職員会議を終えてから向かうのは、いつも通り3年2組の教室。
 ……だが、今日はいつもと少し違う点がある。
 それは、服装指導があること。
 制服やら靴下やらが規定の物かどうか、というのを調べるアレ。
 でもなぁ……俺が学生のときにも思ったんだが、前もって『何日に指導をやる』って言っておいたら、まったくもって意味をなさないと思うんだが。
 ……ま、抜き打ちでやったらすさまじいブーイングが出るからなんだろうけど。
 名簿が貼り付けてあるバインダーを手に教室の前にあるドアへもたれると、日永先生が生徒たちを廊下へ並ばせた。
 そのまま、ひとりずつ順番にチェックをしていく。
 ……といっても、やっぱりこれといってダメ出しできるような点はないのが現実。
 みんな、今日ばかりはやたら行儀がいい。
 などと普段は見えない素直さにため息をつきながら、チェックを入れていく――……と。
「おはようございまーす」
「……おはよ」
 やたら笑顔の生徒に迎えられた。
「あら。祐恭先生ってば、今日もステキなネクタイですね」
「それはどうも」
「もしかして、彼女にもらったんですか?」
「……まぁな」
「へぇ。いい彼女をお持ちですねぇ」
 にこにこと音が聞こえてきそうなほどの笑み。
 ……嘘くささ100%だな。
「別に、不審な点はないですよね? 私、真面目だしー」
「……ふぅん」
「何か?」
「……別に」
 笑みを崩さないままの彼女を見ながらボールペンを回し、彼女らしからぬ素振りが見えすぎて、つい乾いた笑いが漏れる。
「……皆瀬絵里、バツ……と」
「こらこらこらーっ! 待ちなさいよ!」
「……何か?」
「何か、じゃないわよ! どうして私がバツなわけ!?」
 ぽつりと呟くと、しっかりと反応してすぐ態度を一変させた。
 ……ほらみろ。
「ンな、猫かぶってるから悪いんだろ」
「失礼ね! かぶってないわよ!」
「じゃあ、さっきまでのあの笑みはなんだ?」
「サービス」
「……サービス?」
「そ。たまには笑顔のほうが嬉しいんじゃないかなーと思ってね」
「…………あのな」
 ため息を漏らしながら瞳を細めてやる――……と、何かに気付いたらしい彼女が浮かべたのはいたずらっぽい笑みだった。
「……? 何?」
「ごめんなさいねぇ。祐恭先生が見たいのは、私じゃなくて――」
 口元に手を当てながら彼女が振り返った先には、どうやら時間ギリギリに来たらしく、鞄を持ったままの羽織ちゃんがいた。
 ……今日は、服装指導あるって言ったろうが。
「んじゃ、私はこれで」
「ちょっと待った」
 彼女を見たままで、絵里ちゃんを制す。
 当然。
 彼女の指導は、まだ何も終わってないからな。
「……何よ」
「爪」
「…………つめ?」
「そ。基本だろ? 爪は切ってあるかどうか」
「え、何よ。そんなのも見るの?」
「ここに書いてあるんだから、間違いない」
 コンコンとボールペンでバインダーを叩きながら彼女を見ると、バツが悪そうに両手を開いた。
 ――……うわ。
「……なんだその手」
「へへー。かわいいでしょ?」
「かわいいとかって以前の問題だろ? マニキュアなんて塗ってくるなよ」
「いーじゃない。先生の彼女がしてたら、文句なんて言わないくせに」
「彼女は塗らない」
「あ、そうだっけ」

 『どこかの誰かさんとは違って料理するからな』

 なんて言葉が出そうになり慌てて口をつぐむと、案の定日永先生が彼女の爪に目をつけた。
「みーなーせぇ……! なんなのこの爪は! 長いだけじゃなくて、色まで!!」
「ご、ごめんなさいっ」
 さすがの彼女も日永先生には弱いらしく、それはそれは申し訳なさそうに頭を下げた。
 ……まったく。
 絵里ちゃんの名前の横にある“爪”の欄にバツを付けてから次の子に視線をやると、おずおず現れたのは、鞄を両腕で抱いたままの羽織ちゃんで。
 ……ったく。
「おはよう」
「……おはようございます」
「随分と余裕があると見えますね」
「……う。すみません」
 嫌味たっぷり上乗せのセリフを視線を外しながら口元に手を当てて呟く。
 すると、やたらバツが悪そうに眉を寄せてから視線を落とした。
「なんで遅刻するかな……」
「……だってぇ」
「まぁ言い訳は聞かないけど」
「……ぅ」
 上目遣いにこっちを見ても、ダメなものはダメ。
 そりゃあかわいいけど、今は公務中なんでね。
「ほら。両手出して」
「はぁい」
 鞄を下に置いてから、手のひらを下に両手を開いた彼女。
 相変わらず華奢というか、小さい手と言うか。
 ……自分とは大違いだ。
「ん。まぁ、いいだろ」
 学校で彼女に堂々と触れられる機会なんて、滅多にない。
 だからこそ、こうして大っぴらにできるのは……結構嬉しかったりして。
「……先生?」
「ん?」
「……問題、ないんじゃないんですか?」
「うん」
 平然とした顔でうなずくと、おかしそうに小さく笑われた。
 ……笑いごとじゃないだろ。
 まぁ、嬉しそうだからいいにしておくけど。
「ほかも特に問題ない……かな」
「はい」
 触れていた手を離してから呟くと、少しほっとしたように笑みを見せ、日永先生と何か話してから席へ戻って行った。
 ……途中、絵里ちゃんに捕まってあれこれ言われていたのも、付け加えておくが。
「…………」
 ……しかし。
 問題ないとは我ながら、よく言ったもんだ。
 いつもと変わらない顔をして席に着く彼女を見ていると、つい笑ってしまう。
 俺だけが知っている、彼女の秘密。
 ……優越感もあるけど、ちょっと罪悪感もあったりして。
 などと考えながら彼女の名前の横に丸をつけ、再び教師の顔へと戻ることにした。

「……え?」
「スカート短いよなぁ」
 昼休み。
 いつも通りの時間に彼女が授業連絡に訪れたのだが、ついそんなことが口をついて出た。
「……いつもと一緒です」
「そう? でも、胸元開きすぎだと思うけど」
「もぅ。一緒ですってば!」
 そっぽを向きながら呟くと、眉を寄せた彼女がため息を漏らした。
 ついつい、からかってやりたくなる年頃。
 ……ってわけじゃないが、今日はそんな気分なんだよ。
「じゃあ、それは?」
「え?」
 頬杖をつきながら彼女に向き直り、視線を合わせてから――……胸元へ。
「それ、って……?」
「……ここ」
 さすがにここで彼女に触るわけにはいかないので、自分の胸元に親指を立てる。
 鎖骨の少し下。
「……? ……っ!!」
 しばらくなんのことかわかっていなかったらしい彼女の顔色が、急に変わった。
 ぎゅうっと制服の上からそこを押さえ、頬を染める。
 その姿は、『誘ってる?』と聞いてみたくなるんだが。
「こ、これ……は……」
「これは?」
「…………いじわる」
 それはそれは小さく呟いてから、ちょっと睨まれた。
 ……いや、そんな顔されてもね。
「そんなトコにそんなモン付けてるのが、行儀のいい女子高生なのか? いまどきの」
「これはっ……だって、私が悪いんじゃ……」
「ほぉ。じゃあ、誰が悪い?」
「……先生」
 きっぱり言われた。
 じゃあ、しょうがない。
「……この前の跡が残ってくれるような柔肌は、自慢に思わなきゃな」
「っ……!」
「次の時間はこの前の小テストを返す。そのあとは答え合わせをして、次の単元に進もうか」
 ぽつりと呟いてから笑みを見せてやると、頬を染めてうらめしそうに見られた。
「何か?」
「……なんでもないです」
「そ? じゃ、連絡よろしく」
 有無を言わせない笑み。
 それでゴリ押ししながら彼女を振り返らせ、とっとと教室へ返してやる。
 ……と。
「……そんなにおかしいっすか?」
「あはは、ごめん」
 笑いをこらえていた純也さんに苦笑を見せると、何度もうなずいてから声をあげて笑った。
「だってさー。祐恭君、相変わらずなんだもんなぁ」
「そうですかね?」
「うん。羽織ちゃんが、可哀想」
 そこまで言われるとは、思わなかった。
 ……ま、自覚がないワケじゃないんだけど。
「っと……。いじめも大概にしないと、いつか痛い目に遭うかもよ?」
「んー……それもまぁ、1度くらいならば味わってみたいですけど」
「ほー、言うねぇ」
「あはは」
 5時限目の始業チャイムが鳴ると同時に立ち上がった彼に笑みを浮かべ、自分も続く。
 あの彼女が自分と同じように振舞うのを、ちょっと見てみたいというのは確か。
 ……まぁ、そんな機会はないだろうけど。
 答えのプリントをまとめて持ちながらドアを開けると、ざわついていた生徒たちが静かになった。
 そんな中でもつい目が行ってしまう、最愛の彼女。
 ……そんなに意地悪いかな。
 号令の声を待ちながら、小さく笑みが漏れた。

 今日は特別そういう気分だった。
 どういう気分か、って……彼女にいつもよりもいろいろ言いたくなる気分。
 なぜなら、今日は華の金曜日。
 ――なのに……。
「じゃ、行こうか」
「ですね」
 いわゆるアフター5だというのに、まだ“教師”としての仕事は終わらない。
 さすがに冬の足音がすぐそこまできているこの時期ともなれば、コートを羽織っても寒いわけで。
 純也さんの車から降りてイルミネーションの彩りが目立つようになった通りを歩くと、冷たい風でつい両手をポケットへと入れてしまった。
「こんな日に見回りって、ツイてないよなぁ」
「……ホント」
 今日は、どうやら俺にとってツイてない1日らしい。
 朝は危うく事故りそうになって、放課後はすんなり解放されなくて。
 ……しかも、だ。
「でも今日は……どっちみち彼女こないんで」
「あれ、そうなの? なんで。喧嘩でもした?」
「まさか」
 意外そうな顔をした純也さんに首を振ると、小さく笑って「だよなぁ」と呟いた。
「明日用事があるから、これないらしくて」
「寂しいだろ?」
「……そりゃまぁ」
「顔にしっかり出てますよ、祐恭先生」
「はは」
 いたずらっぽく口調を変えた彼に思わず笑い、その口元を押さえる。
 ……参ったな。
 笑っててもどこかでヘコんでいる自分がいるのがわかるので、なんとなく変な気分だ。
 いつも通りに彼女がくるものだと思っている、金曜日。
 だから、彼女に申し訳なさそうな顔をされて断られると、理由がなんであれ残念なものは残念なわけで。
 たとえ、理由がどうしても外せない家族の用事とかだとしても、なんとかならないものかと願ってしまう。
 ……いつの間に、これほどワガママになったんだか。
 なんて、我ながら少し呆れることも多くなってきた。


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