「……ん……」
 少しだけ、寝苦しさから意識がはっきりし始めたのがわかった。
 わずかに身体を動かすと、すぐに布が擦れるような音がする。
 ……温かい……。
 ここはもしかしたら、お布団だろうか。
「……っ……あ!」
 そんなことを考えながらどうしようか悩んでいると、不意に、ぱっと目が開いた。
「ッ……あ、れ……? ……ここ……」
 目が開いた瞬間『絵里』と名前を呼びそうだった。
 ……なんだろう。
 なんだか、長い夢を見ていたような気がする。
 しかも、すごくすごーーく現実っぽい……。
「……っ……」
 一瞬、ぞくっと身体が震えて、ぎゅっと両肩を抱きしめていた。
 …………ん?
 …………。
 ………………。
「ッ……わぁ!?」
 やけにすべすべするな、と思ったら……な……何!? これ!!
 思いっきり露出している、肩と胸元。
 とてもじゃないけれど、この格好だけじゃ今が2月だとは到底思えない。
「な……なっ……!?」
 ごくりと喉を鳴らしてから改めて我が身を見ると、やっぱり……見間違いなんかじゃないみたいだった。
 明らかに着てなくて、しかもしかも……て、手近には服なんか見当たらなくて。
 ……こ……これは。
 これはいったい、その………ど、どういうことなんだろう。
「…………」
 思い出そうとしても、正直思い出せない。
 それどころか、どうして田代先生の家にいたはずの自分が、こうして……祐恭先生のベッドに寝ているのかも、よくわからないほど。
 ……。
 ……えっと……。
 これはやっぱり、その……。
「……聞かなきゃわからない、のかな……」
 間仕切りから漏れてくるリビングの明かりを見つめたまま、ごくっと小さく喉が鳴った。

「…………」
 抜き足、差し足、忍び足。
 こそこそと間仕切りまで進み、そっと……そーーっと、開けてみる。
 ――……と。

 ぎぃっ

「ッ!!」
 いきなり軋んだ音がして、思わずその場から飛びのいていた。
「び……びっくりした……」
 ばくばくと高鳴っている胸を両手で押さえ、しゃがみ込んだ体勢から、ゆっくりと立ち上が――……ろうと、した……とき。

「何してるのかな?」

「ッひゃ……!?」
 目の前が暗く翳ったかと思いきや、高い位置から彼の低い声がした。
「わ、わわっ……!? や、あ、あのっ、あの……ですね……!? こっ……これには、そのっ……ふ……ふ、深いわけが……!!」
「……ほぅ。それはいったいどんなワケかね」
「ぅ。そ……それは……その……」
 ぺたん、と両膝を床に付いて首を振り、しどろもどろに弁解を続ける。
 だけど彼は、そんな私をまじまじと見つめたままで、相変わらず楽しそうな表情を崩そうとしなかった。
「……ぁ……」
「なんでそんなカッコしてるか、覚えてない?」
「……覚えてない……です」
 音もなく間仕切りを開けられ、同時に彼がしゃがむ。
 ちょうど目の高さが同じになって、だけど……うぅ。
 だからこそ、一層恥ずかしさが募る。
「……え?」
 でも彼は、緩く首を振った私を見ながら、少しだけおかしそうに笑った。
「絵里ちゃんと酔っ払って、騒ぐだけ騒いで、説教してから寝たんだよ」
「……へ……?」
「だから、説教したの。羽織ちゃんが、純也さんに」
「え……」
「……ん?」
「う……うえぇえぇぇえええ!? そっ……そんっ……えぇえ!?」
 にっこり笑って告げられた言葉に、思わず瞳が丸くなった。
 でも、さすがにそれだけじゃ終わらない。
 だって、そのっ……そ……その、その、だよ!?
 わ、わたっ……私が、私が田代先生にお説教って……なにー!?
 思わず、ぽかんと口を開けたままで、だけど彼の話してくれている状況がまったく飲み込めなかった。
「……まぁ、無理はないと思うよ? かなり酔ってたし」
「う……そ、そうなんですか……?」
「うん。あれはもう、泥酔どころのレベルじゃなかったな」
 顎に手を当てて視線を逸らした彼に、ちくちくと痛いところを突かれた。
 ……っていうか、その前に。
 そもそも、私が本当はお酒を飲んじゃいけないのに飲んじゃった(らしい)ってことを、先生は知ってるわけで。
 …………しかも、その……私がまったく覚えていない恥ずかしい言動も、ばっちり……覚えているようで。
「…………うぅ……。す……すみません……」
「ったく。困るよなぁ? 受験生が酒に溺れるなんて」
「うー……」
 はーぁ、と思い切りため息をついてから立ち上がった彼が、私を見ずに再びソファへと戻って行った。
 どうやらすでにお風呂を済ませたらしく、先生が着ているのは普通のパジャマ。
 ……うぅ。
 こんな、風邪引きそうな格好でいる私とは、本当に大違いだ。
「……本当に、すみませんでした……」
 きゅっと裾を思いきり握り締めてから、ゆっくりと彼の元へ歩いていく。
 ……うぅ。
 恥ずかしいっていうか、その……それ以前にもう、なんだかばっちり下着が見えてしまっているような。
 でも、あたりには何も羽織れるような物がなくて。
「…………」
 ちょこんと彼の前へ膝を揃えて座ると、真っ赤になった顔を隠すかのように自然と顔が俯いた。
「……っえ……」
 その、途端。
 彼がふわりと上着をかけてくれた。
「……先生……」
「どういう経緯でああなったのかはしらないけど……ダメだろ? 酒なんか飲んで」
「……すみません……」
「ただでさえ、絵里ちゃんは常習犯なんだから。もっと気をつけないと」
「……はい……」
「ったく。……ンな格好して、食われでもしたらどーするんだ」
「…………え」
「……ん?」
「あの、先生……? 今、その……なんて……?」
 ぺこぺこと頭を下げていた私の、聞き間違いだっただろうか。
 ……いや、あの……でも、ちょっと待って。
 今確かに、なんだか……よからぬセリフが聞こえたような気がしたんだけど。
「いや、だから。風邪引くって言ったんだよ」
「……あ。……それは……はい。すみません……」
 おずおずと視線を上げて聞き返した私に、彼はため息混じりに瞳を細めた。
 ……うぅ。
 どうやら、もしかしたらまだ頭が若干眠っているのかもしれない。
 ……そうだよね。
 いくら先生だって、そんなこと言うはずないもんね。
 ひとりで何度かうなずいてからそっと彼を見上げると、改めて小さなため息をついたのがわかった。
「以上」
「……え……?」
「説教終わり」
 ソファの縁に頬杖をつき、じぃっと私を見つめた彼が――……ふっと表情を変えた。
 途端、心までほっとほころんだみたいに、表情がほどける。
「……ありがとうございます」
「ん。感謝しなさい」
 最後にもう1度頭を下げると、にっこり笑った先生もうなずいてくれた。
 ようやく身体が動き、かけてくれた彼のパーカーを握り締める。
「……えへへ」
「…………ったく」
 ゲンキンだな、なんて笑いながらも、隣に滑り込んだ私をすぐに抱き寄せてくれた。
 途端、身体がじんわりと温かくなる。
 ……実際、先生の手が温かいっていうのが1番の理由だとは思うんだけれど。
「……あっ」
「ん?」
 ぴたり、と彼に寄り添ったとき、目に映ったテレビの映像であることを思い出した。
「あのっ……! あの、えっと……田代先生のお家に、これくらいの……その、小さな箱、ありませんでしたか?」
 がばっと身体を起こしてから、まっすぐに彼へ向き直る。
 コレくらいの、と両手でサイズを示しながらも、だけど……うまく言葉が出てこない。
 『あの』とか『ええと』とか。
 頭にはきちんと大きさも包みの色も柄も思い浮かぶのに、言葉にできないのがもどかしくてたまらない感じだ。
「……ああ。コレ?」
「っ……! そうですっ!」
 まじまじと私を見つめていた彼が、まさに今頭に浮かんでいた包みをチェストの上から取り出した。
 途端に瞳が丸くなり、同時にぱっと表情が明るくなる。
「俺の名前が書かれてたからさ、一応もらってきたんだ」
「よかったぁ……! そうなんですっ。コレは、先生にあげ――……ぁ……」
 彼から包みを受け取ってすぐ、失態を犯したことにすぐ気付いた。
 ……だけど、ときはすでに遅すぎるほど。
 にんまりと何かすぐに次の言葉が出てきそうな顔をした先生は、改めて頬杖を付いてから、大げさに肩をすくめてみせた。
「へぇー? 俺に、なんだ? ……ふぅん。何かなー? それ」
「……ぅ……。そ……それは、その……」
「なーにーかーなー?」
 わざとらしい声をあげながら、なおも執拗に私を追いやる。
 ……うー。
 どうしてこういうときはこんなにも楽しそうな顔をするんだろう。
 不思議というよりも、本当に困ってしまう。
 ……だけど……その……ね。
「あの……これを……」
「ん?」

「先生に、どうしても受け取ってもらいたくて……」

 きゅっと握り締めた包み。
 それを精一杯彼へ差し出すと、また、頬が赤くなった。
 ……そして、同時に視線が下がる。
「…………あ」
「ありがと。……いつ言ってくれるのかと思って、待ってた」
 すっ、と手から感触がなくなって顔を上げると、先ほどまでとは打って変わって、本当に優しい顔をした彼がにっこりと微笑んでくれた。
 途端、心の1番柔らかい部分がぎゅうっと震える。
「……よかったぁ……」
 そして、ほんの少しだけ涙が浮かんだ。
「開けていい?」
「もちろん!」
 視線を合わせてから訊ねた彼に、思いきり首を振る。
 すると、ほんの少しだけおかしそうに笑ってから、ゆっくりとリボンを紐解いた。
 しゅっという小さな音とともにリボンが床へ落ち、続いて紙の音が聞こえてくる。
 ……ほんの少し。
 たった、ひとくちでもいい。
 だからどうか――……先生が、食べてくれますように。
 どうしても彼の反応をすぐに見れず、目を閉じたままでそんな願をかけていた。
「……へぇ」
「あ、あのっ……! 一生懸命作ったんです」
 まるで、弁解。
 彼に何を言われるのかが少しだけ不安で、慌てて言葉を付け足していた。
「……あ……」
「へぇ。……なかなか」
「……ほんと……ですか?」
「うん。うまいよ?」
 顔を上げてすぐに、彼がチョコレートを口にしてくれているのがわかった。
 ひとくちサイズの、小さなパウンドケーキ。
 それにチョコレートを絡めてから、改めてチョコペンでハートをなぞった物。
「……よかった……」
 それを今確かに彼が食べてくれて、ぺろっとチョコの付いた指を舐めた。
 ……それが、すごくすごく嬉しくて……たまらない気持ちになる。
 だって、甘い物は好きじゃないはずなのに。
 それこそ、普段だってまず自分から好んで口にしたりしないのに。
 ……嬉しい。
 嬉しくて嬉しくて、本当に、どうにかなってしまいそう。
「……よかった……」
 そう思ったら、また頬が緩んでいた。
「これ、絵里ちゃんと作ったんだって?」
「あ、はい! ……っていうか……ケーキ自体は絵里がひとりで焼いたんですよ?」
「……マジで?」
「もちろん!」
 嘘なんか言いませんよ、と続けてから、苦笑を浮かべて首を振る。
 あまりにも、先生の反応がおかしかった。
 何も、そんなにびっくりしなくても……。
 瞳を丸くしてまじまじとケーキを見つめた彼に、くすくすと笑いが漏れる。
「だから、ケーキのほうは私……デコレーションしただけなんです」
「へぇ……それは驚き。てっきり羽織ちゃんが作ったんだと思った」
「上手でしょう? 絵里」
「うん。……びっくりした」
 まじまじと見つめた彼が、改めてケーキを手に取った。
 ……もしかしたら。
 先生でさえこんなにびっくりしてくれるってなると、田代先生はもっと……ううん。
 何倍も何十倍も、びっくりしちゃうかもしれない。
「じゃ、こっちは?」
「……あ……。えっと、そっちは……私が……」
 そっとつまみあげられた、小さなチョコレート。
 お世辞にもキレイとは言えないハート型のそれは、私が型を取った物だ。
「っ……あ……」
 どうしようかと言葉を迷っていたら、その前に彼が口へ入れた。
 ――……そして。
「……ん」
 感想を聞こうかと唇を開いた瞬間、親指でチョコレートを差し込まれる。
 すぐに、舌の上でとろけだすチョコ。
 だけどなんだか、いつも自分が口にしているような市販のチョコとは違って、少しだけ不思議な味がしたように思えた。
「……甘い……ですね」
「うん。でもうまいよ」
「よかった……」
 最初に思ったことを口にすると、彼がすぐに続けてくれた。
 ……その言葉を聞けたことが、心底嬉しい。
 そして、幸せな気持ちでいっぱいになる。
 ……よかった。
 本当に、そのひとことで大満足な気分。
「このチョコ、絵里が用意してくれたんです」
「絵里ちゃんが?」
「はい。なんでも、ちょっと特別なチョコレートとかって言ってましたけど……」
 あれは、数日前のこと。
 一緒にバレンタインの準備をしようと持ちかけたとき、にっこり笑った絵里が提案してくれたのだ。
 普段は口にできないような、本当に身も心もとろけちゃうようなチョコがある、って。
 ……確かに。
 そのときはいったいどんなチョコなんだろうって思ってたけど、味わってみると絵里の言葉がすんなりわかる。
 なんだか……不思議。
 とても甘いのにあとを引かなくて。
 でも……もっと食べたくなる。
 ――……そして。
「……ぁ……」
 少しだけ、身体と気持ちが、緩くほどけていくような感覚にも。
「ん……ん……」
 ゆっくりと重ねられた唇が、心底心地いい。
 ……なんか……なんだろ。
 すごく、どきどきする。
 先生がしてくれるキスはいつだって大好きだし、いつだって……特別。
 だけどなんだか、今だけはそれ以上の気持ちが湧いて溢れてきているような、そんな気がした。
「……ん……はぁ……」
 チョコの余韻が残っていたみたいで、比喩なしに甘い口づけ。
 ちゅ、と少しだけ濡れた音とともに唇が離れると、どこか切なくて……寂しくなる。
「……あ……え、っと…………お風呂、行ってきますね……」
 少しだけ、私を見つめる先生の視線が、さっきまでと違うような気がした。
 艶のある瞳というか、艶のある表情というか。
 とにかくもう、見つめられているだけでおかしくなってしまいそうなほどの……そんな雰囲気があって。
「……ん。行っておいで」
 囁かれた声も、さっきまでと違う。
 ……どきどきする。
 言葉を紡いだ唇を見ていたら、つい先ほどまで触れられていた感触が蘇って、ぞくりと背中が粟立った。
「っ……じゃ、行ってきます」
 もう1度。
 ……ううん。
 もう、本当に……何度でも。
 どうしても先生とキスがしたくなる衝動に駆られて、慌てて立ち上がって背を向けた。
 …………お風呂、行かなきゃ。
 そうしないと、本当に……あと戻りができないような。
 そんな、不思議な力や魅力が今のこの場所に溢れているような気がして、小さく喉が鳴った。


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