「羽織」
「え?」
甘く呼ばれる名前。
……いつも、こんなふうに名前呼ばれてたかな。
昼間、彼に見つけてもらってから、戻ってきた我が家。
……やっぱり、葉月ともうひとりの兄である孝之にはこっぴどく怒られた。
だけど、彼がふたりをなだめてくれて。
そして、両親にはみんなが黙っていてくれた。
「なぁに?」
手を離したら、また彼が離れてしまうんじゃないか。
そんな不安と今現在ほかに誰も家にいないことから、私はぎゅうっと彼に抱きついたままでいた。
テレビに流れているのは、いつもと同じニュース番組。
いつもなら彼が見るのに、今は珍しくあまり見ていなかった。
……もちろん、私はあんまり興味がなくて。
だから、音として耳だけで情報を聞き取っていた。
「……どうしたの?」
そっと身体を離して彼を見ると、髪を撫でてくれていた手を不意に止め、1度俯いてから――……こちらを向いた。
…………途端、小さく喉が鳴る。
お兄ちゃん……こんな顔、したんだ。
これまで離れていた時間が多かったからか、思わず頬が赤くなりそうになる。
『祐恭先生、カッコいいよね』
そう学校で言われたら、素直にうなずく。
だけど、これまでずっと一緒に育っていたから、正直まじまじとその顔を見るようなこともなかった。
だってそうでしょ?
そんなことしなくても、ちゃんと私は彼のこと知っているって……そう、思っていたから。
「…………」
「…………」
……耳が痛くなるほどの、静寂。
正確にはテレビの音があるけれど、でも、そんなのは全然気にならなくて。
むしろ、自分の鼓動がヘンに大きく聞こえて困る。
……変な感じ。
なんで私、こんなにドキドキしてるんだろう。
相手は、これまでずっと一緒に育ってきた、お兄ちゃんなのに。
「……っ……」
す、と彼が手を伸ばしたかと思いきや、手のひらを頬に当てた。
…………そう。
よく、映画とかで見かける、恋人に触れる仕草のように。
「お……にい、ちゃん……?」
自分の声が掠れているのが、わかった。
……そして、すごく緊張していることも。
どうしよう。
……どうしよう。
私、すごく……ヘンだ。
「キスしようか」
「……え……?」
一瞬、彼が何を言ったのかわからなかった。
キス……って、言った……?
いつもの彼らしくない、すごく真剣な眼差し。
だからこそ、『冗談でしょ?』なんて笑って返せる雰囲気じゃなかった。
「……ん」
小さく。
……本当に小さく首を縦に振ると、彼が瞳を丸くした。
あ。
やっぱり、お兄ちゃん冗談だったの?
……ヘンに真面目に答えてしまった自分が馬鹿みたいで、すごく恥ずかしく――。
「っ……」
一瞬だけ、目の前が蔭った。
と同時に、瞳が開く。
……う……そだ。
だって、そうでしょ?
私は彼の妹で、彼は――……私の、兄なんだから。
「……どうして……」
確かに、私も『うん』って言った。
だけど。
……だけど、まさか……本当に、キスされるなんて思わなかったから。
いつも、彼がしてくれるキスは頬や額への軽いもので。
こんなふうに、唇へしてくれるキスなんてこれまで一度もなかった。
「……羽織」
「っ……」
愛しげに名前を呼ばれ、身体が変になる。
胸の奥が疼いて、目が逸らせない。
……そんな顔、しないで。
まるで大切な恋人を見つめるような、ひどく愛しさの溢れた顔。
そんな顔を見ていると、何も言えなくなってしまう。
「ねぇ、お兄ちゃん……? お兄ちゃん、どうしたの? 何かあったの……?」
ぎゅっとキツく抱きしめられ、一瞬息が詰まる。
……温もり。
それが伝わってきて、より一層情けなくもドキドキしてしまう。
兄妹なのに。
……私たち、兄妹なんだよ……?
なのに、キス……してもいいの?
今さらながらに、そんなことがじわじわと浮かんできた。
「……羽織」
「…………な、に……?」
少し掠れた声で名前を呼ばれ、小さく喉が動く。
……どうしよう。
彼がこれから何を言おうとしているのか、まったく予想できない。
それが怖くもあり、そして……少しだけ、変に期待をしていた。
「……嫌なら、嫌って言って?」
「え……?」
ゆっくりと身体を離しながら彼が言った言葉が、理解できなかった。
……嫌って……何、が?
混乱しそうになる頭のままでじぃっと彼を見つめて居たら、再び彼が頬に手のひらを当てた。
熱い、手。
それだけで、何だかどうにかなってしまいそうだ。
「あ……」
ゆっくりと近づく顔。
と思ったら、彼が一度視線を逸らし――……眼鏡の縁を持って、それを外した。
「……っ……」
いつもと、雰囲気が全然違う。
眼鏡がないからじゃない。
それだけじゃなくて……。
……雰囲気が違っていて、本当に知らない顔だった。
少なくとも、私は見たことがない。
「……ん……」
どくどくと脈打つ心臓が、苦しい。
息がうまく吸えなくて、頭に酸素が回らない。
なに……これ……?
先ほどと同じように、落とされた口づけ。
……なのに。
いきなり、何かが這入ってきた。
濡れた、温かい感触。
…………うそ……。
「っ……ん、ん……!」
こんなキス、知らない。
だって、私は彼の妹で。
彼は、私の兄で。
……そうでしょう?
こんなキス、しちゃいけないんじゃないの……?
「……は……ぁふ……」
ぐるぐると疑問ばかりが思考の働かない頭を巡り、答えを得られずに再び巡る。
舌でしっかりと舐め取られ、身体から一気に力が抜けた。
今まで吸えていなかった息を取り戻すかのように深く息をつき、彼を……見て、後悔が生まれる。
「……おにいちゃ……っ」
こんな顔、知らない。
これまで私のそばにいてくれた彼は、本当に『兄』だったのだろうか。
……こんな…………こんなに、『男』の顔をしている、彼が?
「……あ……」
ゆっくりと伸びた手が、私を抱き寄せる。
力強いのに優しくて、抵抗なんてことは浮かばなかった。
「っ……ん」
顎を軽く上に向けられて再び唇を取られ、瞳が閉じる。
……どうしよう。
キスって……こんな……?
これまで、誰とも唇へのキスをすることはなかった。
それどころか、抱きしめられたことがあるのだって彼だけだ。
……だから、キスがどういうものかなんて詳しくは知らなかった。
わかるわけないじゃない……。
私はいつも、彼を見て、彼だけを……愛していたんだから。
「っ!? あ……やっ……!」
びくっと身体が大きく震えた。
口づけしていた彼の身体を両手で押し、彼を遠ざける。
……だって……。
だって、私……!
「……悪い」
小さく、本当に小さく、彼がそう呟いた。
そして、ため息をついてから――……頭を撫でる。
「……あ……」
「変だな、俺」
自嘲気味に呟いて瞳が合った途端。
彼は、いつものような笑みを見せてくれた。
……いつものように、髪を撫でながら。
「っ……え……羽織……?」
「……がう……っ。ちがっ……ぅの」
手が震えて、身体に力が入らない。
だけど、彼に行ってほしくなくて。
彼を上目遣いに捉えたまま、緩く首が振れた。
「……ちがっ……や、じゃなくてっ……だから……」
うまく頭が働かない。
嫌なんじゃない。
そうじゃなくて、私はむしろ――……。
「私……っ……私は……」
さすがに、まっすぐ彼を見たまま言えるはずがなくて、視線が落ちた。
そのまま彼に抱きつき、ぎゅっと背のシャツを握る。
「……お兄ちゃんなら……へ……いき……」
「っ……」
彼の鼓動が胸に響き、自然と瞼が下りた。
わかってる。
自分が、何を口にしたのかも。
そして、とんでもないことをしてしまおうとしているのも。
「ッ……え……!」
突然強く抱きしめられ、思わず息が詰まった。
「……そんなこと……」
「え……?」
「そんなこと、簡単に言うな」
すぐ耳元で、彼が掠れた声を聞かせた。
ぎゅうっと抱きしめられたままで、わずかに吐息がかかる。
……こんな状況で、私に……どうしろって言うの……。
意地悪だよ、お兄ちゃん。
「嫌だって言われても、離せなくなるだろ」
さっきより、ずっとずっと力強い声。
それはやっぱり『兄』の声じゃなくて、私の知らない『男』の声だった。
……だから、私は何も言えない。
「…………ん……」
彼の胸に顔をうずめたまま、小さくうなずくのが精一杯で。
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