「失礼します」
いつもどおり化学準備室へ入っていくと、すぐに目的の机が目に入った。
あの数学の件から、数日後の昼休み。
祐恭先生は、まだ昼食をとっているところだった。
「先生、次の時間は……」
「次はテストを返すよ。だから、教室ね」
「……わかりました」
テスト返却とわかり、思わず表情がひきつる。
すると、そんな私を見てから、彼がごそごそと引き出しから束のようなものを取り出した。
「羽織ちゃんの、先に返してあげようか?」
「え!? やっ、いいですっ」
「遠慮しなくてもいいよ?」
「いいですっ!」
まったく遠慮はしてませんから!
にっこりと微笑まれ、慌てて両手を思い切り振る。
そんな私の反応を楽しげに見てから、ようやく束を置いてくれたのが目に入り、ほっと胸を撫でおろす。
……ほ。
本気で返されそうだったので、ついつい安堵からため息も出た。
「それじゃ、楽しみに待ってて」
「……ぅ。わかりました」
しぶしぶと返事をしてから、準備室を出て廊下へ。
あいさつをしてからドアを閉めて歩き出すと、やっぱりため息が漏れた。
数学のことですっかり忘れていたものの、あの日は化学のテストもやっていたわけで。
……いよいよ、テストが返ってくる。
点数に期待ができないためか、どうしても彼の顔をまっすぐに見ることができなかった。
でも、もう先生は知ってるんだよね。私が何点を取ったのか、って。
「……はぅ」
やだなぁ、もぅ。
いっぺんに、気分がブルーになる。
「あれ、しーちゃん?」
もう1度ため息をついてから廊下を進んでいくと、ちょうど生物準備室から出てきた子と出くわした。
「……え? あっ、羽織ちゃんー」
私を見て笑った彼女は、5組の田中詩織。
中学から一緒になった子なんだけど、いつもおっとりしていて、いかにも女の子という雰囲気を出しているかわいい子なんだよね。
私も昔は、彼女のようになりたいと思っていたこともあった。
「しーちゃんも係の仕事?」
「うん、5組の生物担当なの。羽織ちゃんは?」
「私は化学なんだ」
「そっかぁ」
にこっと微笑んだ彼女と、立ち止まったまま最近の話をし始める。
この時期柄ともいうべきか、やっぱり彼女から出たのはテストについてだった。
「テスト、どうだった?」
「……う。き、聞かないで……」
「あはは。でも、羽織ちゃん文系はパーフェクトでしょ?」
「パーフェクトなんかじゃないよー! 確かに、理数系よりはずっといいけど……ね」
「だよねー。昔から、羽織ちゃん文系得意だったもんね」
彼女とは、普段からもいろいろな話をするほうではある。
そのせいか、いつの間にかテストの話から、恋愛の話題へと内容が変わっていった。
当然ともいうべきか、次第に声が小さくなる。
「……ねぇ、羽織ちゃんは好きな人とか……いる?」
「え!? しーちゃん、好きな人できたの?」
「……うん。ちょっと気になるかな、って思うんだ」
少しはにかんで笑った彼女を見て、かわいいなぁと素直に思った。
でも、何より驚いたのは今の発言。
男の人と接するのが、ものすごく苦手な彼女からそんな質問が出る日がくるなんて、思わなかった。
「……えっと、羽織ちゃんの好きな人って……誰?」
「えぇ!? え……、あ……あの……その……」
くりっとした大きな瞳でまっすぐ見つめられ、思わず眉が寄った。
好きな人。
それは、もちろん――彼しかいない。
だけど、相手は“先生”で。
はたして、公にできないこの関係を彼女に言っていいものかどうか、躊躇した。
「なんだ。まだここにいたの?」
「っ!?」
いきなり肩を叩かれて振り返ると、そこには張本人である祐恭先生が立っていた。
ドキドキと胸が高鳴っているので、顔も赤くなっているだろう。
「……せ、先生……」
「ってことは、まだ連絡してないんだ」
「ぅ。……すみません……」
ジト目で見られ、思わず言葉に詰まる。
反射的に謝罪してからしーちゃんを見ると、同じように困った顔をしていた。
さすがに、彼はまさか今ここで恋愛の話をしていたなど、まったく思っていないみたいだけど、話を聞かれたんじゃないかという不安は確かにある。
「しかも、ほかの子まで巻き込んで。……ふたりとも、ちゃんと仕事をするように」
「あ……は、はい。じゃ、羽織ちゃん、またね」
「う、うんっ」
慌てたように手を振って走り出した彼女は、そのまま渡り廊下へ姿を消した。
……話が途中で終わっちゃった。
もし、彼に見つからなかったら、いったい誰の話をするつもりだったんだろう?
そもそも、ウチの学校は女子高で。
気になる男の子の存在なんてないからこそ、やっぱり彼女の好きな人というのが気になる。
……いったい誰なんだろう。
よっぽど、の出来事だ。
あとで、絵里にも相談したほうがいいかもしれない。
「……で? 何を話してたのかな。こんな、時間ぎりぎりまで」
「っ……え。な、何も……してませんよ?」
「してません、ていう雰囲気じゃないけどね」
「……そんなことないです」
楽しそうに顔を覗きこんでくる彼から視線を逸らし、赤くなりそうな頬にあらかじめ手を当ててクールダウン。
どきどきと鼓動が速まりつつはあったけれど、これならばれてしまわないはず。
だから、あとは教室までの間にこの顔が直りますように……なんて思った、そのとき。
小さくきしんだ音が、うしろから聞こえた。
「……あ」
姿を現したのは、生物担当教師の山中昭先生。
彼は、最近では珍しいくらいにシャイな教師だ。
そのせいか、よくからかわれているのを見かける。
年は、25で祐恭先生よりもひとつ年上。
だけど、とてもそんなふうには見えない。
それどころか、ヘタすれば学生にすら見える人。
「…………」
「……瀬那さん?」
「え?」
目を合わせたままで彼を見ていたら、少し照れながら苦笑を浮かべた。
「もう授業が始まるよ」
「……っ、失礼します!」
慌てて頭を下げ、あたりを見回すと、祐恭先生はすでに少し先を歩いていた。
そんな彼を慌てて追いかけ、隣に並ぶ。
このとき、ちょっとだけ置いていかれたことが寂しくて、思わず追いついたときに彼へ直接伝えていた。
……だから。
あとに残された山中先生が、楽しそうに話す私たちの姿を見ていたなんて、まったく気づかなかった。
そんな、ある日の放課後。
いつものように、絵里と実験室への廊下を歩いていたときのことだった。
「……ねぇ、あれって詩織じゃない?」
「え?」
絵里の指差すほうを見てみると、確かにそこにいたのは紛れもなくしーちゃん本人だった。
頬を赤く染め、ちょっとだけ……照れてるようにも見える。
「……ホントだ。何してるん――わ!?」
そちらを見たまま近づこうとしたら、いきなり絵里に腕を引かれ、そのまま柱の影へと引っ張り込まれた
「っ……ちょっと、絵里! もぅ何? 急に。痛いなぁ」
「何、じゃないわよ! しぃっ! ほら、あれ……!」
「えぇ……?」
掴まれた腕をさすりながら絵里を見るものの、こちらには目もくれず、視線を1ヶ所に貼り付けたまま。
じぃっと見ているその顔は、まるで探偵か何かのような真剣さがあった。
「……なぁに?」
彼女が指を向けた方向には、しーちゃんがいる。
……けれど。
「あ……」
話している相手は、祐恭先生だった。
「……先生?」
「違う! そっちじゃなくて! あれよ、あれ!」
「え?」
呟いた途端、見ているほうが違うとばかりに、絵里が両手で私の頭を挟んだ。
そのまま向けられた目線――……の先。
そこには、自分たちと同じように、柱に隠れてそちらを見ている山中先生の姿があった。
「え、山中先生……? 何してるの?」
「知らないわよ。でも、あれって完璧に詩織を見てるわよね」
「……だね」
なんだか、とっても挙動不審に見える山中先生。
いつものイメージからは想像もつかないような格好だけに、眉が寄る。
「…………」
「…………」
暫く見ていると、しーちゃんが頭を下げて奥の渡り廊下を走って行った。
それを確認して柱から出ると、山中先生も同じようにしーちゃんを見ながら姿を現し、見えなくなったところで生物準備室へと戻っていった。
……少し落ち込んでいるようにも見える。
「怪しい」
「うん」
直接本人に聞くことはできないからこそ、気にはなる。
すごく大人しくて、恥ずかしがりやで、とにかく控えめな山中先生。
そんな彼が、なぜあんな行動に出たのかわからず、結局、絵里との結論は『なんかわかんないけど怪しい』という、私たちにもよくわからないまま終わるしかなかった。
――だけど。
そんな山中先生の怪しい姿を見かけるようになったのは、その日だけじゃなかったんだよね。
あるときは休み時間。
あるときは昼休み。
そして、またあるときは先日と同じような放課後。
とにかく、しーちゃんがいるところには、彼もいるようになっていた。
今考えてみると、それだけで十分怪しかったんだよね。
だから、もっと早く気づけばよかったんだけど……“あの”山中先生だからこそ、ほかの先生ならば考えつくであろう理由には、なかなか行き着けなかった。
それから、何日か過ぎた金曜日。
もう、明後日には夏休みに入ろうとしている、そんな放課後のこと。
実験室で準備をしていると、祐恭先生が声をかけてきた。
「へぇ。今日は、ずいぶん気合が入ってるね。何かあったの?」
「え? そう……ですか?」
「うん。……あー……。もしかして、テストのこと気にしてる?」
「う」
痛いところをグサリと突かれて思わず言葉に詰まると、その様子を見てか彼が笑った。
「赤点だったら許さないけど、今回は平均点上回ったし……いいんじゃない?」
「……上回ったって言っても、1点ですよ?」
「いいんだよ。1点だって、大事」
ビーカーに蒸留水を注ぎながら苦笑を浮かべると、テーブルへ両手をついた祐恭先生が顔を近づけた。
「っ……」
まるで何かを企んでいるかのようにも見え、思わず喉が鳴る。
「……何か期待した?」
「な……! ななっ……!?」
近い距離でニヤリと笑われ、慌てて首を振って否定するものの、彼はやっぱり楽しそうだった。
からかわれているのはわかっているけれど、やっぱり何度されても慣れることはない。
……先生、どうしてそんなに楽しそうな顔をするんだろう。
未だにクスクスと笑われ、どんな顔をしていいのかわからないのに。
「……ん?」
「え?」
準備室から戻ってきた絵里が、不思議そうな声をあげて足を止めた。
ちょうど、廊下へのドアを見ていて、何かと思いきや山中先生が顔を覗かせている。
「……怪しい」
「うん……」
眉を寄せた絵里がそちらに歩み寄り、じわじわと距離を詰めていく。
でもその前に、まるで何かを探しているかのような山中先生と、目が合った。
「……あ、あの、瀬尋先生」
「え?」
山中先生の小さな声で振り返った祐恭先生もまた、顔だけをドアから覗かせている彼の姿を見て不思議そうな顔をした。
入ってこようとしない彼のために、祐恭先生がそちらに足を向け、何やら話をしている。
だけど、小さな声なので何の話をしているのかまではわからず、絵里と顔を見合わせるしかできなかった……けれど。
なんとなく、山中先生が焦っているように見えて、それが普段と全然違うから不思議だった。
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