家に帰れば、何もかもがいつもと同じなんだと思ってた。
 家族みんなでテーブルを囲んで、いつものようにごはんを食べて。
 そのあとは、勉強を教えてもらいながら、いろんな話をして。
 どれもこれも他愛ないことだけど、彼はいつものように笑ってくれて。
 ……いつものように、ちゃんとうなずいて話を聞いてくれて。
 ――……そして。
 また朝になれば、お兄ちゃんがいつもと同じように私を起こしてくれる――……って。
 私は、そう、思っていたのに。
「……お兄ちゃんは?」
 家に帰ってしばらく部屋に篭っていたんだけれど、やっぱり気になるのは……彼のこと。
 あんなふうに言ったこともなければ、あんな顔を見たこともなかった。
 だから、否が応でも彼のことを考えてしまう。
 いつもなら、家に帰って来たらまず私の部屋に来てくれるのに、今日はそれがなかった。
 それでようやくリビングに下りてきたんだけれど――……やっぱり、そこにも彼の姿がなくて。
 すごくすごく、不安な気持ちでいっぱいになる。
「あら?そう言えばそうね……。孝之、何か聞いてないの?」
「……あー。そういや、出かけるとか言ってたな」
「…………そう……なの?」
 ふと視線を上げて考える仕草をした彼に、思わず眉が寄った。
 これまで、まっすぐ家に帰ってこなかったことなんて、ほとんどなかった。
 だから、私にとって彼のその行為は、違和感そのものだ。
「? ンだよ、そんな顔して。なんだ、喧嘩でもしたのか? お前」
「……うん」
「どーりでアイツも同じような顔してたワケだ」
「え?」
 再び新聞を読み始めた彼の独り言が、強く耳に残った。
 ……お兄ちゃん、が?
 今ここに彼がいないせいか、自分が彼のことで敏感になっているのはわかる。
 だけど、やっぱり……彼がいないのは、落ち着かない。
 いつもそばにいてくれたからこそ、言うなれば――……彼は私の半身だから。
「帰り際に会ったとき、アイツらしからぬ言動だったんだよな。珍しく俺に突っかかって来なかったし」
「……元気なかった……の?」
「あ? ああ、まぁそんなトコだ」
 ……私のせい、かな。
 彼が今ここにいないのも、彼らしからぬ雰囲気だったのも。

『きらい。今のお兄ちゃんは、好きじゃない』

 あんな言葉、言うつもりじゃなかったのに。
 今さら後悔しても遅すぎると思うけれど、でも、だけど……やっぱり今からでも謝りたい。
 彼に会って……今すぐ、彼に謝って、ちゃんと許してもらいたい。
 ……そして、もう1度彼の笑顔が見たい。
 許されるのであれば。
 ……だって、私の大切な人だもん。
 失くして気付く、自分にとって重要な存在。
 確かに、今さら遅いと思う。
 彼を傷つけた人間が、言う言葉じゃないと思う。
 …………だけど。
 だけど、やっぱり彼が大切で。
 彼が――……大好きだから。
「……っ!」
 ガチャっという大きな音で、身体が自然に動いた。
 転びそうになりながら向うのは、もちろん玄関。
 この時間、家に帰ってきていないのは彼だけ。
 だから、早く会いたかった。
 会って――……。
「……お……かえりなさい」
 ちょうど、彼が上がるのと同じタイミングに出くわした。
 いつもと同じ、彼の顔。
 だけど、いつものような優しい笑みはそこになかった。
 代わりに、あるのは――……無表情の、少し冷たい顔。
 学校で見る、授業中の真剣な顔の彼だ。
「……あの、あの……ね? お兄ちゃん、私……」
「ただいま」
「っ……あ……! お兄ちゃん、待って!!」
 ふっと視線を逸らした彼は、すぐに階段へと向かってしまった。
 ――……いつもと違う。
 いつもの彼ならば、間違いなく私に触れてくれるのに。
 なのに、今日はそんな気配すらなかった。
 むしろ、感じるのは――……拒絶。
 それが痛いくらい雰囲気から伝わってきて、また泣きそうになる。
 自分が、彼をこうさせてしまったのに。
 ……私、我侭だ。
 振り向いてすらくれない彼を見たままで、ぎゅっと手を握る。
 ……泣いちゃダメ。
 今ここで泣いたら、何も変わらない。
 浮かんだ涙をこぼさないように息を吸い込み、何度かまばたきをする。
 ……どうか。
 どうか、私にもう少しだけの勇気を。
 そう願いながら、足を一歩踏み出す。
 彼に近づくために。
 そして、彼に――……。
「今は話したくない」
 口を開いたとき、彼はそう呟いた。
 彼に向けようとしていた言葉が、身体の中で詰まる。
 ……今、なん……て?
 トントン、とリズムよく聞こえてきた音が、しばらく続いて消えた。
 そして――……バタン、と大きく聞こえたドアの音。
 拒絶。
 断絶。
 絶交。
 彼とのすべてを断ち切られたようで。
 突き放されたようで。
 ……無性に恐くなった。
「羽織……?」
 背中にかかった声に振り返ることができなくて、ただただ首が振れた。
 目の前が霞んで、ぼやけて、滲んで。
 胸が、ぎゅうっと苦しくなった。
 彼を離したのは、自分なのに。
 なのに、自分がそうされると死んでしまいそうなほどの孤独感にさいなまれる。
 ……いやだ。
 こんなことになるなんて思わなかった。
 ……軽はずみだったんだ。私がしたことは。
「羽織……? どうしたの?」
 すぐ近くで聞こえた葉月の声にそちらを見ると、私を見て驚いた顔をした彼女がいた。
「……どうしよ……」
 もたれるように彼女へ腕を回し、力をこめる。
 取り返しの付かないことをした。
 もう……戻れないかもしれない。
 漏れそうになる嗚咽を堪えて抱きついていると、いつしか涙がたくさんこぼれていた。
 私は、こんなにも弱いのに。
 ……だから、彼はいつもそばにいてくれたのに。
 それに気付かなかった私は――……神様になんて、救ってもらえる資格ない。
 いくら願っても、届かない想い。
 どれだけ求めても、手に入らないもの。
 ……どうしよう。
 どうしたらいい?
 どうしたら――……彼は、また私を見てくれる?
 言いようのない不安と恐怖で、しばらくその場から動くことができなかった。
 ……私は……なんて、愚かだったんだろう。


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