「……そんな簡単に、言っちゃダメだ」
 羽織ちゃんの言葉を受けて、鼓動が大きく跳ねる。
 ……なのに、きっと自分ほどの嘘つきはどこを探してもいないだろうな。
 本当は、今すぐにでも彼女がほしかった。
 抱きしめたこの手を、緩めたくない。
 ……だが、今はまだ。
「…………」
 重苦しい息を吐きながら、目を閉じて自分をおさえる。
 お前は、約束しただろう?
 俺を信じて大切なこの子を預けてくれた、あの親御さんに。
「……私じゃ……ダメですか?」
「っ……違う」
 そっと身体を離すと、途端に彼女の顔が目に入った。
 悲しそうに、すがるように見上げてくる彼女。
 ……そんな顔するな。
 俺のせいだと十分理解しているから、つらくなる。
「ダメじゃないよ」
 ダメなはず、ない。
 ……当然だ。
 キスをしたとき、“マズい”と自分がいちばんよくわかったから。
 苦笑を浮かべて首を横に振り、大きく息をつく。
 そして、何か言おうとした彼女の唇をそっと親指で塞いでから、頬に唇を寄せる。
「今すぐ、って思う。正直言えばね。でも、テストで合格しなくちゃ」
「でも……っ」
「……自分の、目の届かないところにおいておきたくないんだ。ましてや、アイツとなんて、絶対に嫌だ」
 まっすぐ目を見ると、反論しようとしていた彼女もようやく納得してくれたらしく、唇をわずかに噛んだものの、それ以上は何も言わなかった。
 そんな姿を見て、だいぶ救われた気がする。
「……ちゃんと点を取って、見返してやろう?」
 ね? と顔を近づけ、しっかりとその瞳を見つめる。
 すると、小さくではあるが、彼女がうなずいてくれた。
「補習がなくなれば、一緒にいられる時間が増えるし。……そうしたら、たくさん遊べるでしょ?」
「……はい……っ」
「それじゃ、もう少しがんばろうか」
「ん。わかりました」
 健気に微笑んだ彼女を見て、多少の罪悪感も生まれる。
 彼女が自ら言ってくれた、あの言葉。
 自分に向けてくれたことはすごく嬉しいし、どれだけの葛藤の中で出た言葉かというその重さを考えると……やはり。
「っせんせ……!」
「…………はー……」
 ぐいっと羽織ちゃんを抱き寄せ、腕に力をこめる。
 ……いつか。
 きっと、いつか近いうちに。
 そんなことを考えると、再びため息が漏れた。
「……それじゃ、やろうか」
「お願いします」
 メガネをかけ直し、数学の教科書を開く。
 ……くそ。
 全部アイツのせいだからな。
 理不尽と言われるかもしれないが、すべての怒りの矛先は、当然山本。
 ……ぐうの音も出ないような点を取って、見返す。
 そんな思いに突き動かされたからか、その日の数学は深夜まで続いた。

「ん……」
 寝苦しさを感じて寝返りを打つと、眩しい光が顔に当たった。
 しかたなく手を伸ばして枕元を探り、スマフォを手にして時間を見る。
「……10時……」
 目に入った数字を口にしてから、もう1度目を閉じてベッドに潜――……。
「10時!? っわ……!」
 慌てて起き上がろうと身体を起こすと、何かにあっさり邪魔された。
 起きなきゃいけない時間は、とうに越していて。
 だからこそ、早く起きて着替えて……顔を洗わないと、とてもじゃないけれど彼に怒られてしまう。
 ……ううん。
 それ以前に、呆れられるに違いないのに。
 ……なのに……どうして、起きられないんだろう。
「……?」
 さっきとは違い、ゆっくりと身体を起こしながら、“何か”を探す。
 ……服?
 掛け布団とは違う柄の布地を見つけ、眉を寄せてからその先をゆっくり辿って行く――と。
「……祐恭先生!?」
 ソファで寝ているはずの彼が、ここにいた。
 その彼が足元を押さえるように横になっていたので、起き上がることができなかったのだ。
「…………」
 規則正しい寝息が耳に届き、驚いた顔が笑みへと変わる。
 なんだか、嬉しい。
 ……だって、本当に彼の家に泊まったんだ、って思ったから。
 …………。
 ……そういえば。
 昨日の朝は、彼にキスをされて起こされたんだよね。
 ………………。
 ……キス……。
 そっと頬に手を伸ばし、指先で触れる。
 たったそれだけで、鼓動が早くなった。
「………………」
 じぃーっと彼を見てから、お返しとばかりに……そっと、頬に口づける。
 それこそ、触れたか触れないかわからない程度のもの。
 だけど、自分にとっては精一杯の勇気の結果で。
「……えへへ」
 にまにまと緩んだ頬に両手を当てて、そっとベッドを抜けようとした、そのとき。
「きゃ……!?」
「おはよう」
 急に手を掴まれたかと思いきや、背中からベッドに倒された。
 にっこりと微笑んで上から覗き込んでいる彼は――いつもと変わらない顔で。
「……え……!? ね、眠って……」
「とっくに起きてたよ。もう着替えたし」
「……っ……」
 そう言われてよく見れば、確かに彼はもうパジャマじゃなかった。
 ……ということは。
 私がそろそろ起きるだろうことを見計らって、ここにいたに違いない。
 ようやく頭が働き始めると、なんとなく悔しくなる。
「……もぅ! ひどいじゃないですか!」
「どうして? 起きない羽織ちゃんが悪い」
「ぅ。そ、それは……あの、先生も、寝てると思って……」
 ようやく身体を起こして唇を尖らせると、苦笑を浮かべた彼が顔を近づけた。
 本当は、ちょっとだけ怒ってるんですよ? 私。
 けど、やっぱりこうされると、どうしたって表情が柔らかくなってしまう。
 ……もぅ。
 なんだか、ずるい。
 だって、先生ってばそのことをわかってるみたいなんだもん。
「それじゃ、起きようか」
「……? 起きましたよ?」
「そう?」
「な……! んっ……!」
 頬に手が当たった瞬間、あの朝と同じ、深い口づけをされた。
 柔らかく、溶けてしまいそうな彼の口づけは、何度経験しても慣れることはなくて。
「……はぁ」
 彼が離れてすぐ、大きく息をつく。
 ……もぅ、すごくどきどきした。
「っ……」
 なのに、そんな顔を満足げに見られて、なんとも言えず一層恥ずかしくなった。
「羽織ちゃんが誘うから」
「! さ、誘ってなんか……」
「誘ったでしょ?」
「っ……! そ、それは……っ……!」
 ベッドから立ち上がって自分の頬を指さした彼を見たら、思わず顔が赤くなった。
 ……そ、そこは……確かに、さっき……私が、キスしたところだけど。
「うー……」
「まずは、ごはんにしようか」
「……はい……」
 リビングから響いた声に少しむくれてみるものの、もちろん彼が知るはずもなく。
 小さくため息をついてから、自分もベッドをあとにすることにした。

「……うん。ここも、正解」
「っ……良かったぁ……!」
 最後の計算に大きな丸がついたのを見て、思わず自分に拍手を送りたいとさえ思った。
 だって、絶対解けないと思っていた問題に、ちゃんと正解を導き出すことができたんだから。
 ……私、すごい。
 数学は、それこそずっとつまずいていたのに。
 なのに、こんなふうにちゃんと計算できるなんて。
 やっぱり、教えてくれる人が違うと、自分のやる気もまったく違うようだ。
「よくがんばったね。これなら、明日のテストは心配ないと思うよ」
「本当ですか? ……よかった。じゃあ、明日は自信を持って臨みます」
「うん」
 本当に、嬉しくてたまらない。
 だけど、彼もそんな顔をしてくれて。
 ……嬉しい。
「あ……」
「本当によくがんばったね。こんなに集中したの、いつぶり?」
「え?」
 抱き寄せられて頭を撫でてもらいながら、壁にある時計を見てみる。
 すると、時間はすでに18時を回っていた。
「っ……え……! 18時!?」
 自分がそんなにも長い間集中できていたことに、思わず大声があがる。
「うん。途中で休憩入れようかとも思ったんだけどね。羽織ちゃん、気付いてないみたいだから、黙ってた」
「……だって……先生、お腹空きましたよね? ……ごめんなさい」
 ここは、彼の家。
 私ひとりで勉強しているならまだしも、彼に付き合ってもらっていたのに、まったく気付いてなかった自分が情けない。
 なのに、彼は首を横に振ると、にっこりと微笑んだ。
「ごめん、なんて言わない。こんなにがんばったのは羽織ちゃんだよ? 謝ることなんてないんだから」
「……先生……」
 文句も言わずに付き合ってくれた彼が、本当にありがたかった。
 そして、感謝でいっぱいになる。
「ありがとうございます」
「いいえ。……いい結果が出ること、期待してるからね」
「はいっ」
 頭を優しくなでてくれた彼にうなずき、その顔を見る。
 ……と、ふいにその表情をわずかに変えた。
「じゃあ、そろそろ……送ってこうか」
「……あ……」
 少し寂しげに笑った彼に、思わずこちらも眉尻が下がる。
 ……そう。  明日は、学校だ。
 だからこそ、もちろん今日は家に帰らなければならない。
 わかっていたつもりだったのに、やっぱり実際にそうなるとすごく寂しかった。
「テストが終わったら、またおいで」
「……いいんですか?」
「もちろん。むしろ、いつでも来てほしいけど」
 つい顔に出た寂しさ。
 それで、彼が頬に手を当ててくれてから、もう一度抱きしめてくれた。
「たくさん話したいし、もっと一緒にいたい。それに――」
「……あ……」
「もっと……触れたい」
 鼓動が早くなる。
 彼の大きな手が、身体を包んだ。
「ご両親も心配してるだろうし。……帰ろうか」
「……はい」
 優しく微笑まれて、少し落ち着いたのか自然にうなずいていた。
 せっかくの休みを潰してまで勉強に付き合ってくれたこと。
 そして、そんな自分を大事に考えてくれていること。
 そのどれもが彼らしくて、どれもがとても嬉しかった。
「祐恭先生」
「ん?」
「……ありがとう」
「っ……」
 そっと、頬に口づける。
 精一杯の、感謝の気持ちをこめて。
 伝わったかな? と思って彼を見ると、少し驚いたように見つめられた。
 ……心なしか、頬が少しだけ赤いような……。
「……うん」
「先生?」
 顔をそらして視線を外した彼を、いつもとは逆にこちらが追いかけてみる。
 ……らしくない彼も、新鮮でいいかもしれない。
 新しい一面を発見。
 そんなふうに感じて、嬉しさから笑みが浮かんだ。
「……それじゃ、行こうか」
「はい」
 荷物をまとめると同時に声をかけられ、玄関まで一緒に行く。
 テストが終わったら……。
「ん?」
「……えへへ」
「何? 気になるよ」
「なんでもないです」
「……気になる」
「なんでもないですってば!」
 眉を寄せた彼に首を振り、先に靴を履く。
 ……テストが終わったら、絶対にまた遊びにこさせてもらおう。
 そのためにも、明日のテストを頑張らなきゃ……と改めて気合いが入った。

 いつもは時間を感じる道も、今日はすぐに着いてしまったように思う。
 家の前で車が停まると同時に、どちらともなくため息が漏れた。
「……じゃあ、明日」
「はい」
 少し微笑んでから、彼を見つめる。
 ――と、どちらともなく顔が近づいた。
 ゆっくり髪を撫でてくれた彼と、何度か口づけをかわす。
 ……だけど、なかなか止まらなくて。
 これが最後、と心では決めてるものの、昨夜のことがあるからかお互いに離れることができなかった。
「……羽織」
「っ……!」
 耳に届いた、初めて呼び捨てされた名前。
 途端、やっとのことで意識が戻る。
「祐恭さん……」
「……ん」
 搾り出すようにささやいた言葉だったけれど、彼も視線をくれた。
「名前……呼んでくれましたね」
「……羽織ちゃんもね」
 顔を見合わせてお互いに笑ってから、もう1度口づけ。
 ……それが、今日最後のキスになった。

「呼び捨てのほうがいい?」
「名前のほうがいいですか?」

 同じタイミングでハモり、それが少しだけおかしかった。
「ううん。……ときどき呼んでもらえればいいです」
「……だね。たまにだからこそ、余計に貴重っていうか……」
 考えることは同じ。
 もう1度笑いあったことが、なんだか無性に嬉しかった。
「ありがとうございました」
 ゆっくりと降りながら言い、そのまま運転席側へと回る。
「明日、がんばってね」
「はいっ」
 いよいよ、本番。
 だけど、不思議と不安はなかった。
 ……これもすべて、彼のお陰。
 感謝をこめてにっこり笑うものの、彼は苦笑を浮かべた。
「玄関まで送って行ったら、また同じことになりそうだから……ここで」
「……あ……はい」
 こちらに手を伸ばしかけたものの、小さなため息とともに途中でその手が空を握った。
 そんな彼を見て、自分も苦笑が浮かぶ。
「……帰したくなくなるから、やめておくよ」
「っ……」
 ささやいてから手をハンドルに戻したのを見て、思わず笑みが漏れた。
 ……なんだか、先生ってばかわいい。
 素直に、そう思った。
「じゃ、また明日学校で」
「……はい。気をつけてくださいね」
「ん。……それじゃ」
 エンジンをかけ直してから手をあげてくれた彼が、ゆっくりと車を走り出させる。
 数度の、ハザード。
 どうしてもすぐそこで『ばいばい』ができず、結局、彼の車がいちばん奥の角を曲がるまで、ずっとその場から動けなかった。


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