の言葉で、中野さんがきびすを返した。
……知らなかった。
まさかALTの先生にまで手を出そうとしていただなんて、それはさすがに日永先生も困ってるだろうなぁ。
こめかみに手を当てながら、『シワが増えるわ』と悩んでそうな顔が思わず頭に浮かんだ。
「わっ!」
わざとぶつかってきそうになった彼女を寸ででかわせたのは、祐恭先生が肩を引いてくれたからだとわかって、それも嬉しかった。
……わ、近い。
廊下を走っていった彼女を見ていたら、小さく『あとで日永先生にも伝えないとな』とひとりごちたのが聞こえて、ふいに見上げる。
「…………」
守ってくれたこともそうだけれど、私のほうに立ってくれたことも嬉しかった。
「っ……先生、そこ……」
「え?」
普段見ない角度から見上げたせいか、ふと、首筋に斜めに赤い線が入っているのに気づいた。
思わず手を伸ばしてしまったものの、傷だとわかり、眉が寄る。
……引っかき傷みたい。
となると、思い当たるのはひとつ。
「中野さんに何かされました?」
「あー……まあ、少しね。でも、身長差もあるから最小限で済んだとは思うけど」
「……痛そう……。大丈夫ですか?」
「平気。俺より、羽織ちゃんはーー」
「私は大丈夫です。だから、私より……祐恭、先生……?」
いつの間にか、じゃなかった。
首筋へ手を伸ばしたとき、つい、彼の胸元へもう片手を添えていたと気づいたのは、握ってもらえたときになって。
だから、知らなかったの。
祐恭先生が、私の頬へ手を伸ばそうとしていたなんて。
「せん、せ……」
こくりと喉が動き、視線がひたりと張り付く。
眼鏡越しの瞳は、まっすぐに私だけを見ていて。
……なんだろう、すごく、どきどきする。
逸らせない力を感じてか、どきどきは高まるのに苦しくなかった。
「っ……」
頬に触れた指先が、熱く感じた。
急速に鼓動が速くなるのもわかる。
いつもと同じはずなのに、どれも同じではなく、彼の動作ひとつひとつにどきりとした。
「…………」
「…………」
ゆっくりと、顔が近づく。
これからどうなるのか。
彼が……何をしようとしているのか。
すべてを悟ったうえで……ただ、彼を待つ。
その瞬間は、自分の思った以上にゆっくりと訪れた。
「っ……」
祐恭先生の唇が、ゆっくりと触れる。
まさか、こんなことが起こるなんて、教室を飛び出たときは考えもしなかった。
受け入れてもらえるなんて、これっぽっちも……期待してはいたけれど、絶対に叶わないと思っていたのに。
ずっと憧れで終わると思っていたのに。
「……あ……」
優しい瞳が。
唇が。
今、すぐ目の前にあって、そして今――……彼と口づけた。
感じた温もりが離れたのを感じ、目を開ける。
すぐそこに、彼はいた。
優しく、そして溶けてしまいそうな眼差しで。
「……せんせ……」
「ごめん。でも……」
「っ……」
「もう少しだけ、このままで」
抱きしめられて囁かれた言葉は、とても甘く聞こえた。
好きな人に抱きしめられることが、こんなにも心地いいものだなんて、知らなかった。
……ううん。
好きな人に、好きになってもらえることの喜びも、私は知らなかった。
「行動したから……変わったかな」
少しだけ身体を離した彼が、とても近い距離で笑う。
腕の中にいる、今。
嘘みたいで、夢みたいで……だけど、現実で。
……不思議な距離。
とても近いのに……ううん。だからこそ、ちょっとだけくすぐったい。
「あのときの返事、遅くなってごめん」
「あ……」
「俺にとって大事な人なんだ。……羽織ちゃんは」
まっすぐ見て微笑まれ、思わず喉が鳴った。
自分をそんなふうに見てもらえていたなんて、思ってもいなかった。
実感するまで少し時間がかかったけれど、これは現実……。
ゆっくりと言葉が身体に染みわたるとともに、なぜか涙が溢れる。
「……え、羽織ちゃん……?」
「ち、がっ……違うんです、そうじゃなくて……ごめんなさい、だって……すごく嬉しいんだもん……!」
慌てたように顔を覗きこんだ彼へ、慌てて首を横に振る。
やっとそれだけを呟き、ゆっくり顔をあげる。
ひどい顔をしているだろう。
涙をこらえようと必死なのに、溢れてくる涙。
だけど、そのままの顔で彼を見る。
素直な自分の気持ちを、伝えたかった。
「だって私……先生のことが好きなんです……」
「……ありがとう。俺も好きだよ」
なんて優しく笑ってくれる人なんだろう。
改めて抱きしめられ、髪を撫でられる。
すごくすごく優しくて、これは本当のことなんだろうかと不安になるほど。
夢じゃありませんように。
ずっとこれからも続きますように。
そんな願いを込めて、彼の胸元で瞳を閉じずに身体を預けた。
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