「おはようございます」
「あら、祐恭君ー。久しぶりねぇ」
 頭をさげてきちんとあいさつをすると、見慣れた女性がにこやかに迎えてくれた。
「ごめんなさいね、まだ孝之寝てるのよー。悪いけれど、あがって起こしてもらえる?」
「あ、わかりました。それじゃ、お邪魔します」
「どうぞー。あ、そうそう。朝ごはん食べた? もしよかったら、一緒に食べてってね」
「え、いいんですか? ……助かります。それじゃあ、ぜひ」
 笑顔でそう答えると、お袋さんが嬉しそうにキッチンへと戻っていった。
 現在、朝7時。
 勝手知ったる瀬那家の朝に、自分はいた。
 ゆっくり階段を上がっていくと、見慣れたドアがふたつ。
 ひとつは、無断で入れる部屋への扉。
 ――……だが、もうひとつはまだ知らぬ、未知の世界への扉である。
 今回の目的は右の扉。
「…………」
 だが……なぜか自然に、左の扉へ手が伸びた。
 そっとノブを回すと、薄暗い室内が見える。
 一歩踏み出そうとして少し思いとどまったが、やはり自分の気持ちを抑えることはできなかった。
 寝顔を見るだけ。
 ……いや、孝之のついでに起こすだけ。
 そう自分に言い訳しながら、足音を忍ばせて進む。
「……ん……」
「っ……」
 規則正しい寝息と、小さな声。
 普段は決して聞けないものだけに、喉が鳴った。
 鼓動が一気に早くなる。
「…………」
 そっとベッドを覗きこむと、瞳を閉じて無邪気に眠る彼女の姿があった。
 まさに、無警戒。
 手を伸ばせばすぐに届く距離だ。
「………………」
 ベッドに腰かけ、寝顔をまじまじと見つめる。
 かわいいな――と思ってしまったから、マズい。
 朝から見てはいけないものを見た気分だ。
 もし理性と相談するのであれば見ないほうがよかったと言われるだろうが、いまさらもう遅い。
「……っ……」
 彼女の頬へ手を伸ばす――が。
 つ、と指先がほんの少しだけ触れた瞬間、こっちに背を向けてしまった。
 無意識だということはわかっている。
 わかってはいるが、ドキドキさせられるワケで。
「……起きてるのか……?」
 眉を寄せてもう1度顔を覗くものの、やはり先ほどとなんら変わらず眠る安らかな顔。
「……はぁ」
 息を吐いてからベッドの奥に手をつくと、彼女を見おろすかたちになった。
 少しかがめば、唇が届く距離。
 若干いろいろな考えが脳裏をよぎるが、やはり自分は男で。
「…………」
 左手を彼女の頬に当て、そのまま上を向かせる。
 少し開いた唇が、なんとも艶っぽかった。
 引き寄せられるように顔を近づけ、そのまま軽く口づけを落とす。
 ……ゆっくりと。あくまで、軽く。
 だが、無意識のうちに、それはより深いものへと変わっていた。
「……ん……」
 喉から声が漏れたところで、ゆっくり顔を離してみると、眠たげな彼女と目が合った。
「……っ! せ、先生!?」
 一瞬何が起きているのか飲み込めないようでまばたきを繰り返していたが、慌てたように起き上がって口をぱくぱくさせた。
 こういう反応は、楽しい。
「起きた?」
「……な、な……っ!? ど、どうしてここに!?」
「いや、孝之を起こすように頼まれたんだけどね。ついでだから起こそうと思って」
 にっこり笑うと、眉を寄せた彼女が慌てふためいた。
 そういう、まさに“素”の彼女も、イイもんだなと改めて思う。
「だ、だって! 私、まだ着替えてないし……わ! 髪の毛だって、ぼさぼさで……!」
 あわあわする彼女があまりにも予想どおりの反応をしてくれるから、こらえていたのに笑いが漏れた。
 それでも、眉を寄せたままの彼女を引き寄せ、頬に唇を寄せる。
 途端、目を合わせて困ったような顔をしたが、もちろん気にはしない。
「いいじゃない、そのままで。十分かわいいよ」
「っ……せんせ……」
 ちゅ、と音を立てて頬に口づけしてから、立ちあがって扉へ。
 すると、相変わらず困った顔のままで彼女がこちらを向いた。
「今日は遅刻しないで済みそうでしょ? 着替えたら降りておいで」
「……はい……」
 顔を赤くしたまま小さくうなずくのを見て、つい満足げに笑みが漏れた。
 手を振ってから廊下へ向かう――ものの、あることを思い出して再び戻ると、彼女も驚いたらしく瞳を丸くした。
「そうそう」
「え?」
「寝相は直したほうが、安心かな」
「ぅ……」
 ベッドから降りようとした格好の彼女に苦笑を見せ、自分の胸元へ親指を立てて続ける。
「ボタン。開いてるよ」
「……えぇっ!?」
 慌てて確認した彼女にも、どうやら2番目のボタンがしっかり開いているのがわかったらしい。
「っ……」
 ぎゅっと自分を抱きしめるようにしたその姿が、かわいくもおかしくて。
 後ろ手でドアを閉めてから廊下に出ると、やっぱりまた笑っていた。

「どんどん食べてね」
「いただきます」
 家族4人に混ざっていただく、瀬那家の朝食。
 相変わらず、お袋さんの作るごはんはおいしかった。
「ったく、タダ飯かよ」
「もー何言ってんの! あんた、祐恭君に迷惑かけてばっかりじゃない」
 ぺし、とお袋さんが孝之の頭を軽く叩き、睨まれたところでまったく気にせずに箸を進める。
 やはり、昔から強いままだった。
「それにしたってお前、もーちっと優しく起こせねーの?」
「社会人は自分で起きるものだろ?」
「……だからって、蹴落とすか?ふつー」
「お前はそれくらいしないと起きないじゃないか」
 ぶつぶつと文句の矛先を俺に変えた孝之が、納豆を混ぜながら悪態をつく。
 それにしたって、もう少し自己管理をきちんとすればいいのに。
「そうそう、祐恭君。どうかね? 羽織は」
「ッ……ごほっ!」
「あらっ、大丈夫?」
 味噌汁を口にしたとき、親父さんに唐突な質問をされた。
 予想外のことだっただけに、むせこむ。
「……ど、どうと言われますと……」
 しどろもどろに彼を見ると、にこにこ笑って話を続けた。
「いやー、まさか君が羽織の副担任をしているなど思わなかったからね。どうかね? 真面目にやっているかな?」
「……あ、ああ! ええ、もちろんです。きちんとした態度で授業も受けてますよ」
 先ほどとは打って変わって、真面目な質問。
 勘違いもいいところじゃないか、俺は。
 まったく違うことを聞かれているのかと変換した自分を制し、乾いた笑みを浮かべながら内心冷や汗をかいたところで、もう1度味噌汁の椀を口に運ぶ。
 すると、にこにこ笑みを浮かべたままで、再び親父さんが口を開いた。
「そうか、それはよかった。で、どうかね? 羽織は。彼女としてちゃんとやっているかな」
「ぶっ!!」
「えぇ!?」
「ぶわ!? ちょ、おまっ……! おい祐恭! 何すんだよ!!」
 口に含んだ味噌汁を思わず孝之に向かって噴き出し、ごほごほとむせる。
 まさか、こんな質問が出てくるとは思わなかった。
 なぜならば、まだ彼女の両親には付き合っていることを言っていないのだから。
「お……お、お、お父さん!?」
 慌てたのは、彼女も同じ。
 どうやら、まだ言ってないようだ。
「いやー、昨日絵里ちゃんに会ってね。彼女が教えてくれたんだよ」
「……うぅ。絵里ってば……!」
「で? どうなのかね。ちゃんとやってるかい?」
「え!」
 彼女の呟きには耳もかたむけずに見つめられ、思わず口が開く。
 困った。
 ……それこそ、ものすごく。
「……はい。その、もちろんです」
 というか、ご報告が遅くなってしまって、本当に申し訳ありません。
 しっかり箸を置いてから重ねて告げると、あまりの気まずさから声が掠れた。
 まさか、こんなことになるなんて。
 ……先ほど彼女へしたことの、天罰だろうか。
「なんだか、懐かしいわねぇ。お父さん」
「ん? ああ、そうだなぁ」
「まるで、昔の自分たちを見てるみたいだわ」
「え?」
 照れながら彼へもたれる、お袋さん。
 その仲睦まじさに、思わず目が丸くなった。
 だが、どうやら驚いているのは自分だけらしく、この家の子息子女はいたって平然としていたが。
「……あら。いけないいけない」
 固まっている自分に気付いたらしく、ふたりが姿勢を正した。
「うふふ。実は私たちもね、先生と生徒だったのよー」
「え!? そうなんですか?」
 まったく知らなかった情報。
 それにまた瞳を丸くすると、羽織ちゃんが説明してくれた。
「お母さんが高校3年生のときにきた先生が、お父さんだったんですよ」
「……へぇ」
 まさか、彼女の両親が教師と生徒という関係だったとは。
 だが、それを聞いて少しほっとする。
 どうりで、寛容なわけだ。
「祐恭君」
「っ……はい」
 名前を呼ばれて顔をあげると、ふたりそろって微笑んでいた。
 慌てて背を正し、向き直る。
「娘のこと、よろしく頼むよ」
「お願いね」
「……もちろんです」
 真剣な面持ちで答えると、ふたりは顔を合わせて嬉しそうにうなずいた。
 それが、正直に嬉しい。
 まさかこんなかたちで報告することになるとは思ってもいなかったが、いいとしよう。
 自分とて、なるべく早いうちに報告するつもりだったのだし。
 なんといっても、相手が相手。
 自分を昔から知っている人たちなんだから。
「ごちそうさまでした」
「ごっそさん」
 孝之と羽織ちゃんも、立ち上がって食器を片付けてから、それぞれ支度に向かう。
 そのふたりが戻ってくるまでの間、お袋さんたちは昔話を少し聞かせてくれた。

「祐恭先生」
「ん? あ、ごめん。今どくよ」
 支度を終えたらしい彼女が階段を降りてきてすぐ、俺に声をかけてきた。
 靴を履いて立ち上がってから場所を開け、にっこり振り返る。
 ……が、そうではなかったらしく、慌てて『違うんです』と手と首を振った。
「ん?」
「……ええと……あの」
 少しだけ顔が赤く見えるのは、はたして気のせいだろうか。
 目が合ったかと思いきや逸れ、また合っては逸れ……の繰り返しだったが、ようやく意を決したかのように、まっすぐ俺を見つめた。
「……祐恭先生でよかった」
 ぽつりと呟かれた小さな言葉ながらも、はっきりとした想いがそこには詰まっていて。
 思わず目が丸くなるとともに、笑みが浮かんだ。
「そう思ってもらえて、よかったよ」
 うまく行きすぎているだろうか。
 そう思うほど、いろいろなことがありがたい方向に回っている。
 ……幸せ、ってのはこういうことかもな。
 今まで経験したことのないタイミングのよさや、受容してもらえる感覚。
 それが、心地いいと素直に思う。
「あー、ワリ。んじゃ頼むな」
「ああ。図書館にそのまま行けばいいんだな?」
「そそ。車は置いてあるし」
 バタバタと勢いよく階段を下りてきた孝之のせいで、会話がそこで途絶えた。
 ……相変わらず、空気を読まないな。お前は。
 まぁ、仕方ないと言えば仕方ないんだが。
 慌ただしく靴を履き、リビングに声をかけて先に外へ出た孝之に続き、自分も声をかける。
「ご馳走さまでした」
「いーえー! またいつでも来てねー」
 顔だけひょっこり覗かせて応えてくれたお袋さんは、すぐにリビングへ戻って行った。
 すると、靴を履いて隣に並んだ彼女と目が合い、自然と笑みが浮かぶ。
「羽織ちゃんはどうする? 乗っていく?」
「あ、ううん。大丈夫です。バスがあるから」
「そっか。それじゃ……気をつけてね」
「はい。……先生も」
 にっこり笑ってうなずいた彼女が、素直にかわいかった。
 ……が、このままというのも少しだけ惜しい気がする。
「…………」
「え……? っ!」
 あたりを見回してから――そっと顔を近づけ、唇へ口づける。
 一瞬だけの温もり。
 ゆっくり顔を離すと、驚いて目を見張る彼女がいた。
「行ってきます」
「……あ……。行って、らっしゃい」
 少しだけ顔を赤くして見上げた彼女の頭を撫で、先に玄関を出る。
 すると、すでに外階段の下にいた孝之が腕を組んでいた。
「遅いよ、お前」
「悪い。ほら、ベルト」
「わかってるっつーの」
 駆けるように階段をおり、運転席へ乗り込む。
 ……しかし、我ながらいい朝の過ごし方だったな。
 思わずそんなことを考えると、つい頬がゆるみそうになった。

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