「……ん……」
ふ、と目を開けると、見慣れた天井が目に映った。
……ううん。
天井だけじゃない。
ベッドも、本棚も、机も、クローゼットも。
どれひとつとして、見知らぬ物じゃなかった。
「あれ……?」
ゆっくりと身体を起こし、開かない瞼を擦って開ける。
…………あれ?
外から聞こえてくる鳥の鳴き声は、いかにも『朝』を表していた。
……でも、私……。
昨日は、自分で部屋に戻ってきた記憶がない。
それに、昨日は――……お兄ちゃんと……。
「っ……!」
思い浮かんだ優しい顔と声で、思わず口に手を当てる。
……そう、だ。
私は、昨日――……!
どくどくと急に鼓動が早くなり、恥ずかしさから顔も身体も熱くなった。
……どうしよう……。
今さらながらに、不安がよぎる。
昨日と違って、今はもう家にいるのが私と彼だけじゃない。
……それに……。
「本当……なのかな……」
なんだか、リアルな夢を見ていたような気がする。
自分で夢を操れるっていう、覚醒夢とか……。
……本当なの……?
彼に、生まれて初めてすべてを捧げたことは。
そして、唇へのキスだけじゃなくて、全部……愛してもらったのは。
「……お兄ちゃん……」
小さく。
本当に小さく彼を呼んでみると、すぐに顔が緩んだ。
思い出されるすべてのことが嬉しくて顔がにやけてしまい、それが何よりも本当だと示している。
今、彼はどこにいるんだろう。
スマフォで時間を見ると、もう22時を回っていた。
……ということは、部屋じゃなくて……リビングかな。
けだるい身体をベッドから起こして、静かにドアへと向かう。
「……あ」
ドアを開けるとすぐに、階下から彼の通る声が聞こえてきた。
それで、ひときわ大きく心臓が跳ねる。
……どういう顔をしたらいいだろうか。
昨日、あんなふうに愛された今。
まっすぐ前から、彼の顔を見れる自信がイマイチなかった。
「…………」
音を立てないようにゆっくりと階段を降り、開口部からリビングを覗いてみる。
すると、開いたままのドアからは、やはり彼の声が続いていた。
……どうしよう。
思わず、その場に座ってしまう。
彼に会ったら、まず何を言ったらいい?
普通に……おはよう……?
それとも、昨日はありがとう?
……えぇっ。
さすがにそれはないだろう……と、改めて思い直す。
「……はぁ……。どうしよ……」
膝を抱えるようにため息をつき、再びリビングへと視線を向ける。
あそこには、いるんだ。
昨日、私を――……
「……何してんだ? お前」
「っきゃああ!!?」
突然背後で聞こえた呆れた声で、叫び声があがった。
「……っるせぇ……! あほか!! ンな声出すんじゃねぇよ、馬鹿!!」
「だ、だって!! お兄ちゃんが悪いんでしょ!」
ぎゅうっと心臓のあたりを両手で押してから、迷惑そうな顔をしている兄である孝之を見ると、心底嫌そうな顔をされた。
だ、だって!!
まさか、いきなり声をかけられるなんて思わなかったんだもん!
「もう! お兄ちゃんが悪いんだよ!?」
「はぁ? こんな場所で、座り込んでるお前が悪いに決まってんだろ! 邪魔なんだよ、邪魔!!」
「ひっど……! 何もそんなふうに言わなくてもいいじゃない!」
「俺は正直に言ったまでだ!!」
立ち上がって彼に食いかかると、人差し指を目の前に突きつけて眉を寄せた。
……っくぅ……!!
全然、違う!!
双子なのに、どうしてこんなに違うの!?
だから、私は昔から彼のことが好きだったんだ。
目の前の兄と違って、心底優しくて、私を愛してくれたから。
「……何してるんだ? そんな所で」
「ッわぁああ!!?」
またもやかかった、背後からの声。
……だけど。
その声じゃなくて、声の主に……驚いたというのもあったんだけど。
「っわ……!? あ、やっ……!!」
「おい!?」
急なことでバランスを崩し、そのまま後ろへと体重が移動した。
まず……い……!
落ちっ――……!!
「った!?」
「……っぶないな……。落ちるだろ? こんな場所で騒いだら」
「……あ……」
ぎゅっと目を閉じて床を覚悟したら、予想外な温かさと柔らかさに瞳が開いた。
「大丈夫か?」
「……お兄ちゃ……ん……」
優しく顔を覗きこんでいるのは、見紛うことなく……彼だった。
……昨日、私を……抱いてくれた、彼が。
「……あ」
「ったく。羽織はもう少し気をつけろ」
「……うん……」
ひょいっと簡単に抱き上げられて、ゆっくり床へと下ろされる。
だけど、なんだかうまく身体に力が入らなくて、よろけるように――……抱きついてしまった。
「……羽織?」
「…………あ……。あの……えと……」
どきどきと鼓動が早くなって、正面から顔が見れない。
……どうしよ……。
まさか、こんな急に……彼に会うなんて思わなかったから、心の準備が……。
「なんだ。まだ眠いのか?」
「……え……?」
くすっと彼が笑って頭を撫でたかと思うと、呆れたように階段からため息が聞こえた。
「……ったく。テストサボった上に、ソファ占領して寝落ち。挙句の果てに、昼前起床か。……いい身分だなお前は」
「……ね……おち……?」
階段の手すりにもたれて心底呆れている孝之を見ると、大きくうなだれてから下りてきた。
「っ!」
「おめーだよ、おめー。メシ食って帰ってきたら、ソファで豪快に寝こけてたろ。あ? もしかして、覚えてないのか?」
「……し……知らない……」
ずいっと鼻先に人差し指を突きつけられながら首を振ると、『やっぱり』と言いながら兄の肩を叩いた。
「やっぱお前、コイツに甘いよ」
「……そうか? ンなことないと思うけどな」
「甘いっつーの。だいたい、ほっときゃいいんだよ。こんなヤツ。わざわざ部屋まで連れてってやる義理なんかねぇっつーの」
「けど、葉月が同じことしてたらお前、部屋まで連れてくだろ?」
「…………さぁな」
「ほらみろ」
リビングに入りかけた孝之に彼が声を掛けると、バツが悪そうな顔で肩をすくめてから中へ入っていった。
「私が、なぁに?」
「っ……なんでもねぇよ」
「? なぁに?」
「だから! なんでもねぇって!」
「ぁいたっ」
ほどなくして、葉月とのやり取りと小さな音が聞こえた。
どうやら、また彼が葉月に何かやらかしたんだろう。
……かわいそうに。
彼は、私と違って葉月には優しいくせに、割と手を出す。
もちろん、比喩なんかじゃなくて、本当に……手を出すんだよ?
……なんでだろ。
「羽織」
「……あ……」
そんなことを考えていたら、彼に抱きついたままだったことに今気付いた。
「ご、ごめんなさっ……」
慌てて飛びのくように離れ、首を振る。
……顔が熱い。
ああ。
私、絶対今顔が赤くなってる。
「……お兄ちゃんが……ベッドに、連れてってくれたの?」
「ん? ああ」
恐る恐る訊ねると、平然とした顔で彼がうなずいた。
……あれ?
なんだか、私の予想と随分反応が違う。
もっともっと……甘い……と思ってたんだけど……。
「羽織……?」
「え!?」
「どうしたんだ? お前。……なんか、変だぞ?」
「……そ……そうかな」
「ああ」
じぃっと見たままでいたら心配そうな顔をされ、慌てて手を振る。
だけど、やっぱり彼の態度に変化は何も見られなかった。
「何か変な夢でもみたのか?」
「……ゆめ……?」
「……羽織?」
「え。あ、ううんっ! なんでも……ない……」
鼓動が大きく鳴る。
……夢……。
あれが……夢……?
あんなに、リアリティがあったのに?
あんなに、彼に……愛されたのに?
……あんなに……唇の柔らかさも、彼によって与えられる快感も、何もかも……体験したのに……?
嘘、だ。
……そんなのって……。
「…………」
ふっと笑って頭を撫でてくれる彼を見ると、でも……そんな気にもなってくる。
……夢だったのかな。
でも、確かにそう言われればそうかもしれない。
だって、私たちは兄妹で、これまでもずっと……一緒に育ってきたんだから。
「……羽織? 大丈夫か?」
「……あ……うん。うんっ。……だいじょぶ」
「ん。そっか」
心配そうに顔を覗き込んだ彼に首を振り、慌てて笑みを見せる。
すると、彼も柔らかく笑みをくれた。
……そうだ。
夢、だったんだ。あれは。
……これだけ喋っても、彼がそう言うんだから……間違いない。
やっぱり、あれは――……。
「……あ、そうそう」
「え?」
リビングへと先を歩いた彼が止まり、こちらを振り返った。
――……と同時に、手を伸ばす。
「ッ! ……おにいちゃ……ん……?」
頬に当たる、温かい大きな手のひら。
……これは、そう。
あのときと同じ――……彼に愛してもらっていたときにされた、こと。
「……あ……」
「おはよう」
ちゅ、と頬に口づけをされ、ごくごく近くで囁かれる。
……あの、昨日と同じ……眼差しだった。
「っ……あ……!」
「羽織!」
ぞくっとした何かが腰から背中にかけて走り、足が震える。
……ちゃんと……立てない。
キスされただけで――……しかも、頬へのキスなのに。
身体に力が入らなくて、その場にへたりこんでしまった。
「……大丈夫か?」
「だ……いじょぶ……」
不安そうな彼に首を振り、手を借りて立ち上がろうとするものの、やっぱり力が入らなくて。
……そのままの格好で、彼を見上げるしかできなかった。
「……ね……お兄ちゃん……」
「ん?」
「………………」
『昨日のことは、本当なの?』
言葉を飲み込んで瞳を見つめていると、暫くしてから彼がふっと笑った。
「……抱っこしてやろうか?」
「え……?」
少しいたずらっぽい瞳は、いったい何を語っていたんだろう。
「……っあ……」
「ちゃんと掴まってないと……おちるぞ?」
彼に抱き上げられながら、耳元で小さくそう囁かれた。
……彼の言葉と態度すべては、本気なんだろうか。
それとも……冗談?
いつもと変わらない笑みを浮かべている彼を見ながら、いまいち判断が付かなかった。
今、このときは本当なんだろうか。
今……このときが夢なんじゃないんだろうか。
ふわふわした居心地のいい彼の腕の中で、どちらとも言えない考えに左右されるしかなかった。
……ねぇ、神様。
白を黒に染めた勇気、必要でしたか?
そして、これは本当なんですか?
――……どれもすべては……神様だけが、知っていること。
彼に堕ちた私は、きっともう……あと戻りできない。
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