……なんでそんな格好してるんですか。
振り返った先に見つけた山中先生の姿を見て、俺としてはそう問いたかった。
だが、かりにも彼は先輩教師。
さすがに、そんな質問をすることは控えたい。
「あの……瀬那さん、いますか?」
「ええ、いますけど。……彼女に何か?」
“彼女”
それはきっと、違う意味で出た単語だったんだろう。
彼が名前を挙げた子が、あまりにも身近すぎるだけに、つい眉が寄る。
彼女に、なんの用だと言うのか。
「あの……少しお借りしたいんですけれど、よろしいですか?」
「……ええ」
申し訳なさそうな彼にうなずくと、途端にほっとしたような顔を見せた。
だからこそ、余計気にはなる。
彼は、背こそそんなに高くはないが、いわゆる童顔で穏やかな人柄だ。
性格もシャイで優しく、好感を持つ者のほうが多いだろう。
そんな人物が、自分の彼女に用事というのが少し引っかかったものの、とりあえず手招きして呼び寄せる。
「なんですか?」
「山中先生が呼んでる」
「え……と、私を……ですか?」
「うん」
きょとん、とした羽織ちゃんを見た山中先生は、ぺこぺこと頭を下げてからともに連れ立って出て行った。
その姿にはやはり違和感があり、正直に言えば行かせたくはなかったものの、そうも言えないのがツラいところ。
仕方なく黙って見送ってから実験の準備に戻る――ものの、やはり頭には入ってこず、隣に来た絵里ちゃんが腕を組んで俺を見た。
「先生、顔が笑ってないわよ」
「え?」
見ると、明らかに何かを意図したかのような表情で。
……別に俺の顔には何もついてないだろうに。
にやにやと見られ、眉が寄る。
「そんなに気になるなら、見てたらいいじゃない」
「いや、それはさすがに……」
「何言ってんのよ、顔にはハッキリ書いてあるくせに。ほらほらー、行きましょーよー。ぶっちゃけ、私も気になるし」
「あ、ちょっ……!」
ぐいっと白衣を掴んでドアまで連れて行かれ、口からは『ダメだ』とか『不謹慎な』とかというセリフが出そうにはなるものの、強くは止められなかった。
……そう。
彼女が言うように、やっぱり気になるんだよ。俺だって。
ドアへ身体を沿わせるようにしてノブに手を当てた絵里ちゃんを見ていたら、いつの間にか、ほかの生徒たちもこそこそと集まり始めた。
「いい? 開けるわよ」
絵里ちゃんが、音を立てないように薄くドアを開くと、同時にみんなが覗き込んだ。
まさに、隙間。
それでも少し離れた場所で話しているからか様子はよくわかり、まず、照れながら彼女へ封筒のような物を渡す山中先生の姿が目に入った。
声はさすがに聞こえないが、なんとなく雰囲気は伝わってくる。
「え? そんな……困ります」
「いいじゃないか。1度くらいデートしてくれたって」
「でも……私そんなつもりじゃ……」
「頼むよ! 1度でいいんだ。一生のお願い!」
「……わかりました。でも、これっきりですよ?」
「うわぁ、ありがとう! それじゃあ明日、楽しみに待ってるから」
「遅れないように行きますね」
繰り広げられる会話。
それは、“いかにも”が付くほどベタなデートの誘い文句で……と、そこでようやく我に返る。
「……絵里ちゃん」
「え? だってそんな感じでしょ?」
「ちょ、絵里うまいじゃん! ホントそんな感じよねー」
ぱちぱちと小さく拍手をされた絵里ちゃんは、まんざらでもなさそうな顔をした。
……冗談じゃない。
確かに、今のやり取りはそんなふうにも見えた。
だが、しかし――。
「あ、戻ってくるよ!」
誰かが発したその声で集団は一気にバラけ、まるで何事もなかったかのようにそれぞれのテーブルへ戻っていく。
蜘蛛の子を散らすとは、まさにこのことか。
「……ん?」
パタン、と音を立ててドアを閉めた羽織ちゃんが戻ってくると、ほぼ全員がにやにやとした笑みを浮かべていた。
その視線に気付いた彼女は不思議そうな顔をするものの、誰も何も言わない。
「ねぇ。何話してたの?」
「ふぇ!? ……あ、えっと……別に……なんでもないよ?」
今、声がうわずったな。
絵里ちゃんが質問した途端、羽織ちゃんは慌てたように大きく手を振った。
その様子は、まるで先ほどのアテレコそのまま。
だからこそ、いい気はしない。
「…………」
……気になったことは、直接本人に聞くのが1番だな。
そう思ったら即行動。
彼女の元へ足を向け……。
「祐恭君」
「っ、はい」
「悪いけどこれ、教頭先生に届けてもらえる?」
一歩踏み出したところで、準備室から顔を出した純也さんに捕まった。
気にはなる。
ものすごく。
……それでも、仕方がないか。
今は勤務時間で、何も今しか時間がないわけでもない。
「いいですよ」
「ごめん、頼むよ」
申し訳なさそうに差し出された封筒を彼から受け取り、首を振って実験室をあとにする。
どうせ、部活が終われば話す時間もあるんだし。
それもダメなら、電話することもできる。
なんせ、“俺の彼女”なんだから。
「……っ」
渡り廊下を曲がり、中ほどまで行ったところで向こうから見慣れた人物が渡ってきた。
「あ、瀬尋先生」
そう。
先ほど彼女を呼び出した張本人。
どこか嬉しそうに話しかけてきた山中先生とは逆に、つい言葉が消える。
「さっきはすみませんでした」
「いえ」
思ってもない言葉が出たことに、ああ自分は社会人なんだなと実感する。
聞きたいことはたくさんあるが、付き合っていることを内緒にしている以上、踏み込むことはできない。
……歯がゆいな。
自分の彼女のことなのに。
「瀬那さんって、本当にいい子ですよね」
「…………そうですね」
どういう意図の台詞ですか?
思わずそう言いそうになり、一瞬言葉に迷った。
当然だ。
彼女はいい子だろう。
……で?
いったい何を話し、そこから何を感じ取ったんだ。
少し照れているような彼の表情が気になりはしたが、そんな言葉はさすがに出てこなかった。
「それじゃあ。失礼します」
「どうも」
頭を下げられてこちらもそれに習うと、彼は逆方向に歩いて行った。
うしろ姿を見送り、自分も職員室へ歩き始める。
……まぁいいか。
気になることは、本人に直接聞けばいいんだから――と、このときはそう簡単に思っていた。
何も知らなかったから、だ。
……いや。
むしろ、あんなこと予想しなかったから。
「じゃーねー」
「またね」
部活が終わって、実験室も人がまばらになったころ。
準備室に向かった絵里を見送り、教員用実験台で片付けをしている祐恭先生に近づくと、すぐに私を見た。
「あのさ」
「? なんですか?」
普段よりずっと険しい顔に、思わずきょとんとなる。
……なんだろう?
テーブルに鞄を置いて彼を見上げると、1度視線を外してから再び目を合わせた。
「山中先生との話、なんだったの?」
「っえ……」
予想外の質問だった。
思わず彼から視線が外れ、どう答えればいいか迷う。
……どうしよう。
などとしばらく考え込んでいたら、自分より先に祐恭先生が言葉を続けた。
「明日、迎えに行ってもいい?」
「えっ……明日、ですか? あの……明後日じゃだめですか?」
「何か用事?」
「……はい」
言えない。
……本当なら言ってもいいはず――ううん。
言えないことだ。
たとえ、相手が彼だとしても。
だってこれは、約束だから。
「…………」
うしろめたいわけじゃないのに視線が落ちてしまい、テーブルに置いた指先を見つめる。
と、彼のため息が聞こえた。
「……そう。わかった」
普段聞かないようなささやきで顔をあげると、視線を外した彼が器具を片付け始めた。
……心なしか、元気がないように見える。
「祐恭先生、明後日は忙しいですか?」
「明日は誰と出かけるの?」
「っ、それは……」
答えの代わりの質問に口ごもると、目を見たまま小さくため息をついた。
「じゃあ、また月曜ね」
「あ……」
笑顔でない顔が寂しげに見えたのは、いつぶりだろう。
ちくりと胸が痛むものの、彼は再び視線を合わせることなく準備室へ行ってしまった。
「祐恭先生……!」
きびすを返して中に入ってしまった彼を見て、思わず焦る。
……え……やだ、どうしよう。
私のせいだ。
私が、断ったから。
……ううん、それだけじゃない。
本当のことを言わなかったからだ。
「……っ……」
胸が苦しかった。
だけど、まだ言うことはできない。
不確かな情報を、彼に与えてしまうわけにはいかなかった。
『ほかの子まで巻き込んで――』
先日、山中先生に言われた言葉がふと蘇り、だからこそ今は言えないと強く思ったのかもしれない。
「…………」
やだな、不安ですごく苦しい。
でも、これ以上話を聞いてもらえるような雰囲気じゃないし、何も伝えられない以上あとは追えない。
せっかくの金曜日なのに、彼の笑顔を見れず帰らなきゃいけないのが、こんなにもつらいなんて思わなかった。
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