「で? どうだったの?」
「……うん。できたと思う」
「おおー! すごいじゃない! 大進歩ね!!」
ある意味の山場でもあった、本日月曜日の数学のテスト。
その時間を終えた今、自分がものすごくほっとしているのに気付いた。
……やっぱり、プレッシャーだったんだ。
自分ではそこまで思ってなかったつもりだったのに、気分がずいぶんと楽になっていることから、よっぽどだったんだなと苦笑が浮かんだ。
それでも、今回のテストは今までの自分と違うことを、はっきり実感していた。
だって、自分でも驚くくらい、すらすらと問題を解くことができたんだもん。
今でもなんだか信じられない。
もちろん、丸をつけてもらうのはこれからだけど。
それでも、きちんと手が動いた。
問題を読んで、頭が理解した。
それらが、素直に嬉しかった。
……といっても、さすがにそうすんなりとはいかず、途中でつまづいたところもあったけれど。
でも、あってるだろうと自信を持てる答えが、いくつかあって。
そのことがものすごく、自分にとっては驚きだった。
「……で? やっぱ、先生となんかあったの?」
「なっ……何もないよっ!」
絵里がにやにやと笑みを浮かべて顔を近づけてきた。
そんな彼女に慌ててそっぽを向くものの、気にすることなくさらに詰め寄ってくる。
「あやしーわねー。んんー? 話すことがあるんじゃないの?」
「ないってばっ! あ、ほらほら。次は化学だよ」
「化学だよ、じゃないわよ。……ったく。それはこっちのセリフ」
「……うぅ」
くっく、と楽しげに笑う彼女から視線を外し、最後の予習とばかりに教科書を取り出して範囲ページを開く。
「……っ……」
そのとき、あるモノが目に入った。
先日の勉強の成果というか……賜物というか。
教科書の端のほうに彼の字が書き込まれているのが目に入って、つい頬が緩む。
……内緒。
誰にも言えない、私だけの秘密。
それが、妙な優越感へ変わっていく。
「……あ」
「教科書しまってー」
ついニヤニヤしてしまいそうになりながら見ていると、本人である彼が教室に入ってきた。
もうじき、化学のテスト開始の時刻である。
「問題、うしろに回してー」
テスト用紙を配っている彼は、どこか楽しそうに見える。
……なんて思っていたら、配り終えたところで咳払いをしてから――彼がにやりと笑みを浮かべた。
「赤点取ったら、許さないからね」
「えぇー!?」
とんでもない発言に、当然のごとくブーイングがあがる。
私とてそんなことは聞いてなかっただけに、目が丸くなった。
「とは言わないから、まぁ気楽にがんばって」
「……あー、びっくりしたー」
「なんだぁー」
「もー。先生、脅かさないでよ」
にっこり笑った彼に、教室中から安堵の声が漏れた。
……よかった……。
なんて言うことはできないけれど、でも、ちょっと安心。
そういえば、彼が作った問題を解くのは今回が初めてなんだよね。
……う。
なんだか、緊張してきた。
「それじゃ、テスト始めー」
チャイムとともに、彼が開始の声をあげた。
それと同時に紙の音が響き、続いて文字を書く音が続く。
……やっぱり、化学は苦手。
それでも、たまたま先日解法を教えて貰った問題と似たものがあったりして、なんとか埋めることができた。
「…………」
テスト終了まで、あと十数分というところで解答用紙を見直してみる。
……空欄が、ぽつりぽつり。
こうして眺めると、まるでクロスワードパズルみたいだ。
……うう。怒られそう。
つい、瞳を細めた不愉快そうな彼が頭に浮かび、振り払うように首を横に振ってもう一度空いてしまっている箇所の問題文に目を落とす。
「…………」
ちらり。
目の前の教卓へ座っている彼に視線を向けると、何やら真剣な表情でペンを走らせていた。
まるで、テストを一緒にやっているみたい。
……先生も、自分のテストやるのかな?
なんてことを考えていたら時計が目に入り、慌てて問題へ向き直る。
うぅ。時間までに答えが出ますように……!
せめてあと1問でもいいから、なんとかこの空欄を埋めたかった。
「テストを返す」
4時間目の数学の時間。
予想通り、1時間目にやったばかりのテストを返された。
山本の言葉に対して、もちろん教室中からブーイングが飛んでくる。
「……あいっかーらず性格悪いわよね」
ぶすっとした絵里も、彼を睨む。
……だよね。
いつか返されるのはわかっているのに、つい重苦しいため息が漏れる。
やっぱり、人の嫌がることをするのが好きらしい彼。
……だから、お兄ちゃんと喧嘩したんだろうなぁ。
名前を呼ばれた子が教卓に行き、解答用紙を手にとって席に戻る。
その表情はさまざまで、嬉しそうな顔をする子や眉を寄せて用紙を見つめている子など、本当に人それぞれだった。
「瀬那ー」
「はい……」
どうしたって、表情は浮かない。
いつもと違って少しだけ、自信はある。
……それでも……70点を取れなかったら、補習。
そんなことがあるから、どうしたって嫌なほうへと頭は働くわけで。
「惜しかったな」
「……え?」
にやりとした性格の悪そうな笑みを浮かべられ、思わず顔が歪む。
嬉しそうな顔。
それがものすごく腹立たしかった。
半分に折ったまま席に戻り、座ってから用紙を広げる。
――と。
「っ……」
赤い字で書かれた“68”の文字が目に入った。
……ウソ。
あと1問。
たった、1問違っていたせいで、こんな結果になった。
全然違う。
それこそ、雲泥の差。
「……嘘……」
バツのついているところにばかり目が行き、普段よりもずっといい点数なのにまったく喜べない。
……どうしよう。
だって、あんなにがんばったのに。
私が、じゃない。
彼が……だ。
「今回の平均点は56点。赤点だった者は、もう1度追試をやるから勉強し直しておくように」
まるで、勝ち誇ったかのように言い放った彼が、解法の紙を配り始める。
だけど、どうしてもそれを見ることができず、ただただ打ちひしがれたままで1時間が終わってしまった。
……あれだけ、彼に教えてもらったのに。
がんばって目標点数を取って、彼と夏休みを過ごす約束をしたのに。
「………………」
俯いたまま、ただ彼に申し訳なくて泣きそうになった。
「瀬那」
「…………」
「職員室に来なさい」
案の定、授業が終わると同時に、山本から声がかかった。
ただひとこと。
それだけだったけれど、まるで死刑囚にでもなったような気分だ。
足取りも重く、もちろん表情だって明るくはならない。
「……はぁ」
仕方なく立ち上がると、絵里が心配そうに寄り添ってきた。
「一緒に行くよ?」
「ううん、大丈夫。すぐ戻るから……先にお昼食べてて」
表情を明るくして笑いかけるも、絵里の表情は固いまま。
そんな彼女に、再度大丈夫を口にし、ひとり職員室へと足を向ける。
……やだなぁ。
もう、本当に嫌だ。
点数を取れなかった自分も、あの、性格の悪そうな顔で勝ち誇ったかのようにしている山本も。
「来たか。じゃあ、相談室に来なさい」
職員室へ入って彼のところに行くと、職員室の隣にある進路相談室を指さされた。
小さく返事をしてから彼のあとについて行き、中に入ってドアを閉める。
すると、椅子に座った彼がこちらを見上げた。
いつもならばこの部屋にもそれなりに人がいるんだけれど、今は昼休みということもあってかほかに誰もいなかった。
「それじゃあ、約束どおり夏休みは補習になる」
嬉しそうに笑みを浮かべた彼に対して、こちらは何も言わずに立ったまま彼を見下ろす。
「たしかに今までの瀬那からすればがんばったと言えるが、約束は約束だからな。2週間みっちり、出てもらおう」
「……え? 通常の補習は1週間じゃないんですか?」
「なんだ。口答えするのか? 別に私は構わないがね。落ちこぼれるのは自分だ」
「っな……! そんな言い方ないと思います!」
ぴくりと山本が反応したのがわかる。
恐らく、私が嫌そうな顔をしたのを見たんだろう。
ガタンと椅子から音を立てて立ちあがるやいなや、鼻で笑って人を指差してきた。
「……そういうところは兄さんにそっくりだな。だからダメなんだ。どうせお前だって――」
「兄は関係ないじゃないですか。……そんなに、嫌な目に遭わされたんですか?」
「っ……! お前には関係ないだろう!」
「それは、こっちのセリフです! 兄と私は、なんの関係もないのに。先生のほうこそ、ひどいんじゃないですか!?」
お兄ちゃんが彼にした仕打ちは、よく知らない。
だけど、私は私なわけで。
教師という立場を利用して復讐されているような気がして、無性に腹が立った。
「貴様、誰に向かって口を利いている! 私は教師だぞ!?」
「そんなに偉いんですか? そういう言い方って、すごく気分悪いです」
「なんだと!? 貴様――ッ」
「そんなんだから、お兄ちゃんにいろいろ言われたんじゃないんですか?」
「うるさいッ! アイツのことは関係ないだろうが! 大体なぁ、成績を操作することだってできるんだぞ!? 貴様のようなやつは――」
「……どうするって?」
突然、静かに響いた声。
弾かれるようにそちらを見ると、やはりそこには予想通りの人が腕組みをしてこちらを静観していた。
「……祐恭先生……!」
「なっ……なんだ君は! 今は、君のようなやつが入ってくる場所じゃ――」
「これ。さっきの時間やってみたんだが……」
こちらに歩いてきた彼が手にしていたのは、数学のテストの解答用紙だった。
……もしかして、さっきの。
あの、化学のテスト中に彼がやっていたのは、コレだったんだとようやくわかった。
「だからなんだと言うんだ! こんな物、今ごろ出してきた所で……」
「問7の(1)。ここは、問題自体が間違ってる」
「……な……」
山本に突き出すようにして問題用紙を開き、その問題を指で示す祐恭先生。
そんな彼を見たままで、山本は瞳を丸くした。
「これじゃ、どうがんばったって答えは導き出せない」
「……く……」
しばらく眺めていた彼も、ようやくそれに気付いたらしく、小さくうめいた声が聞こえた。
そんな彼に詰め寄ってから、見下ろすようにしてさらに祐恭先生が続ける。
「それと。ずいぶん、ひねった問題ばかり出してるみたいだが……これは範囲外になるんじゃないのか?」
「……なんだと? 応用問題は範囲外になど――」
「これが、応用問題と言い切れるのか? ほかの数学担当の先生方にも見てもらったが、いい顔をした人はいなかった。みんな口を揃えて難しいと言ってたよ」
「っそれは……」
「わざとこういう問題にしたんじゃないのか?」
きっぱりと言い放った彼の言葉に、山本は眉を寄せて視線を外した。
そのそぶりが、まさに“図星”だと物語っている。
……やっぱり、ヤな先生だ。
ていうか、ひどい。
私ひとりにするならともかく、ほかのみんなまで巻き込むなんて。
「ともかく。ここは正解になって全員が、+2点。彼女はこれで70点になるんだから、補習はなし。そうだな?」
「…………わかった。そういうことにしておこう」
それを聞いて、ようやく安堵の笑みが漏れた。
と同時に、こちらを見て笑った彼へ小さくガッツポーズが出る。
――……が。
「しかし、瀬那のあの口の利き方は納得がいかない! 大体、教師に向かって――」
「孝之に恨みがあるからって、妹の彼女には何の責任もないだろう。……だからお前は昔から成長しないんだよ」
「なんだと!? お前に何がわかる! 大体、貴様だって私に対しての暴力が――」
バン、と山本が机を叩いて彼へ歩み寄った――そのとき。
「っ……祐恭先生!」
「暴力? じゃあ、お前は横暴な教師にならないのか?」
「……く……ぅ、ほらみろ……! そうやってすぐに暴力をふるうしか、でき、ないじゃないか……!」
キッと山本を睨みつけたまま、祐恭先生が胸倉を掴んでいた。
慌てて彼を止めようと腕に触れるも、まったくこちらを見ようとしない。
「……いいか? お前は今この学校の教師なんだ。だったら、生徒に対しての暴言や、あまりに行き過ぎた対応は処分に値する。……わかってるのか? お前は教師として最低のことをしてるんだぞ。……私怨で、生徒に当たるな」
「……く……!」
マズい。
もし、この現場をほかの生徒や教師に見られたら――……!
今にも殴りかかりそうな勢いで詰め寄る祐恭先生に、首を振って再び声をかけようとしたとき。
「っ……!」
ドアが音を立てて開き、誰かが入って来てしまった。
「瀬尋先生。それ以上はなさらないほうがよろしいですよ?」
「……っ! ……日永先生」
「ご……ごほっ、げほ……ッ」
微笑を浮かべて入ってきた彼女を見て、祐恭先生の手が緩んだ。
その瞬間、山本は膝を折って床にしゃがみこむ。
相当苦しかったようで、彼はしばらく咳き込んでいた。
「せ、先生……! 日永先生も見たでしょう? 彼の行為は完全に暴力ですよ!」
「ええ、見させていただきました。……ですが」
そこまでは、いつもの優しい日永先生だった。
でも、途端に笑みは消え、一転して厳しい顔つきになった。
「うっ……」
そんな彼女を見て、山本が明らかにひるんだ。
……こんな日永先生を見るのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。
「山本先生も随分と乱暴な言葉を遣われてましたね。生徒に対するものだとは、とても思えません」
「……そ、それは……」
「あとで私のところにいらしてください。詳しい事情は、そのときにお聞きします」
「……っ……わかりました……」
先ほどまでの勢いはどこへやら。
すっかり萎縮した山本は、顔を青くしながら部屋を出て行った。
「さて、瀬尋先生」
「……はい」
くるっと山本からこちらに向き直った日永先生は、先ほどまでと違って笑みを浮かべていた。
「私の生徒を護ってくださって、ありがとう」
「え……」
「……あ……」
予想とはまったく違った言葉が聞こえ、思わず目が丸くなる。
彼も何かしらの処分を受けるんじゃないかと不安だったので、とんだ肩透かしだ。
「それじゃ、よい夏休みを」
「……っ日永先生!」
「あ、そうそう。いい? 瀬那、ちゃんと勉強しなくちゃダメよ?」
慌てて声をかけると、苦笑を浮かべた日永先生が私を指さしてからドアを開けた。
でも、それ以上は何も言わずにいてくれて。
日永先生の背中を見てすぐ、笑顔を見せる。
「はいっ!」
思い切りうなずいて彼女を見ると、笑ってから相談室を出て行った。
そんな彼女を見送ってから、彼と顔を合わせて大きくため息をつく。
何はともあれ、70点という点数を獲得できたお陰で、夏の補習はなくなったんだ。
それが、心底嬉しい。
「……っ……」
「難しい問題だったのに、よくがんばったね」
「……家庭教師の先生が、良かったからですよ」
「はは、それは光栄」
頭を撫でられて彼を見ると、優しく笑いながらうなずいてくれた。
その姿を見ることができて嬉しくなり、再び笑みを――……浮かべたところで、ふとあることを思い出す。
「ん?」
「絵里、心配してたから……。言ってきます」
「あー、そうだね。そうしてあげたらいいよ。きっと、喜ぶ」
「はい!」
彼に微笑み、廊下へ繋がるほうのドアノブに手をかける。
――そこで。
「ん?」
「……祐恭先生が来てくれたとき、すごく嬉しかったです」
不思議そうな彼に少し照れながら微笑むと、同じように微笑んでくれた。
その笑みを見てからドアを閉め、一目散に教室を目指す。
これで、この夏は思う存分彼と時間を共有できるんだ。
初めての彼と過ごす、最後の高校生活ながらも……いろいろと初めての夏。
それが、すごくすごく楽しみだった。
「っ……やった……!」
いてもたってもいられず、廊下を小走りで駆けながら手を握ると、背後から日永先生の『廊下を走るんじゃないのーー!!』という声が聞こえて、慌てて足が止まった。
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