「……週末さ、家にこない?」
「え?」
 教室へ戻って、絵里と話していたとき。
 祐恭先生が入ってきたかと思いきや、小さく声をかけられた。
 まさに突然の申し出につい口が開くと、苦笑を浮かべたのが見えた。
「ほら、数学どうしてもいい点取らなきゃならないし。土日だったら、俺が教えてあげることができるから」
「……でも、せっかくのお休みなのに……」
「だからだよ。一緒にいることも、勉強もできるしね。ただ、今夜は仕事がまだ入ってるから厳しいけれど、明日明後日つきっきりで勉強すれば、70点……がんばれるんじゃないかなと思って」
「あ、それいいかも! ねぇ、羽織。甘えさせてもらいなさいよ。先生に教えてもらえれば、70点どころか、高得点間違いなし!」
「でもっ……!」
「ダメかな?」
「っ……ダメじゃ、ない……です」
「それじゃ、詳しいことは俺からご両親に連絡しておくから。……とりあえずは、そういうことで」
 にっこり笑ってから立ちあがった彼が、頭を撫でてくれた。
 ……うぅ、でも、あの……本当にいいんだろうか。
 まさか、こんなことになるなんて。
 教室を出て行った彼のうしろ姿を見ていたら、絵里がいたずらっぽい笑みとともに肘で背中をつついた。
「ちょっとー、すごいじゃない! あんた! よかったわねー」
「……う……うん。でも、なんか……緊張しちゃう」
「まあまあ。大丈夫よ、先生はたぶん、紳士だろうから」
 たしかに、彼の申し出は嬉しい。
 けれど、やっぱり緊張するんだよね。
「……それにしても、アレよね」
「え?」
「付き合い始めてからまだ数えるほどだっていうのに、いきなりお泊りのチャンスなんて……先生ってば、だいたーん」
「……おと……まり?」
「あら。そうでしょ? だって、土日ってことは、くんずほぐれつ、密着! 勉強大合戦! ってことじゃない?」
「っ……え」
 絵里の瞳が、きらりんっと輝いたのは間違いない。
 …………お泊り。
 ……え。
 ええ……!?
 えぇえええ!?
「そうなの!?」
「何よ今さら。そーでしょ?」
「な、なっ……! だ、だだだ、だって! だって! そ、そんな! 急にっ……お泊り、なんて……」
 いろいろなことをつい想像してしまい、かぁあっと顔が熱くなった。
 もちろん、それだけじゃない。
 身体も、一気に熱を帯びる。
 わ、わ、……どうしよう。
 そんなことだなんて、思ってもなかった。
 私はてっきり、土日の昼間だけ、彼に勉強を見てもらえるんだと思っていたのに。
 ……うそ。
 お泊り、なの……?
「……あ」
 そういえば、最後に言ってたっけ。
 『ご両親には、連絡しておく』と。
 …………。
 ……と、いうこと。
 いうことは……!?
「っ……えぇええ!」
「……鈍いわねー、アンタ」
「だ、だだだっ……! だって!!」
 ほぅ、とため息をつかれるものの、思わず両手を頬に当てたまま首を振る。
 ……どうしよう。
 どうしよう、どうしよう! 本当に!
「ん?」
「絵里っ……私、どうしたらいい!?」
 がしっと目の前の彼女の手を取り、必死に助けを求める。
 だって、そ、そういうことにはならないだろうとわかっているけれど、でも、あの……ま、万が一と言うか……が、あるかもしれない……ような、そんな感じで。
 って、えっちな子みたいじゃない、これじゃ!
「……うぅうっ……」
 思わず顔から火が出そうになって彼女の手を離し、顔を両手で覆う。
 だから、知らなかった。
 絵里が、そんな私をとてもとーっても楽しそうに笑いながら見ていたなんてことは。
「……ま、とりあえずカワユイ下着でもつけて行ったらいいんじゃない?」
「っ……!!」
 さらりと呟かれた具体的な言葉で、また顔が熱くなったのは言うまでもない。


 そのときは、突然やってきた。
「っ……」
 ピンポーン、と響いたチャイムで、思わず鼓動が大きく鳴った。
「はいっ」
『こんにちは』
「! 今、開けますっ!」
 ドアホンでチェックすると、やはり来訪者は彼で。
 急いで声をかけてから玄関へ向かい、音を立ててドアを開ける。
「ごめん、遅くなって」
「そんなことないです!」
 スリッパを差し出して微笑んでから、そのままリビングへ通す。
 ――……と、ソファに寝転がっていたお兄ちゃんを見た祐恭先生が、眉を寄せた。
「……お前、暇そうだな」
「まぁな。今日は休み」
 ごろごろしたまま新聞を読んで答えたお兄ちゃんが、ゆっくりと起き上がって伸びをする。
 そうなんです。お兄ちゃんは、ずっと朝からこんな感じ。
 本当に暇なんだろうなぁ。
 そんなふたりに背を向けてキッチンへと向かった私の背を見送るようにして、祐恭先生がお兄ちゃんと何やら話し始めた。

「あのさ。ウチの学校に山本がいるんだけど」
「……山本って、あの山本? 山本信二か?」
「ああ」
 嫌そうな孝之の顔に、こちらもつい眉が寄る。
 コイツならば、こういう顔をするだろうとは思った。
「アイツ、お前のことをまだ根に持ってるらしくてさ。羽織ちゃんに、結構キツく当たってるらしいんだよ」
「……ふぅん」
「なんだ。ずいぶん、あっさりしてるな」
「いや、だってそーだろ? 俺もアイツのこと嫌いだったし、アイツも俺を嫌いだったし」
 もっと驚くかと思ったのだが、まったく動じずに孝之がうなずいた。
 確かに、お前が昔からアイツと仲悪かったのは知ってるけどさ。
 もう少し、かわいい妹のために怒ってやってもバチは当たらないと思うぞ。
 ――などと思っていたら、当人である彼女が昼食を運んできてくれた。
「ね?」
「えっ?」
 同意を求めるように顔を見ると、一瞬間が開いたものの、彼女がうんうんとうなずいて見せた。
 どうやら、大体の話はキッチンでも聞こえていたらしい。
「ホントにもう、すごく嫌なの。私を目のカタキみたいにするんだよ?」
「まぁ、ムカつくヤツの妹だからな。そりゃ、目のカタキにもすんだろよ」
「……そんなに仲悪かったの?」
「劣悪」
 テーブルに頬杖をつきながら呟いた孝之に、困ったような顔で羽織ちゃんが眉を寄せたものの、まったく気にしない様子で昼飯を食べ始めた。
 ……相変わらずだな。
 まぁ、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけれど。
 本日、瀬那家の昼食は、ミートソーススパゲティ。
 うまそうな香りと見た目とで、食欲がかきたてられる。
「アイツと喧嘩したことなんて、数知れないからな。いろいろ……あー。その……なあ?」
「……いきなり俺に振るなよ」
「いや、でもお前だって一緒だったろ? アイツ殴ったときとか」
「殴ったの!?」
「いや、ほら。男なら1度や2度はそういう喧嘩するだろ? つーか、日常?」
「そんなの、お兄ちゃんだけでしょ! 祐恭先生はそんなことしな――え?」
「え?」
 しどろもどろに続けた孝之を見て彼女が眉を寄せるが、自分とて心当たりがないワケではない。
 つい、孝之に同意すべくうなずいてしまったところを見られ、彼女がみるみる瞳を丸くした。
 ……マズい。
「あー、ごめん。俺も、昔は多少悪いことしてたかな」
「そうなんですか? 全然、そんなふうに見えないのに。先生、だって……そんな」
「そりゃ、確かに今は好青年……っぽく見えるけどな。昔は悪かったんだぞ、コイツ」
「……お前に言われたくない」
「俺はいいんだよ、別に。教師とかじゃねーし」
「そういう問題じゃないだろ」
 あっけらかんと言ってのけた孝之に瞳を細めると、固まったままの彼女が眉を寄せた。
 ……あー。
 やっぱり、そういう顔するだろうな。
 俺の昔を知ってる人間には、よく言われるから。
 『お前が先生?』って。
「……黙ってるつもりはなかったんだけどね」
「あ、いえ……別にそれは構わないんですけれど……。なんていうんだろう。見かけによらないっていうか……ちょっとびっくりしました」
 見るからに、そういう顔だ。
 ……今の俺は、そんなに好青年にでも見えるのだろうか?
 …………。
 だとすると。
「……やっぱり、ダメかな。俺じゃ」
「え? 何がですか?」
「マズいよな。昔そういうことしてたヤツが彼氏で、しかも教師なんて……」
「え!? どうしてですか? そんなことないですよ! だって、先生は先生だもんっ!」
 彼女から視線を外して呟いたものの、しっかりと否定してくれた。
 お陰で、なんともいえない救われた気持ちになる。
 ……良かった。
 なんて、ガラにもなく心底思った。
「ありがとう」
 改めてお礼を口にすると、ふにゃんと表情を崩した羽織ちゃんが頬を赤く染めた。
 こういう素直な反応は、見ていて非常に嬉しい。
 だからこそ、本当に孝之と兄妹なのかと若干疑問なのだが。
「それにしても、女の子ってこの番組好きだよね」
「え?」
「だよな。俺もさっき、同じことコイツに言った」
 ふと気付いたテレビの番組を見て口にすると、孝之もうなずきながら同意した。
 流れているのは、たわいない恋愛のバラエティー番組。
 普段見るようなことはないが、内容なら少しだけ知ってもいる。
「んー……おもしろいですよ?」
「らしいね。でも、俺にはわからないかな」
「俺も同じく」
 ただ、こういうことは男女差というのもあるんだろうな、きっと。
 パスタをフォークに絡ませながら言うと、孝之も画面を見ながら呟いた。
 そんなに、おもしろいのか?
 人の恋愛模様を見ていて。
「ウチの妹も見ててさ、同じように言ってたけど。そんなに、おもしろい?」
「え? 先生、妹さんがいるんですか?」
「言ってなかったっけ。うん、妹と弟がいるよ。……っていうか、まぁ、双子なんだけどね」
「双子!?」
 さらりと伝えたものの、予想以上に彼女が反応を見せた。
 ……そうか。
 どうやら、まだ彼女には話してなかったようだ。
「今年、大学に入ったばかりなんだけど」
「そうなんですか。じゃあ、私よりも……ひとつ上なんですね」
「うん」
「あー、確かに紗那ちゃん好きそうだな」
「だろ? 俺が家にいるころは、よく見てたなと思って」
 不思議そうな顔をしたままの彼女に視線を戻し、口を開く。
 孝之が名前を知っているのは当然だが、彼女は知らなくて当然だ。
「紗那と涼って言うんだよ。名前」
「へぇー。きれいなお名前なんですね」
「はは、両親が聞いたら喜ぶね」
 最後のひとくちを食べきって彼女を見ると、にっこり微笑んでくれた。
 こういう彼女らしさが嬉しくて、ついつい笑みがうつる。
 ほどなくして食べ終わった彼女が立ち上がったのを見てから、あとを追うようにして片付けるべく自分も立ち上がる。
「さて、と。んじゃ、ふたりとも気をつけてな」
「ああ」
 孝之が立ち上がったのを見てから、彼女がまとめた荷物を手にして玄関へ。
「持つよ」
「あ、いいですよー。重いし」
「重いから、持つんでしょ?」
「あ……」
 彼女の手からバッグを取りあげると、驚いたように俺を見上げた。
 そんな彼女に、ね? と笑みを見せ、嬉しそうにうなずいてくれたのを見てから促す。
「しっかり勉強しろよ」
「もちろんっ!」
 にっこり笑って玄関のドアを開けた彼女に続いて、ふたりで外へ出る。
 そんな俺たちを見送った孝之は、リビングに戻るとどうやらテレビのチャンネルを変えたらしかった。



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