「っ……」
祐恭先生が両手で頬を包み、真正面から目が合う。
「ぅ……変な顔だから……やだ……」
「かわいいよ」
ちゅ、と頬に口づけた彼が、くすくす笑って指先で涙をぬぐってくれた。
大きな手のひら。
自分とは違う、感触。
……夢みたい。
今まで、ドラマや映画だけだと思っていた仕草を急に実感し、なんだかふわふわする。
嬉しい。だけど、くすぐったい。
……でも、やっぱり嬉しくて、自然と笑みが浮かんだ。
「もう一度……ダメ?」
「っ……」
ぽつりと耳元に響く、小さな声。
もう一度。
それが何を指すのか一瞬わからなかった。
だけど――。
「……だ……」
「ん?」
「だめじゃ……ないです」
さすがにまっすぐ目を見て言うことはできず、視線が落ちた。
どくどくと身体中が鳴っているみたいに、心臓がうるさい。
小さくちいさく口にしてから、頬を赤くしたまま首を振り、彼の胸に手を添える。
望まれることは、応えたい。
それに、彼が言う『もう一度』は、私にとっても『もう一度』だろうから。
「……っ」
大切なものを扱うかのように頬に触れた彼に、つい、と上を向かされた。
再び近づく、彼の顔。
いいのかな……本当に、私で?
瞳が合ったとき、一瞬そんな考えが浮かんだけれど、彼が言う『もう一度』が先に訪れて、それ以上考えることはできなかった。
「……ん……」
さっきとは、違う。
唇を重ねるだけのキスではなく、舌先で唇を舐められ、ぞくりと身体が震えた。
し、らない……っ……こんなの。
意図せず漏れた声に、自分でも驚いた。
こんな声が出るなんて、思いもしなかった。
憧れはあった。
大好きな人に抱きしめられて、たくさんキスをされることを。
だけど、ただ唇を重ねるだけのキスも知らなかったのに、1日に、それもいっぺんに経験しちゃっていいのかな。
……すごく、大人になった気分。
でも、いいんだよね……?
ひとつひとつ、大好きな人に教えてもらってるんだから。
「……ふ、ぁ……」
「大丈夫?」
「ぅ……大丈夫、です」
くらくらする。
ふいに足から力が抜けたところを、祐恭先生が支えてくれた。
どきどきして苦しくて、視線が合わせられない。
だめ……普通に立ってられない。
足に力が入らない上に、鼓動が早い。
息苦しいよりも、ずっとずっと苦しくて。
どきどきして、死んでしまうんじゃないだろうか。
キスをされる前よりも、されたあとのほうがどきどきするのは、どうしてなんだろう。
彼に抱きしめられながらそんなことを考えると、瞳が閉じた。
「…………」
――どれくらい経ったのかな。
きっと、数分しか経っていないと思うけれど、随分と長い間のように感じられた。
初めてのキス。
それも、ずっと好きだった人と。
叶うことがないと思っていたことが、突然成就してしまった。
少しだけ、いいのかな? と、戸惑ってもいる。
だけど、今はこの運命……うん、運命、だと思う。
私、こんなに幸せでいいのかな。
彼に抱きしめられたまま噛みしめるように笑うと、頭のうえで声が聞こえた。
「……孝之に、あいさつしに行かなきゃな」
「え?」
気まずそうな声にゆっくり顔をあげると、苦笑する彼と目が合った。
「教師と生徒ってのもあるけど……何より、あいつの妹だからね」
「……う」
お兄ちゃんに報告。
そう思うと、ぎくりと身体が強張った。
だって、冗談半分とはいえ、祐恭先生のこといろいろ言われてたんだもん。
……お兄ちゃん、どう思うのかな。
少しだけ湧いた、不安。
でも、私の気持ちが伝わったのか、彼の腕に力がこもった。
「軽い気持ちで応えたわけじゃないから、わかってもらうように動くよ」
「先生……」
嬉しかった。
たとえ誰になんと言われても、今、目の前の彼は嘘をついているとは思えなかったから。
その気持ちに応えるように、改めて笑みが浮かぶ。
「大好きです」
「ん。俺もだよ」
もう一度彼への思いを口にすると、彼は優しく髪を撫でてくれた。
自分が、“噂の恋愛”に陥るとは思わなかった。
ましてや、成就するとも、本当のことだとも……思わなかったのになぁ。
絵里のような子が、特別なんだと思ってた。
だけど、実際……こうして自分の身にも起きたわけで。
先生のことを好きになって、それが実るだなんて思わなかった。
そしてーー強く願えば、現実になるってことも。
「……お前、本気で言ってんの?」
目の前にいるのは、いつもと何もかもが違うお兄ちゃんだった。
リビングでは普段吸わないのに、ゆっくりと煙草の煙を吐き、まるでお父さんかのように振る舞う。
「冗談で言ってるつもりはないけど」
「……そりゃそーだろーけどよ。にしたって、急すぎねぇ? お前ら、まだ会って3ヶ月……ンだよ」
「いや、お前が出会ってどうのとか言うんだ、と思って」
「うるせぇな」
くっくと笑った祐恭先生に対して、お兄ちゃんはあからさまに舌打ちをすると嫌そうな顔をした。
早いほうがいい、と祐恭先生に言われて、早速その日のうちに彼が家まで来てくれたんだけど……なんだかこう、すっごく居心地が悪い。
「つーか、いいのか? お前、今まで年下と付き合ったことねーだろ?」
「ああ。でも……惹かれたから、仕方ないだろ? 理由なんてない」
「っ……」
眉を寄せたお兄ちゃんに対して、祐恭先生はにっこり笑った。
そのとき、ふいに目が合い、柔らかく笑われてどきりとする。
……顔が熱い。
それは、あのときのキスを思い出したせいっていうのもある。
「ま、お前が弟になるなら都合いいけど」
「弟にはならないだろ。同い年なんだから」
「馬鹿か、敬え。コイツの兄貴だぞ?」
「そうは言ったって、もともと知り合いなんだからそっちの関係が優先だろ?」
「ンでだよ。俺の言うこと聞けって」
「断る。なんで俺がお前の言うこと聞いてやらなきゃならないんだよ」
眉を寄せて言い合い始めたふたりが、なんだかだんだん不穏な雰囲気になってきたんだけどどうしよう。
ていうか、それって……私のこと、関係ある……?
しまいには『お前あンとき自販機でーー』などと因縁めいたことをお兄ちゃんが言い出し、違う方向へ行きすぎてある意味ハラハラした。
「はー……まぁいいや。ガチで付き合うなら、俺より言わなきゃなんねー相手がいんだろ?」
「いや、それは……当然だけど。でも、その前にお前が先かなと思って」
「まぁな。……でもまさか、お前が本気でコイツと付き合うとはね。羽織がお前を好きになるだろうなとは思ってたけど」
「え! なっ……なんで!?」
くっくと笑われて聞こえたセリフに、思わずかぁっと頬が熱くなった。
え、どうして、なんで?
慌てふためくものの、お兄ちゃんは肩をすくめて2本目の煙草を取り出す。
「あンときの反応見てりゃ、わかる」
「反応?」
「こないだ……つっても大分前だけどな。ウチで飯食ったとき、お前祐恭のことすっげぇ見てたろ?」
「え! う……それは……そうかもしれないけど」
「わかりやす過ぎなんだよ、お前。ダダ漏れだぞ」
「……うぅ」
ため息混じりに言われ、さすがに恥ずかしかった。
でも、そんな私を祐恭先生はまじまじと見つめーー。
「っ……」
「ありがとう。好きになってくれて」
「……先生……」
「そーゆーのはよそでやれ」
ふわりと頭を撫でてくれた瞬間、お兄ちゃんはものすごく嫌そうに舌打ちした。
「お前、卒業だけはちゃんとしろよ」
「当たり前でしょ! もぅ。私、高校生なんだから」
「……それはどっちかっていうと、俺に言ってるだろ。お前」
「別に。ただ、義務は果たせよって意味」
「彼女に言うのは少し違うんじゃないか?」
「違わねーだろ。単位落としたら卒業できねぇじゃん」
「う……」
祐恭先生とお兄ちゃんが話していたものの、単位というセリフでぎくりと肩が震える。
勉強。
ああ……思い出しちゃったけど、明日はテスト2日目。
しかもしかも、苦手な科目がある。
「ちゃんと勉強しろよ」
「するもん……」
「あ? なんで初っぱなから泣きそうなんだ、お前」
「……あ。明日2日目だ」
「うぅ……」
「っち。めでてーなお前ら。ちったぁ現実見ろ」
舌打ちしたお兄ちゃんのセリフで、急速に現実へ引き戻される。
祐恭先生と付き合うことができるようになったのは、すごくすごく嬉しい。
でも……そうだよね。
私はまだ学生なんだから、やることをきちんとしなければ、誰からも認めてもらえなくなる。
勉強は得意と言い切れないけれど、でも、努力したい。
「…………」
好きな人には、よりよく見せたい。
ちらりと彼を見つめていたら、ふいに目があった。
しかも、真剣な眼差しに。
「え、と……」
「明日の化学、ワークの見直しした?」
「え」
「さすがに具体的には教えてあげられないけど、範囲内なら質問受けるよ?」
「せ、んせい……?」
両肩をつかまれ、ごくりと喉が鳴る。
それって、えっと……勉強のことですよね。
今の今までの雰囲気とはまったく違う様子に、思わずまばたくとお兄ちゃんが笑った。
「ちょうどいい。勉強見てもらえ」
「えぇ……!?」
「いーじゃん。お前も責任取る必要あるだろ?」
「もちろん。俺の教科だし、できる限り協力はするから」
「ええぇ……っ……!?」
真剣な眼差しの祐恭先生と、確実におもしろがっているお兄ちゃんと。
その対比を見ながら、情けなくも眉が下がった。
……うぅ。嬉しいけれど、素直に喜べないと言うか……現実を突きつけられた気分。
今日のことは夢じゃないんだよね? 事実なんだよね?
そうは思いながらも、『教科書ある?』と祐恭先生に言われ、動かないわけにもいかず。
結局、夕食をつまみながらも、リビングで明日のためのプチ勉強会が繰り広げられることになった。
……なんでこんなことに。
お兄ちゃんはお兄ちゃんで茶々入れるだけじゃなく、途中からお酒飲み始めるし、収拾がつかなくなったのはいうまでもない。
記念すべき日、なんだけどなぁ……。
まぁ確かに、こんな日が来たこともある意味記念なんだけど。
目の前で話し込むふたりを見ながら、小さく笑みは漏れた。
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