「…………あふ……」
 思わず、大きな欠伸が出た。
 ……途端。
「……ほぉ?」
「っ……」
 すかさず、ため息とも欠伸ともまったく違う種類の声が、すぐに絡んでくる。
「眠たそうですわね? 羽織さん」
「……なんでそんなに楽しそうな顔してるの?」
 にやりと笑ったのは、隣で赤本を開いていた絵里。
 その瞳に、きらりと怪しげな光がともる。
「べーつにー? ううん? なんでもないけど」
「……そういう顔じゃない」
「あら? そぉ? ……ふふ。それじゃいったい、どんな顔なのかしらん?」
 にこにこにこ。
 片手で器用にシャーペンを回しながら、まるでお嬢様スマイルのような品のある笑みを返された。
 ……どんな顔って……。
 眉を寄せたまま口を開こうとはしたんだけれど――……でも、やっぱり何も言わないことにした。
 多分、このほうが懸命だと思ったから。
 いろんな意味で、そう自己判断が下ったんだと思う。
「…………」
「……あら、何よ。いいの? 言いたいこと言わないと、ストレス溜まるわよ?」
「……そんなことないもん」
「そぉ?」
「…………そうだもん」
 目を合わせようとしてくる絵里と、必死にそれから逃れようとする私。
 その攻防は、やっぱり端から見たら滑稽そのものだろう。
 ……でも、ダメなの。
 今捕まったりしたら、多分困るのは私。
 …………ううん。
 『多分』じゃなくて、『絶対』だ。
「あ、そうそう」
 黙々と視線をノートに落としたまま、なるべく反応を見せないようにする。
 だけど絵里は、そんな私の様子なんかまったく気にしていないみたいに、ぱちん、と手を叩いた。

「昨日のチョコ、どうだった?」

「っ……」
 ぴく。
「……んん?」
「……別に……。えっと……おいしかった、けど」
 突然前触れもなかった指摘され、心の準備ができなかった。
 赤本を持っていた手が震え、明らかに動揺を見られた……と思う。
 ……多分。
 だって、怖くて絵里をちゃんと見れてないから。
「おいしかった? アレ」
「……うん」
「そお。……よかった」
 ふふ、と意味ありげに笑った彼女が、そのまま――……。
「……あれ……?」
「ん?」
 何も言わず、特にこれといった反応も見せず、赤本へ向き直っていた。
「なに?」
「え? ……あ……。ううん。別に……」
 不思議そうな顔をした彼女に、どうしても面食らってしまう。
 だって……え?
 何も、ないの?
 そこで……終わり……?
「……ごめん、なんでも……ない」
 私の言葉を待っているようだった絵里を見たまま首を振り、静かに視線を落とす。
 すると絵里は、『なぁに?』とくすくす笑いながらも、同じように視線を落とした。
 …………。
 …………。
 再び、リビングには静寂が戻った。
 互いのシャーペンを走らせる音だけが響く、あの……大人しい時間。
 …………。
 ……え……?
 これでいいの?
 っていうか……てっきり、もっといろいろ言われたり聞かれたりするんだとばかり思ってた。
 だからこそ、意外といえば意外だし、面食らうといえばそう。
 ……落ち着かない、ってわけじゃないけれど。
 でも、あまりにも予想してたのと違う行動となると……。
「…………」
 思わず、顔を伏せぎみにしたまま、瞳だけで絵里を見てみる。
 だけど絵里は、やっぱりこれといって何か言いたげな顔をしているわけでも、怪しげな笑みを浮かべているわけでもなかった。

「……あ、そうそう」
「え?」
 どれくらいそのままでいただろう。
 絵里の態度が妙だったなんてことをすっかり忘れて問題を解いていたんだから、多分結構な時間だと思う。
 そろそろ休憩しようかな……なんて思ったときになって、絵里が思い出したように顔を上げた。
「あのチョコね、ちょっとあまっちゃったんだけど……よかったら、貰ってくれない?」
「チョコ?」
 そう言いながら、ごそごそと鞄を漁り出した彼女。
 ものの数秒も経たない内に、キレイな箱がテーブルに置かれた。
「私も半分以上食べたんだけどさー、なかなか減らなくて。だから、羽織も食べてくれない?」
「……うん。それはまぁ……別にいいけど」
 困ったような絵里を見て、思わずうなずいていた。
 私だって別に、チョコレートが嫌いなわけじゃない。
 それに、このチョコはやっぱりおいしかったし。
 ……えへへ。
 なんだかんだ言って、もしかしたら単に“特別”という言葉に弱いだけかもしれないけれど。
「ん?」
 笑みを浮かべたまま、それに手を伸ばしたとき。
 瞳の端で――……絵里が一瞬、にやりと笑ったような気がした。
「……なに?」
「ん? いや、相変わらず甘いもの好きだなーと思って」
「ぅ。……だ、だって……」
 くすくす笑いながらも、差し出してくれたそれをしっかり受け取る。
 すでに封は開いているので、上蓋と紙を取ればすぐそこにチョコがあった。
「食べていい?」
「手に持ってて、そのセリフはないでしょ」
 思い出してから彼女を見ると、苦笑を浮かべてからうなずかれた。
 ……それもそうだ。
 確かに、もう少し早い段階で聞かなきゃいけなかったよね。
 ついつい、『そろそろ休憩を』と思っていたタイミングで出されたので、迷わず手が出ていた。
「……おいし」
 指でつまんでから含むと、すぐに甘くて香り高いチョコレートが溶け出す。
 ……おいしい。
 昨日も思ったけれど、やっぱりこのチョコおいしいよね。
 …………でも。
「…………」
 絵里と一緒に使ったチョコレートの量だって結構なものだったのに……いったい、彼女はどれほどの量を買い込んだんだろう。
 それが少し不思議だった。
「……ねぇ、絵里」
「ん?」
「あの……さ。……私の顔に何か付いてる?」
 本当は違うことを聞こうとしていたんだけれど、彼女を見たらそんな言葉が先に出た。
 理由は、これ。
 頬杖を付いたままでまじまじと私を見つめている、彼女の表情。
 ……なんだろう。
 何も言われないからこそ、すごく気になる。
「いや、おいしそうに食べるなーと思って」
「……うん。それは……おいしいから、だけど……」
 でも、そうじゃないでしょ?
 眉を寄せた途端、一瞬肩を震わせたからこそ『違う』と直感的に思った。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 ……怪しい。
 じぃいっと問答無用の視線を送っていたら、途中でサッと外された。
 それだけじゃない。
 どこか……焦っているような、困っているような。
 そんな、少しだけ挙動不審めいた行動も見える。
「……ねぇ、絵里」
「え?」

「絵里は食べないの?」

 彼女だって、チョコとかの甘い物を嫌いってわけじゃない。
 ……でも、さっきから見ていたら、私が食べるのをただ黙って見ているだけ。
 まるでそれが――……何か試されているような気もして、正直気持ちよくないんだけれど。
「いや、ほら。私はさー、家にもいっぱいあるし……それに、ほら! 食べ飽きたっていうの?」
 ……少しだけ、大げさすぎない?
 まるで、『参ったなぁ』とでも言わんばかりのオーバーリアクション。
 そんな姿を見て、疑念が深くならないはずがない。
 …………怪しい。
 思わず、また眉が寄る。
「……………」
「……………」
 ねぇ、何か隠しごとしてるでしょ。
 そんな思いを思い切り詰め込んで、視線をばっちりと合わせてみる。
 ……すると。
「…………はー。しつこいわね……」
 さすがの絵里も、困ったようにため息を漏らした。
「あのね」
「うん」
「その……」
「うん」
 さっ、さっと視線がぶつかるのを避けるように話し出した絵里へ、たびたびうなずきながら答えてみる。
 ……ダメだよ?
 もう誤魔化されるのは、やなんだから。
 ――……そんな意味を込めて。
「……参った」
 じぃっと見つめていたのがわかったのか、はたまたしつこいまでにうなずいていたのがわかったのか。
 絵里が、降参というふうに、ぺろりと舌を出して見せた。
 ……その、顔。
 それは……反則じゃないかなぁ。
 だって、あまりにもかわいくてついつい何も言えなくなっちゃったから。
 ……………。
 ……はっ。
 や、あの、も……もちろん、ちゃんと聞くけれど。
 でも……。
「……もぉ……」
 問い詰めようと思っていた気持ちが、途端に苦笑へと溶けて消える。
 それを機に、絵里も少しだけおかしそうに笑い出した。

「……あの、先生」
「ん?」
 その日の、夜。
 仕事帰りの彼に家まで送ってもらう車の中で、昼間のことを思い出した。
 本当は今朝一緒に送ってもらうはずだったんだけれど……その………あ、朝、起きれなくて。
 先生曰く『あまりにも気持ちよさそうだったから』らしいけれど……朝起きたら、10時すぎだったんだから。
 ……ちょっとびっくりした。
 せっかく今日こそはお弁当をと気合を入れていたからこそ、自分が情けなくてたまらなかったんだけど。
 でも――……リビングのテーブルに残されていた、手書きのメモ。
 それがなんだか『一緒に暮らしてるみたい』って思えるほど特別なことのような気がして、嬉しくて内心喜んでもいたんだけれどね。
「何?」
 もうすぐ、家というとき。
 角を曲がった拍子に改めて訊ねられ、ようやく我に返った。
 ……う。
 ちょ……ちょっと、思い出してたら続き忘れてた。
「……あ。……えと……」
 こっらを見た彼と視線が合った途端、くすくす笑われた。
 しかも、すかさず『俺に見とれてた?』なんて続けられて、返事に困ってしまう。
 ……まぁ……。
 現に、彼とのことを考えていたのは事実なんだけれど。
「……あの」
 しばらく走ってから、ゆっくりと車が止まった。
 ハザードを焚いた彼を見て、ようやく家の前に着いたのに気付く。
 ……もう、着いちゃった。
 せっかくもっとたくさん一緒に……いたかったのに。
「…………」
 もちろん、そんなことを言っても距離が同じなことに変わりはないんだけれど。
「……あの」
「うん」

「……えっと……“ガラナ”って知ってます?」

 シートベルトを外してから、彼に向き直った……途端。
「え……?」
「…………何?」
 一瞬遠くを見つめた彼が、改めて私の顔を思い切り覗き込んできた。
 ……その、顔。
 それはあからさまに『今なんて言った?』と言わんばかりの眼差し。
「……あの……だからガ――」
「いや、そうじゃなくて」
 まばたきをしてからもう1度口にしようとしたら、それよりも先に彼が手のひらをこちらに向けた。
 ……え?
 ってことは、何か……もしかして……。
「……え……?」
 嫌な予感がする。
 ……っていうか……え? あれ? ……でも。
 でも確かに、絵里はそう言ったよね?
 昼間のあのとき、『先生にガラナって聞いてみればわかる』って。
 ……言い間違いじゃないはず。
 そして、聞き間違いでも。
「……あの。……先生……?」
「それは何?」
「え?」

「俺のこと、試してんの?」

「っ……えぇ!?」
「……あー。それとも、新しい誘惑の仕方?」
「えぇえ!?」
 恐る恐る彼の顔を覗き込んだ瞬間、少しだけ呆れたような――……ううん、違う。
 明らかに、瞳を細めて少しだけ……あ、あまり機嫌のよくなさそうな顔で、私を見た。
「それは何か? もしかして……昨日のアレがそうだったとか言うんじゃないだろうな」
「えっ……え……!? あ、あのっ……あれってなんですか……!?」
「だから、アレだよアレ! チョコレート!!」
 がしっと両肩を掴まれ、思い切り顔を近づけられた。
 ……うぅ。
 わ、私に言われても困ります……!
 でも、先生は私が絵里に聞いたことを知らない。
 だから、当然……先生が問いただすのは私でしかなくて。
 ……うぅぅ……絵里ぃ……!
 いったい何? なんのことなの……!?
 がっちり掴まれて離してくれなさそうな彼に眉を寄せて首を振るも、やっぱりその力が弱まることはなかった。
「…………待てよ……」
「え……?」
 ぽつりと聞こえた言葉で彼を見ると、私から視線を逸らして何やら考え込んでいるようだった。
 ……うー……。
 だったら、この両手を離してもらえれば……。
 そうは思うけれど、やっぱり緩みそうにはない。
「絵里ちゃん……で、特別……」
「え? ……え? 先生……?」
「……あー……。なるほどね」
「ええ?」
 考え込んでいたことを口にするかのように独りごちた彼が、ようやく私をまた見据えた。
 ――……でも。
 その表情は、明らかに先ほどまでと違う。
「あの……せ、んせ……?」
「これから、一緒に帰ろうか」
「……っえ……!?」
「いや、ほら。受験生なんだし、知らない言葉の意味はきっちり身をもって覚えたほうがいいだろ?」
「な……ななっ……な、んでそんな……!?」
「いやいやいや。遠慮はよくないよ? つーか……まぁ“我慢”って言ったほうがいいかもしれないけど」
「えぇ!?」
 にやり、と音が聞こえそうなほど見事に、彼の表情が変わった。
 ……う。
 や……やっぱり、嫌な予感。
 っていうかやっぱり、やっぱり……! 聞いちゃいけなかったんじゃない……!!
 ――……あのとき。
 昼間のあの時点で、おかしいと思えばよかったんだ。
 あれ? って思って、ちゃんとそれを絵里に聞けばよかったんだ。
 ……そうすれば。
 そうすれば私は……ううん、今の私は――……!
「……さて。それじゃ、もうひとっ走りして……」
「やっ……! や、あの、ここで降ろしてください!」
「なんで? 知りたいんだろ? ガラナの効用」
「知りたくないです……!」
「そう? ……でも、俺はどっちかっていうと知っててほしいんだけどな」
「……ぅ……だ、だったらなおさら、私は知らないほうがいいんじゃ……」
 瞳を細めてギアに手を伸ばした彼を見て、『あぁやっぱり』と思った。
 ……やっぱり……そういう意味だったんだ、って。
 後悔は、あとで悔やむことを言う。
 それを改めて今、身をもって学んだ。
 ……だから。
 だからなんとか、今から始まっちゃうかもしれない勉強だけは、避けて通れないだろうか。
「……せんせぇ……」
 眉を寄せて情けない声を漏らした私を見た彼が、おかしそうに笑った。

 ――……ちなみに。
 後日、絵里が残していったあのチョコを発見したらしき彼が、ことあるごとにそれを勧めて来るようになったのは……言うまでもない。


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