「あら、おはよん。羽織」
「ねぇ、絵里。どういうこと?」
「何が?」
 おはようのあいさつもせずに絵里へ詰め寄ってから、眉を寄せる。
 だけど、まったく気にしていない様子で絵里は笑みを浮かべた。
「どうして、お父さんに付き合ってること言ったりしたの?」
「え? ダメだった? だって、羽織のお父さんが『祐恭君みたいなのが彼氏だったらいいんだけどねぇ』って言ったからさー」
「……へ……?」
「だから、『あらやだお父さま! あのふたり付き合ってるんですよ』って教えてあげたの」
 どこか芝居がかった口調で答えた彼女に、ただただ呆然とするばかり。
 ……まさか、お父さんまでもがお兄ちゃんと同じようなことを言っていたとは思いもしなかったのだ。
「お父さんてば……」
 思わずため息をつくと、教室内に声が響いた。
 もちろん、今話題にしていた、その人の。
「それじゃあ、席についてー」
「っ……」
 弾かれるように顔をあげると、祐恭先生が入ってきたところだった。
 その顔を見て、つい頬が熱くなるのがわかる。
「筆箱以外は机に片付けてから、回すこと」
 彼が手に持っていたのは、テスト用紙の束。
 器用に枚数を数えて配り始めた彼が、顔を上げる。
「時間になったら、各自表に返して始めるように」
 そう声をあげると、解答用紙に続いて問題用紙も裏返しに配り始めた。
 今日の1時限目は、古典。
 担任の日永先生が古典を受け持っているということもあって、赤点はさすがに取れない。
 とそのとき、わずかに扉が開いた。
「……日永先生?」
「すみません、ちょっといいですか?」
 苦笑を浮かべて彼に小さく頭をさげると、首だけをドアから突っ込んだ彼女が、キッと私たちを見た。
 その迫力たるや、なんとも言えないモノがある。
「いーい? あんたたち、赤点なんか取ったら許さないからねぇ」
 ニヤリと笑ったかと思いきや、再度彼に一礼した彼女が廊下を駆けて行くのが聞こえた。
 一瞬の出来事だったものの、彼も含め、それぞれになんとも言えない苦笑が浮かぶ。
「日永先生もああおっしゃってることだから、みんながんばるように。それじゃ、始めー」
 チャイムと同時にかかった彼の声で、一斉にプリントを翻す音が室内に響いた。
 ……冗談抜きで、がんばらないと。
 改めて気合を入れなおし、問題文に視線が落ちた。

 どれぐらい経っただろうか。
 1枚目の問題を終えて2枚目を翻したとき、ふと気になって顔を上げる――と。
 そこには、教卓の隣に椅子を置いて座りながら、真面目な顔つきで本を読んでいる彼の姿があった。
「…………」
 祐恭先生の真剣な顔も、好き。
 ゆっくりページを読み進めている彼をしばらく見つめていると、急に目が合った。
「っ……」
 思わず口を開けてしまう。
 ……どうしよう。
 なんて思っていたら、すぐに苦笑を返された。
 ……いけないいけない。
 慌てて問題に戻り、文章を読み進めることに専念する。
 とはいえ、やっぱり半分頭に入ってなかったりするんだけどね。
「……ふぅ」
 なんとかすべての欄に答えを埋めてから時計を見たときと、ちょうど終了を告げるチャイムが鳴るのとが同時だった。
「それじゃ、うしろから集めてー」
 本を閉じて立ちあがった彼が指示を出し、徐々に彼の元へと用紙が集まり始める。
 途端、教室内が騒がしくなった。

 今日のぶんのテストも無事に終わり、それぞれが帰り支度を始める。
 早く帰れるのはたしかに嬉しいんだけど、でも不安が大きいから、喜んでばかりはいられない。
「それじゃ、今日はここまで。各自、気をつけて帰るように」
「はーい」
 HRが終わって、日永先生と一緒に祐恭先生が教室をあとにしようとした、そのとき。
 入れ替わるように、数学教師の山本が入ってきた。
「何か?」
「いえ、先生にではなく。あー、瀬那。ちょっと」
「……え?」
 いきなり自分を呼ばれて、思わず目が丸くなった。
 なぜなら、呼ばれる理由がまったくないからだ。
 教科担当でもなければ、部活や委員会の担当でもない彼。
 ……何?
 普段からあまりよくない関わり方があるせいか、眉が寄る。
「何アイツ。感じ悪い」
「……ほんとだよ」
 絵里がそう言うのも無理はない。
 つい顔に出てしまう感情をなんとか押しとどめて教室のドアまで歩いていくと、さほど背が高くないにもかかわらず、まるで見下すような顔をされた。
 ……やだなぁ。
 数学も嫌いだけど、この先生も嫌い。
 なんていうか、生理的に受けつけないんだよね。
 数学担当教師の山本信二(やまもと しんじ)は、生徒たちに不人気で有名な独身教師でもある。
 一発で採用試験を突破したことをつねに自慢げに話し、数学ができない生徒を馬鹿にしたようにするため、はっきり言ってほかの教師からもよくは思われていなかった。
 年は祐恭先生と同じ24歳。
 この学校には去年、新任として赴任してきた。
 ……無論、数学ができない自分にとっては、天敵以外の何者でもない。
「あとで職員室にきなさい。この前の小テストのことで話がある」
「えぇ……?」
 先日、テスト前に行われた小テスト。
 結果はすでに返ってきているのだが、何か気に入らないことがあったらしい。
 赤点はたしかに取ったものの、それ以外は別に何もしていない。
 ……って、赤点がまずかったというのがあるからかもしれないけれど、個人的に言わせてもらえば、迷惑このうえない申し出なんだけれど。
「……やだなぁ……。……え?」
 渋い顔のままぽつりと独りごちたとき、廊下の角で私を手招く祐恭先生の姿があった。
 駆け寄り、顔を見上げる。
 すると、彼もまた渋い顔でため息をついた。
「アイツ、冬瀬の同級生なんだよ」
「……え、そうなんですか?」
 驚いて彼を見ると、うなずいてから壁にもたれる。
「俺たちのころに生徒会長狙っててさ、いつも学年トップ目指してたらしいんだけど……」
「……だけど?」
 そこで1度言葉を切った彼が、私をまじまじと見てからなぜか苦笑を浮かべた。

「いつも孝之に負けてたんだよ」

「っ……お兄ちゃんに!?」
「うん。だから、もしかするとそれで羽織ちゃんのことをよく思ってないのかもしれないな、とちょっと思って。だとしたら最低だけどね。でも、小テストはもう返ってきたんでしょ? だったら尚のこと、テスト期間中に話すことじゃないし、おかしいんだけどな」
「……そう言われると、思い当たる節がいくつか……」
 確かに、これまでも授業中これといって何もしていないのにブツブツ文句を言われたり、ほかの子よりは目の敵にされている気がしていた。
 それはすべて私の数学の成績が悪いからだと思っていたのに、まさか、お兄ちゃんとの確執のせいだったとしたら……それはものすごく嫌だし、納得できない。
「ヤな感じ」
「……絵里」
「私もついてってあげようか?」
「いいよ。俺が職員室行くから」
「あー、そっか。じゃあ、先生よろしくね」
 話を聞いていたらしい絵里が背中に声をかけてきたけれど、彼へにっこり笑ってから……ふいに真剣な顔を見せる。
「いい? 嫌なこと言われたりしたら、全部メモって証拠に残すのよ」
「あはは、わかった」
 苦笑を浮かべてうなずき、彼とともに職員室へ足を向ける。
 本当は、早く帰ってごはんを食べたかったんだけど……しょうがないよね。
 願うのは、ただひとつ。
 なるべく早く彼の小言が片付いてほしいということだけ。

 職員室に入ってから、祐恭先生とわかれて山本の机に近づく。
「……来たか」
 すると、それに気付いて大きくため息をついた彼が私を見上げた。
 この時点でかなり感じが悪いんだけど、顔には出さないでおく。
 ……がまん、がまん。
 大人になりなさい、私。
「お前、この前のテストもできが悪かったな。このままで本当に進学できるとでも思ってるのか?」
 む。
「どういう意味ですか?」
「はぁー……。だからダメなんだよ。いいか? 数学はどこの大学でも実施してるだろ? だいたい――」
「私、数学で受験を受けるつもりはありません」
「……それならそれでかまわないが、こんな点数ばかり取っていたら本当に落ちこぼれるぞ?」
 さらりと反論すると、あきらかに“しまった”という顔をした彼が咳払いをした。
 そんな姿を見て、内心『ふーんだ』と思っていたりする自分は、やっぱりあのお兄ちゃんの妹らしい。
「いいか? 月曜の数学のテストで70点取れなかったら、夏休みに追試と補習授業をする。わかったな」
「っ……何を言ってるんですか? そんなの、聞いてません!」
「だから、今言っただろう? 何を聞いてたんだお前は。そんなんじゃ将来どうしようもなくなって、困るのは自分なんだからな」
「なっ……」
 数学と全然関係ないのに……!
 少し馬鹿にしたような顔をした山本に対して、思わず瞳が細まった。
 どうしよう。
 私、この人すごく嫌い。
「……なんだ、その顔は。え? わかってるのか? 自分が今、何をしてるのか」
「…………」
「返事はどうした、返事は!」
 バン、と机を叩いた音で、まわりの教師もこちらを振り向いた。
 ……もう嫌だ。
 こんなのって、あんまりだと思う。
「っ……」
 そのとき、少し離れた席に座っていた祐恭先生が立ち上がったのが見え、ほんの少しだけ涙が滲んだ。
 ……泣かないもん。絶対、この人の前では泣かない。
 ただ、彼の優しさが嬉しかったから。
 だから、なんだから。
「……っ……」
 ぎゅっと拳を握ってうつむいたまま、唇を噛む。
 ――と、そのとき横から誰かが身体を割り込ませたのがわかった。
「山本先生。担任は私です。彼女とも将来のことはしっかり話し合っていますよ? 何もそこまでおっしゃることは、ないんじゃないでしょうか」
「っ……日永先生……」
 にっこり笑って私の前に立ちはだかってくれたのは、祐恭先生ではなく担任の日永先生だった。
 それを見た山本も、驚いたらしく瞳を丸くする。
「まだテストがありますよね? ですもの、何も今ではなく、テストの点数次第で追試のことを話されても十分だと思いますが」
「そっ……そう、ですね。すみません、少し行き過ぎました」
「わかっていただければ、何よりです」
 優しい口調ながらもはっきりと伝えてくれた日永先生の背中が、とても大きく見えた。
 慌てたように山本が謝り、ちらりとこちらを見たものの、戻っていいと言うことを言われた。
「それでは、失礼します」
 笑みをたやさないままの日永先生が肩に手を回してくれて、彼から離れると同時に顔を覗きこまれる。
「大丈夫?」
「……日永せんせぇ……」
「よしよし。泣くんじゃないのよー」
 彼女の優しさが、本当に嬉しかった。
 思わず瞳に涙が溢れるものの、くすくす笑った彼女が頭を撫でてくれる。
「ほらほら、そんな顔しないの。今日のテストは終わったんだし、早く帰って勉強しなくちゃ。ね? 70点くらい、楽勝楽勝!」
「……う。…………がんばます」
 苦笑を浮かべてうなずいてみせると、彼女も微笑んでくれた。
 ……がんばらなくちゃ。
 助けてくれた、日永先生のメンツを潰さないためにも。



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