大きく立ち塞がっている、準備室のドア。
 そのドアノブを掴んだまま、しばらく時間が経過していた。
 ……なんて言おう。
 どんな顔で?
 先日の彼の言葉と表情が頭に浮かび、どうしても足が進まない。
 怖さ。
 それが第1にあって、情けなくも気持ちが足踏みする。
 ……いつものように、何もなかったかのように、笑ってもらえるだろうか。
 それとも……やはり、冷たくあしらわれるのだろうか。
 誰だって、前者がいいと思うに決まってる。
 だけど、私は……彼にひどいことをしたから。
 …………はぁ。
 休み時間が少なくなっているのはわかってる。
 だからこそ、早く彼に授業のことを聞いて教室に戻らなきゃいけないことも。
「…………」
 ドアノブから手を離して大きく深呼吸をし、改めてノブを握る。
 ……どうか。
 どうか、彼が笑顔を見せてくれますように。
 ぎゅっと握ったノブを回しながらそんなことを思うと、自然に喉が鳴った。
「失礼します」
 小さな声で入室を断ってから、中へ足を踏み入れる。
 ……いつも、こんなに息苦しかったかな。
 いつもよりずっと居心地が悪くて、暗い部屋。
 自分の気持ちひとつでこんなにも印象が変わるのかと、本当に驚く。
 ――……だけど。
 驚いたのは、それだけじゃなかった。
「ホントですかー?」
「まぁね」
 いつもの準備室らしからぬ、声。
 それも普通の声じゃない。
 ……若い女性の、明るい声だ。
「祐恭先生、うまいですねー。なんか、困りますよ」
「そう言われてもなぁ……」
 笑顔。
 ……久しぶりに、見たそれ。
 ずっとずっと見たくて、私だけに向けてほしくて。
 だけど、そう願っていたものは、私ではなくて目の前にいる女性に対してのものだった。
 ここにいるはずがない、英語科の山田 泉先生。
 ときどきお兄ちゃんと話しているのは見たことがあるけれど、こんなふうに話しているとは思わなかった。
 ……こんなふうに、お兄ちゃんが笑みを見せていたなんて。
「……あら?」
 ぎゅっと教科書を抱いたままでいると、こちらに気付いた彼女が瞳を丸くしてから彼に向き直った。
「妹さん、いらっしゃったみたいなんで……。それじゃ、私はこれで」
「え? ……ああ。どうも」
 どくん。
 その、何気ないひとことが胸に突き刺さる。
 軽く会釈をして出て行こうとする彼女のことも、椅子に座ったままこちらを見ているであろう彼のことも、見れない。
 ……苦しい。
 足が震えそうになって、教科書を抱いた腕に一層力をこめる。
「……羽織?」
 パタン、とドアが閉まったあとで、彼が私の名前を呼んだのが聞こえた。
 ……だけど、やっぱり顔が上がらない。
 視線の先には、自分のつま先が映ったまま。
 …………怖い。
 今、顔を上げたら――……不機嫌そうな彼がいると思ったから。
 さっき、一瞬だけ見えた彼。
 山田先生が私を振り返って『妹』だと言ったときに、こちらを覗いた格好をした……彼の顔。
 それが、目に焼きついたまま、瞳を閉じても離れてくれなかった。

『……なんだ、お前か』

 それまで笑顔だった彼が見せた、あの表情。
 途端に、ふっと消えてなくなった笑顔。
 ……怖い。
 彼が求めてるのが、私じゃないと言われてるみたいで。
 まるで、私なんか……。
 私なんか、いらないって言われてるみたいで。
「羽織? どうした?」
「ッ! やっ……!!」
 ぐいっと手を取られた途端、手を振り払うようにした自分。
「……あ……」
 違う。
 違うの。
 ……だから。
 そんな顔……しないで。
 驚いたように……だけど、怪訝そうに眉を寄せる彼。
 そんな彼とは対照的に、鼓動が早くなったままの自分。
「……ご……ごめんなさ……」
 とんでもないことをした。
 それは、わかってる。
 だけど……反射的に、身体が動いた。
 自分よりも先に、『いらない』と言われるのが恐くて。
「っ……!」
 何かを言いかけるように動いた彼の唇が目に入った途端、きびすを返していた。
 逃げるようにドアに向かって、そのまま廊下へ身体を滑らせる。
 ドアを開けたままで。
 止めようとする彼の声を受けたままで。
 ……私は、ただただその場から逃げ出していた。
 彼が、もう私を必要としていないとわかったから。
 ……ううん。
 もしかしたら……彼は初めから、私を必要となんてしていなかったのかもしれない。
 ただ、私が彼を必要としていただけで。
 むしろ、私は……。
 私は、彼にとって『いらない』人間だったんだ。
 ……そうだよね。
 私は、彼にとって……ただの妹でしかないんだから。
「……っ……も……やだ……」
 このとき初めて、不謹慎にも彼の妹であることを不幸だと思った。


  ひとつ戻る  目次へ  次へ