……さっきの、あの顔。
 あの、お兄ちゃんの顔が頭から離れなかった。
 怒ってた。すごく。
「……はぁ」
 だけど……。
 だけど、彼はすごく寂しそうな顔もしていた。
 私が、今までに見たこともないような……そんな顔を。
 いつもと同じように続けられている、化学の授業。
 ……なんだけど。
 やっぱり、いつもと違うように思える。
「……え?」
 腕をつつかれて横を見ると、まっすぐ前を向いたままの絵里が顎で――……前を指した。
 ……なんだろ。
 彼女がこんなふうに何も言わないで真剣な顔をしているのは、少し不思議な感じだ。
 だからこそ、なんとなくだけど……やな予感がした。
「…………?」
 目に入ったのは、いつもと同じく丁寧な彼の字。
 そして、見慣れない数字と――……アルファベット。
 いくら化学ができないとはいえ、私だって何が書かれているかくらいはわかる。
 『化学反応式』
 矢印と、いくつか見知った元素記号があるから、間違いないだろう。
 ……そりゃあ、内容まではわからないけれどね。
 でも、あれがどうしたって言うんだろう……?
 暫く黒板を見てから絵里に視線を戻すと、やはり変わらずに鋭い視線を向けたままだった。
「……絵里?」
「先生、機嫌悪いの?」
「……え……?」
「あんな式、授業でまだやってないじゃない」
 彼女がこう言うんだもん、私がわからないわけだ。
 カリカリとノートを取りながら少し悩んだ顔を見せている絵里を見てから、自然と再び視線が前に向かう。
 ……どうして、お兄ちゃんはあれを書いたんだろう。
 彼の意図がどうしても掴めなくて、つい眉が寄る。
 そういえば。
 彼は、さっきからずっと無言のままだった。
 いつものように声が聞こえず、いつものような授業の雰囲気じゃないのがわかる。
 ……それが、結構不安だ。
「……っ……」
 ようやく式を書き終えた彼がこちらを振り返ったとき。
 いつもよりずっと鋭い瞳に、思わず息を呑んだ。
「北原。これの続きを書いてみろ」
「え……」
 教員用の実験台に手を付いて顔だけを上げた彼が、私の斜め前に座っている彼に声をかけた。
 途端、慶介君が瞳を丸くする。
「……無茶言うわね」
 絵里の小さなため息を聞きながら、彼と――……お兄ちゃんとを見比べてしまう。
 ……怒ってる……?
 ふと、そんなことが浮かんだ。
 お兄ちゃんのあんな顔……見たことあったかな。
 私に対しては、いつも笑顔でいることが多い彼。
 だからこそ、学校で見る厳しい顔つきは不思議でもあったし――……何より、こんなに怒ったところなんて……私、知らないかもしれない。
「せんせー、冗談っしょ? 俺ができるわけないじゃん」
「じゃ、これは?」
「無理」
 けらけらと笑いながら首を振った慶介君に、お兄ちゃんは瞳を細めたまま小さくため息を漏らした。
 ……やっぱり。
 私は、こんなふうに人を嘲るような顔をした彼なんて、見たことない。
「できない、なんて簡単に言えるうちは気楽でいいよな」
「え? そうなの?」
 呆れたような声でさらりと呟いた彼に、再び慶介君が頬杖を付いたまま訊ねると、やっぱり……そのままの顔で鋭く慶介君を見た。
「『できない』じゃない。『やる』んだ」
 静かなそのひとことで、騒がしくなり始めていた室内が静まり返った。
 お兄ちゃん、怒ってる……。
 今のは、決して怒っているような語調じゃない。
 だけど……私には、いつもと違うからすぐにわかる。
 ……間違いない。
 彼は、怒ってるんだ。
 でも、いったい何に……?
 なんとも言えない表情をしている慶介君から、視線が再びお兄ちゃんに向かったけれど……彼は、まだ慶介君を見たままだった。
 鋭い……だけど、きれいな瞳で。

「……お兄ちゃん」
 なんとも気まずい時間となった授業を終えたあと、すぐに私は実験台にいた彼へ向かった。
 いつもと同じように黒板を消し、ようやくこちらを向いた彼は――……いつもと同じように見える。
 ……だけど、やっぱり雰囲気が少しだけ違っていた。
 とげとげしてる。
 いつもの優しい彼じゃなくて、つい眉が寄った。
「……ねぇ、お兄ちゃん。どうして、慶介君にあんなことしたの?」
「あんなこと?」
 怪訝そうな顔をした彼に無言でうなずくも、彼はその表情を崩さなかった。
 ……いつもと違う。
 彼を見ていると、なんとなく不安でたまらない。
「だってそうでしょ? 絵里も言ってたよ? ……難しい、って……」
「ああ、アレか」
「っ……! あれか、って……!」
「あれは、アイツが悪いんだろ? 別に、答えられないレベルの問題を出したわけじゃない」
「けど! まだ、習ってないって……」
「確かに習ってないが、少し考えれば解けなくもない問題だ。事実、絵里ちゃんは解けてたみたいだし」
 いかにも、当然という感じのままで続ける彼。
 ……やっぱり、違う。
 いつものお兄ちゃんは、こんなふうにこんなことを言ったりしない。
 …………いじわる。
 今の彼には、その言葉がすごくしっくりくる感じになってしまっていた。
「それじゃあ、どうして絵里じゃなくて慶介君を選んだの? 今日は、彼の当たる番じゃないでしょ?」
「関係ないだろ? 別に。俺が誰を当てようと、羽織には」
「っ……!」
 まっすぐに目を見て言われた言葉。
 それが、すごく悔しかった。
 関係ない。
 ……確かに、私には関係ないと思う。
 だけど。
 だけど、何もそんなふうに言わなくてもいいじゃない……っ。
 これまで言われたことがなかったせいか、とてつもなく拒絶されたような気分になって、苦しくなる。
 私のことを拒絶してるわけじゃないと思う。
 ……だけど……。
「…………ひどい」
 俯いたまま小さく声が漏れた。
 それに対して、彼が名前を呼ぶのが聴こえる。
 ……私の名前。
 だけど、今だけはどうしても彼の顔を見るのが嫌だった。
「ひどいよ、お兄ちゃん。……もしかして、さっきのことでそうしたの?」
「さっきのことって?」
「っ……だから! さっき、廊下で慶介君にされたこと!!」
 いつもの彼なら絶対にしない。
 彼は、わざとこんなふうに答えを言わせようとなんてしない。
 ……それが、悔しくて。
 弾かれるように顔を上げて彼を見ると、いつものような温かさがなかった。
 …………ひどい。
 お兄ちゃん、ひどいよ。
 ……こんな気持ちになったの、初めて。
 私は――……。
「……きらい」
 ぽつりと漏れた言葉。
 だけど、さすがに目を見たままで言うことはできなかった。
 だって、こんなふうに言いたくないんだもん。
 ……私は、彼をそんなふうに思うことなんて、絶対にないと思っていたから。
「お兄ちゃんが、そんなことすると思わなかった」
「……羽織?」
「私……」
 何度目だろうか。
 こうして、彼に呼ばれた名前を聞くのは。
 いつもなら、すぐに返事をして顔を見る。
 ……だからこそ、こんな顔で彼を見ることなんてないと思ってた。
「……今のお兄ちゃんは、好きじゃない」
 涙が浮かぶのがわかった。
 こんな不本意なこと、彼に言うつもりじゃなかったのに。
 ……こんな、誰かを傷つける意味しか持たない言葉、遣いたくなかったのに。
 ――……しかも。
 ずっとずっと、誰よりも身近にいてくれた、私の最愛の人に遣うなんて。
 ……神様。
 あなたは、どこまで私に試練をお与えになるおつもりですか?
 これまで見たこともない、ひどく切ない顔をした彼を見たままで、ひとしずく涙がこぼれた。


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