「……ねぇ、絵里ぃ……」
「何よ」
「ちょ……ねぇ、本気? ホントにやるの?」
 ひそひそ声での、秘密なやり取り。
 ときおりごそごそと言った物音が聞こえるが、それ以外は本当に静かだった。
 場所は、どこかの室内。
 ときは――……朝の8時。
 すでに家人は出かけてでもいるらしく、彼女たちふたり以外の声は聞こえない。
「何言ってんのよ! 当たり前でしょ? そのために準備して来たんじゃない!」
 ぼそぼそとした小さな声ながらも、その叱責は鋭かった。
 途端にもうひとりの子が、『うぅ』と困ったように声を漏らす。
 ……が、しかし。
 よく見れば、その彼女こそも普段とはまた違った格好をしていて。
 どうやら、『この期に及んで』と言うまさにソレのようだ。
「さ、やるわよ!」
「うー……。でもやっぱり、恥ずかしい……」
「えぇい、女もときには度胸よ!!」
「ひぇ!?」
 ぶんっ、と風を切る音に続いて、ばさばさという布のような物がはためいた。
 そして――……
「……よし。準備完了! いい? やるわよ?」
「う。……りょ……了解」
 彼女たちふたりは、改めてスマフォを手にした。

 ときは、同刻。
 場所を冬瀬女子高等学校の化学準備室へと移し、物語はさらに進む。
「……はー……。なんか、ここ数日ずっと同じ話しか聞いてない気がする」
「あ、同感」
「だよな。いい加減、ホントしつこいと思うんだけど……」
 まぁ、それも職業柄仕方ないのか。
 そんなふうに呟いた純也さんに、たまらず苦笑で同意する。
 ようやく、朝の申し送りが済んだ今現在。
 ……そんな今日は、2月14日。
 それは『めでたい』という言葉が似つかわしくない、由来がある記念日。
 ……なのだが。
 一般的には、まるでクリスマスと同等の扱いすら受けているんじゃないかと思うほど、にぎやかで。
 お祭り騒ぎ然り、浮かれムード然り。
 いろんな意味で、今日だけは空が薄ピンク色の靄がかかっているようにさえ感じられる。
 朝から、テレビも新聞も、そう。
 この件に関して触れていないメディアは、ひとつもなかった。
 ……だが、それだけじゃない。
 今日、家からこの職場に来るまでの間、いったいどれほどの色に染まった人々を目にしただろうか。
 思い出すだけでも、正直……うんざりする。
 何も、右へ習えの精神じゃなくてもいいんじゃないか?
 誰だ? 最初に『今日はチョコを渡す日です』なんてふれこみをしたヤツは。
 ……まぁ、なんでもいいけど。
 今日は普通の平日で。
 彼女が家に来る可能性が……まぁ、なきにしも非ずとはいえ、現在は受験真っ只中。
 余計な時間を俺に当ててもらうわけにはいかないからこそ、ひとり寂しく……いや、別に寂しくないけど。
 今や、スマフォがありふれている時代。
 ボタンひとつで彼女と連絡だって取れるんだから、そりゃ、別に寂しくはないけど。
「……はー……」
「寂しい?」
「うぇ!? いや、その……はは」
「はは」
 思わず漏れたため息を鋭く指摘され、ついでにいたずらっぽく笑われる。
 ……参ったな。
 前々からずっとわかってたことだし、何よりも今週の頭は祝日で、いつもより多めに一緒にいられたのに。
「……ま、気持ちはわかるけどね」
「そうですか?」
「うん。相手があの、かわいい彼女ならばの話だけど」
 『言っておくけど、俺は違うぞ』
 まるで、今の純也さんの言い方じゃ、そう聞こえそうだ。
 そうは思っても、もちろん黙っておく。
「……しっかし、バレンタインねぇ……」
 ぎし、と頭の後ろで両手を組みながら椅子にもたれた彼が、宙を見つめた。
 その目には、ほかの男性教師が抱いているような、きゃぴきゃぴという輝きもなければ、がっついてる感じももちろんない。
 むしろ――……やはり、どこか疲れたような印象がある。
「俺さー、何回も言ったんだよなー。クラスで『バレンタインにチョコなんか持って来るな』って」
「『菓子業界の戦略に乗せられるな』って?」
「ははは、そうそう」
 頬杖をつきながらニヤっと笑うと、大きくうなずきながら、おかしそうに笑った。
 今日という日が近づいてくると、大抵その言葉が出てくる。
 『所詮、バレンタインは菓子業界の企み』だとか、『金の無駄遣いだ』とか。
 ……まぁ、別に外れてないと言えばそうだろう。
 なんせ、バレンタインのためだけに日本国内で消費されるチョコレートの量は、年間の何分の1だとかって話もあるし。
 だが。
「……そうは言ってもさー、やっぱ……持って来たいヤツはいるだろうし、逆に――……もらいたいヤツも多いんだろうなー……と思って」
 ちらり、と彼が視線を向けたのは、窓の方向だった。
 本日はお日柄も良く、晴天に恵まれた。
 暖冬だというのもあるのだが、昨日よりもずっと暖かい。
 ……だが。
 彼が見ているのはそんな天気云々なんかじゃもちろんなくて。
「……ですね」
 はは、と乾いた笑いとともに呟いた俺には、よーく理由がわかっていた。
 ――……話は、少し遡る。
 今日は、週の頭などでは決してない。
 ……なのだが、なぜか今朝は“特別”と称した生徒指導が校門でちゃっかり行われていた。
 当然、俺も純也さんも、話なんて聞いてない。
 いや、それどころか俺たちと同じような反応をしていた先生方は、割と……いや、大半で。
 教員連中が知らないんだから、生徒などに連絡できるはずがない。
 何も聞かされていなかった生徒諸君も、当然のように怒号と罵声を彼ひとりにばっちり浴びせていた。
 ……しかも、不可解なのはまだ続く。
 校門で車ごと止められたかと思いきや、窓を開けるなり『あ、男性は結構です』というあからさまな答え。
 さらりという口調といい、明らかに俺を見ずほかの生徒を見ている目といい……あれはもう、ひとつしか考えてない証拠。
 一瞬だけ目が合ったそのとき感じたのは、異様なまでの執念。

 『俺がもらえないのに、ほかの教師にくれてなどやらない』

 まるで、そう言いたげなハタ迷惑な目だった。
 車を停めてから職員用玄関に向かおうとしたとき、ふと目に入ったのは、彼のかたわらにあるやたらデカい麻袋。
 何が入っているのか――……など、わざわざ考えるまでもない。
 きっと、生徒たちから問答無用で没収を繰り返した、彼にしてみれば“戦利品”の数々でも収められていたんだろう。
 ……それが目に入ったとき、同じ男として悲しさを覚えた。
 ああはなりたくないな。
 きっと、彼を見た同じ男性職員すべてが、そう思ったんだじゃないだろうか。
 ――……しかし、彼の奇行はこれで終わらない。
 職員室で行われた定例の申し渡しのときも、彼は群を抜いていた。
 第一声が『女性のみなさん、今日はチョコレートなどお持ちになられてませんね?』。
 その時点で、割と8割方がさーっと引いた。
 近くの机に座っている日永先生でさえも、笑顔を張り付かせたままで、内心煮えたぎっていたんじゃないだろうか。
 何度か同僚の先生に『日永先生、堪えてください』と押し留められていたのも目に入ったし。
 とにかく、なんだかよくわからないが、今朝のあの内山先生の態度は尋常じゃなかった。
 ……というか、正確にはまぁ……内山先生『と、その仲間たち』といったところであるが。
 今日の日をもって、彼らグループがひと目にして把握できたので、その点ではまぁ……ありがたいと言ってもいいかもしれない。
 まぁ、それが少なくとも汚点であろうことは、容易にわかるだろうが。
「……しかし内山先生の勢い、すごかったよな……」
「すごかったっすね」
 ぽつりと呟かれた言葉に、深くうなずく。
 すでに1時限目も始まり、隣の実験室では授業が開始されている。
 そんな中、今の時間は受け持ちがない俺たち。
 窓から温かい日差しがあるというのも理由のひとつではあるが、やはり……のんびりとした会話のみになってしまう。
 あ、いや。
 もちろん、仕事を見つければ幾らでもあるんだが。
 俺だって、今週末までの論文が半分残ってるし。
 ……でも、今日という日のせいなのか、はたまた強烈な朝の印象のせいなのか……。
 今だけは、どうやらバレンタイン談義から離れられなさそうだった。
「……モテな……いやいや。えーと、そうだな……まぁ、なんだ。ある種一部の情熱しか燃やしてらっしゃらない男性教師の方々は、すぐ菓子業界の企みだって口にするのはやっぱ、セオリーだよな」
 何やら刺々しい敬語で続けた彼に、つい苦笑が浮かんだ。
 言いたいことは、痛いほどわかる。
 むしろ、それを俺も言おうとしていた。
「あー。確かに、それはあるかもしれないっすね」
「だよな。なんか……いつの時代になっても同じなんだよなー、そういうのって。そのくせ、もらえるかどうか人一倍気にしてるクセに。今日だって、女性の先生から声がかかるたびに、すげー挙動不審だったし。……そわそわしすぎだよな、アレは」
 参った、と言わんばかりの表情で首をかしげた彼に、まだもやうなずく。
 確かに彼は、同僚だけでなく生徒にまで、きらきらした目を向けていた。
 ……いや、その表現は不適切か。
 間違いなくアレは、“ギラギラ”してたからな。
「そういや、今日の内山先生のジャージ……なんか無駄にラメが入ってましたよ?」
「ラメ!? うっはー、気合入ってるねー。……放課後、収穫状況でも聞いてこようかな」
「……強気だ」
「はは」
 いつの間にか、徐々に声が大きくなり始める。
 ……が、しかし。
 今回ばかりは、なぜかほかの先生方から注意されることも苦情が来ることも、一切なかった。
 それはやはり、アレなのだろうか。
 ほかの先生も……同感、っていう……。
「今ごろ、体育教官室は大変なことになってるんだろうな……」
「間違いなく、いづらいですよね」
「だな」
 互いにうなずきながら再び視線を向けるのは、すぐそこにある体育館。
 ……の、教官室。
 そういやあそこには、『誰よりも強い女性教師』伊藤先生その人がいらっしゃるんじゃ。
「………………」
「………………」
「……まぁ……せっちゃんがいるから、平気かも……な」
「……そう…………ですね」
 ひとしきり笑いあったあとで、どうやらお互いにそこに気付いたらしい。
 最後には、はーぁという大きな大きなため息をついたことで、この話が打ち切りになった。
「失礼しまーす」
「……あれ?」
「お」
「ども。こんちは」
 明るい声とともに入って来た、人物。
 そんな彼を見てから、純也さんと顔を見合わせて……そしてまた、来訪者へと顔が向いた。
 ……あ、なんか嫌な予感。
 ピンとまず感じたのがそれだったのだが……果たして。
 俺のこの勘は、正解であったのだろうか。
「……何しにきたんだよ」
「ん? ちょっとねー……ほら。せっかくのバレンタインだし」
 にっこりと笑いながらふたつの箱を掲げた彼を見たままで、当然のように眉が寄った。
 ――……菊池優人。
 間違いなく彼は、祝福よりも……災いをもたらす男。
 楽しそうな声とともに小箱が机に置かれ、なんとも言えない嫌な感じが身体に入って来たのを感じた。


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