「どうかした?」
「えっ」
マンションの、彼の部屋。
その玄関の前まできたところで、思わず足が止まる。
「……なんか、緊張して」
「はは。たいした部屋じゃないよ」
そう言ってはくれるけれど、やっぱり緊張してしまうわけで。
苦笑を浮かべて彼のそばに寄ると、先にドアを開けてくれた。
「おじゃまします」
「どうぞ」
広い玄関だった。
きれいに光を反射する石の床。
そして、ここを照らし出すクリーム色の照明。
靴を揃えて上がってから廊下を進み、左に折れるとリビングに行き着いた。
「わぁ……すごーい」
そこは、開放的でかつ、明るい部屋だった。
角部屋ということもあって、大きな窓が部屋を囲むように作られている。
オープンキッチンと広めのリビング。
そこにはガラスでできたデザイン性の高いテーブルと、床に足を投げ出せる低めのソファが置かれている。
窓際の間仕切りがついている奥の部屋にはベッドがあることからして、恐らく寝室だろう。
……寝室。
慌ててベッドが見えない位置に足を向けると、彼が顎でソファを指した。
「ソファにでも座ってて。今何か入れるよ」
「あ、そんな。いいですよ!」
慌てて手を振るも、ちょうど冷蔵庫からペットボトルを取り出してグラスに注いでくれたのが見えた。
……なんだか、お客さんみたい。
って、お客さんなのかな。
「…………」
なんとなく所在なくて、ソファに座っている間も、あれこれとつい珍しくて見てしまう。
……先生は、部屋をちゃんときれいに使ってるんだ。
なんて考えていたら、自然と笑みが漏れる。
「お兄ちゃんの部屋なんかより、ずっときれい」
「それはよかった。お茶でよかった?」
「……あ。いただきます」
おかしそうに笑った彼が、お茶の入ったグラスをテーブルに置いてくれた。
頭を下げてからグラスに口をつけると、冷たくて甘くない紅茶が乾いた喉に心地よくしみる。
……私、そんなに緊張してたんだ。
こくこく、と続けて紅茶を飲むと、ほんの少し自分がおかしかった。
「…………」
ソファへもたれるようにして、祐恭先生が床に腰をおろしてからテレビをつけた。
映し出されたのは、お昼のニュース。
それをしばらく黙って見ていたら、彼が私を振り返る。
「70点、がんばらないとね」
「あ……はい」
にっこり微笑まれたものの、笑みを返すことができなかった。
なんといっても数学はこれまで赤点だったり、平均点ぎりぎりだったりという無残な結果に終わっているからだ。
だからこそ、今回提示された70点というのはまるで雲の上のことのよう。
……本当に、補習を免れることができるのかな……なんてため息が漏れる。
「……あ」
小さなため息を漏らすと、彼が頬に触れた。
思わず顔を見ると、優しい表情に、つい何も言えなくなってしまう。
「大丈夫。俺がついてるから」
「……先生」
「2日間、化学も含めてしっかり勉強しようね」
「……う……」
そう。
月曜日は、化学、数学、そして英語文法と、英語以外は苦手な教科ばかりのテストの日。
勉強を見てもらえることは、ものすごく嬉しいけれど、頭に浮かぶのはどうしても勉強地獄で。
「……はぁ」
「やる前から、ため息つかないように。ひと息ついたら、さっそく始めようか」
「……はぁい……」
渋い表情のまま彼を見ると、おかしそうに笑われてしまった。
「はぁ……疲れた……」
「お疲れさま。がんばったね」
テーブルに伏して時計を見ると、21時少し前だった。
途中で夕食の休憩を挟んだものの、ずいぶんと長い間勉強していたんだと実感する。
「風呂、どうする?」
「え?」
「もう沸いてるから、先入っていいよ」
「あ……」
……お風呂。
当然かもしれないけれど、ついその言葉に過剰反応してしまう。
……お風呂ということは……お風呂なわけで。
平然とした顔の彼を見ていられず、視線を外して深呼吸してから、意を決して顔をあげる。
「……あの。祐恭先生、先に入って……ください」
「そう? でも、せっかくだから先に入ったら?」
慌てて手を振るものの、彼は苦笑を浮かべながらも譲らなかった。
……うー。
こうされるとは思わなかったので、一瞬言葉につまる……けれど。
「えっと、実はちょっと見たいテレビがあるんです」
「あぁ、なるほど。じゃあいいよ」
「すみません」
ぱっと思い浮かんだことを口にすると、彼は疑うことなくうなずいてくれた。
ほっとして、ついため息が漏れる。
……はぁ。
「それじゃ、お先に」
「はい」
早々にお風呂場へ姿を消した彼を見送ってしばらくすると、シャワーの音が聞こえてきた。
夜。
……ふたりきり。
そしてもちろん、お風呂に入れば……あとは寝るだけ。
「っ……うー」
絵里のニヤニヤした顔が頭に浮かんでしまい、ふり払うように首を振る。
違うもん。
そんなんじゃないもん。
……そんなんじゃ……ない……のかな。
嬉しくない、のかな。私。
「っ……違うもん」
一瞬浮かんだいろいろな考えを振り払うように、もう一度首を振ってテレビをつける。
違うの。
そんなんじゃないから。
てっ……テレビを、見るんだから。
「……うぅ」
熱くなった顔を手であおぎながら、チャンネルを変えて集中することにした。
いつごろからか、真剣に見入ってしまった番組。
ドキュメントのせいか、ついつい集中してしまう。
――ものの。
「っ!?」
「ん?」
ふ、と横を見ると、いつの間に上がったのか彼がいた。
手には、お茶の入ったグラス。
「い、いつの間に……」
「いや、けっこう前からかな」
「っ……そうなんですか?」
「うん」
すごくびっくりした私とは違い、苦笑を浮かべながら呟かれ、それにまた驚く。
いったい、いつから見ていたんだろう。
「…………」
すぐ隣にいる、彼。
……お風呂あがりの先生……。
普段と雰囲気がまるで違うからか、ついつい見とれてしまいそうになる。
しかも、面と向かって。
「……っ……じゃあ、お風呂いただきますね」
「ゆっくり入っておいで」
にっこり笑って見送られ、笑みを浮かべてからお風呂へ足を向ける。
ぎゅっと抱きしめた、パジャマと……下着。
……うぅ。
どうしよう。
なんだか、すごく緊張してきた。
「…………はぁ……」
妙に意識しているのは、自分だけなのだろうか。
いつもと同じ、優しい彼。
その態度は決して崩れることなく、むしろ崩れっぱなしの私とは違って、余裕めいたものすら感じる。
「…………」
今、自分が立っているのは、まぎれもなく彼の家にある洗面所。
目の前の鏡の中に自分を見つけた途端、思わず視線がそれた。
なんとなく気恥ずかしくて、たまらない。
お風呂あがりの彼のいつもと違う雰囲気に、ドキドキさせられたからかもしれない。
少し大きめの、パジャマ。
……の、襟元から見えた、首筋から胸元にかけての肌。
普段は決して見えないそこが目に入った瞬間、逃げるようにしてここにきた。
「……はぁ」
やっぱり、調子が狂う。
初めて付き合うことになった人の、初めてお邪魔するお家。
……うぅ。
浴室に入ってシャワーのコックをひねると、温かいお湯に全身を包まれた。
すべての不安を洗い流されるような、そんな気になる。
……不安、なのかな。私。
それとも、ただどうしていいかわからないだけ?
「…………」
シャワーに当たったまま、彼が普段使っているであろうシャンプーに手を伸ばす。
……先生と、同じ。
そう思うと、妙にどきどきした。
だって、すごく特別なことをしているような気がして、たまらなく嬉しいから。
「…………」
身体を洗って湯船につかると、何も音がしなかった。
リビングだとシャワーの音が聞こえるけれど、ここだとリビングの音は聞こえない。
肩までゆっくりお湯につかり、しばらく目を閉じる。
何も考えていないし、もちろん何も期待なんてしていない。
……でも、なぜか鼓動は速いまま。
「……っ」
こうしてひとりでいると、あれこれいろんなことを考えすぎてしまうらしい。
お風呂から出てタオルを顔に当てるものの、ゆるんだ頬はなかなか元に戻りそうにない。
……勉強、なんだから。
期待してるとか、そういうことは……ないんだから。
そうは思うけれど、やっぱりなんともいえない表情になる。
なんとなく、恐くて。
どきどきして。
……苦しくて。
身体の水滴を取ってから、パジャマに袖を通す。
…………変な感じ。
いつも着ているのと同じ物なのに、なんだかまるで違う物のように感じた。
「お風呂、お借りしまし……た……」
テレビは、先ほどと同じ番組を映している。
でも、彼はといえば……。
「…………」
ソファに、全身を預けている、彼。
その姿を見て、また心臓が跳ねる。
静かに瞳を閉じていて、まるで眠っているかのよう。
外されたメガネはテーブルに置かれていて、その横には先ほどまでなかった本が数冊置いてある。
「……」
起こさないように、そっと彼の横に座ってから……その寝顔につい見入る。
いつもと違う彼。
静かに上下する胸を見て、思わず笑みがこぼれた。
お休みでもなのに、仕事をしなければいけない。
先生という仕事は、本当に大変だと思う。
「…………」
彼を起こすつもりは毛頭ない。
……それに、起こしちゃうのはすごくもったいないから、静かに過ごす。
彼の、隣で。
「…………?」
テーブルにあった、本。
その1冊を手にとってぱらぱらめくると、途端に眉が寄る。
『分子構造における分子間の運動』
………なるほど。見てもさっぱりなはずだ。
表紙のタイトルを確かめてからもう1度中身を見てみても、ちっともわからない。
字も細かいうえに、まったくわからない分子構造がつらつらと書かれていて、高校の化学もわからない私にこんな高度な物がわかるはずはなく。
ゆっくりそれを戻すと、たった数秒だったのに、頭が活性化した気がした。
……多分、気のせいだとは思うけれど。
「……あ」
何か読めそうな物がないか探っていると、見慣れたものが目に入った。
『高校生の化学』
これならわかるだろうと早速開いてみると、今回のテスト範囲になっている単元がちょうど目に入った。
「……この前やった気がするけど……」
……そう。
気が、するだけ。
正確な記憶として蘇ってこないあたり、かなり危険だろう。きっと。
もし今の言葉を彼に聞かれでもしたら、大変なことになると自分でもよくわかっているから。
|