彼と話をしなくなって、もう何日も経っていた。
正確な日数を思い出していないだけで、実際は考えているよりも短いかもしれない。
だけど、これまで話はおろか目を合わせないことなどなかったから、体感時間はものすごく長かったのだ。
家に帰って、ごはんを食べて。
宿題をして、次の日の支度をして。
お風呂に入って、そして……また、新しい朝が来る。
同じ屋根の下で暮らしているのに、彼と顔を合わせることがなぜか少なかった。
彼とこんな関係になるまでは、いつも私を起こしてくれた彼。
いつも、私が家にいるときは、同じく家にいた彼。
……なのに、あの日からずっと私たちはすれ違いの日々をすごしていた。
…………むしろ……。
きっと、彼が意図的にずらしてるんだと思う。
だって、そうじゃなきゃ……あまりにも、できすぎてるもん。
……今まで、喋らないことなんてなかった。
これまでずっと、『仲がよすぎる』って言われるくらい、そばにいた人なんだから。
手を伸ばせばすぐそこに彼がいて、無条件で笑みをくれて、優しくしてくれて。
なのに、今ではあの優しい笑顔も、柔らかい温もりも、何もかもがなくなったままだった。
羽をもがれた鳥の気分。
自由を奪われてしまったようで、なんだかすごく毎日が色褪せて見えていた。
学校にいても、家にいても、同じく私のそば彼の存在はない。
ときおり聞こえる声だけが、『彼』を示しているのに……いつも、彼が向けている優しさは私へのものじゃなくて。
「……はぁ」
少し考えるだけで、滲む涙。
ときも場合も場所も関係なく出てくるので、我ながら非常に厄介だった。
リビングのソファに座ったまま、自然と時計に目が行く。
金曜の、夜0時すぎ。
いつもならば、とっくに帰ってきている兄たちの姿が今はここにない。
……お母さんは、飲み会って言ってたけど……。
飲みに行くにしても、こんな時間まで帰ってこなかったのなんて……ここ最近の記憶にはなかった。
「遅いね、ふたりとも」
「……うん」
お風呂から上がったらしく、グラスを持ってきた葉月が隣に座った。
やっぱり、彼女もふたりが心配のようだ。
「……ねぇ、羽織」
「うん?」
私と一緒で膝を抱えるように座った彼女が、顔を覗きこんできた。
少しいつもと違う声色に、顔がゆっくりとそちらへ向かう。
「喧嘩したの?」
「……え……?」
「最近、元気ないでしょ? 羽織」
「…………うん……」
これまで、触れてくるかと思ったけれど、触れられなかったこと。
それを、ようやく葉月が口にした。
彼女が気付かないはずはないんだ。
なぜならば、家だけじゃなくて、学校での私も彼女は知っているから。
「それに、ほら。同じように、元気なかったし」
「……誰が?」
「え? 誰って……もちろん――」
つい聞き返してしまった、答えがわかっていること。
それに葉月が返事をしようとしたとき、ちょうど玄関の鍵が開いた。
「あ」
『ただいま』の返事よりも先に、兄である孝之が葉月を呼んだ。
どうやら、彼女が起きているのを彼は知っていたようだ。
……だけど、聞こえてくるのは彼ひとりの声だけ。
お兄ちゃんは……?
思わず、心が嫌な音を立ててザワつく。
……お兄ちゃん、帰ってきてないの…?
夜中だというのに、平然と普通の声で話しているのを聞きながら、怖い物見たさの気持ちが先に立つ。
そこにお兄ちゃんがいなかったら、私は……きっと立ち直れないのに。
どくどくと高鳴る鼓動をなだめるように胸の前で手を組んでから、ゆっくり玄関へと足を踏み出す。
一歩、そしてまた一歩。
玄関に膝を付いて話している葉月。
そして、玄関に座り込んだままかったるそうに彼女と話している、兄。
――……お兄ちゃんは……?
「っ……!」
ドアに手をかけて、ゆっくりと……本当にゆっくりと顔を覗かせると、見覚えのある髪が目に入った。
と同時に、身体から力が抜ける。
……帰ってたんだ……。
声がしなかったので、てっきり帰っていないのだとばかり思ったけれど、彼はちゃんとそこにいた。
……ただし、彼にしては珍しく……その場に崩れるように寝てしまっていたが。
「……もー。どうしてこんな時間まで飲んでたの? もっと早く帰って来ればよかったのに……。心配するでしょ?」
「そりゃ、悪いとは思ってるって。でも、しょーがないだろ? コイツが飲むっつーんだから」
話を続けている彼女らに近づき、そっと……彼の隣にかがんで、顔を覗いてみる。
……久しぶりに見た、彼。
そして。
…………久しぶりに近づいた、彼。
しっかりと閉じられている瞳は、確かに彼が寝ている様子を示していた。
……珍しい。
彼が自ら『飲む』と言ったらしいこともそうだけど、こんなふうに酔い潰れるような姿が……何よりも。
お酒に弱いわけじゃないし、ましてや自我を失うほど酔うなんて、彼からは想像も付かない。
同じ兄の孝之と違って、自制ということに関しては人一倍強いと思っていたから。
……なのに……。
「ッ!!」
ぴく、と小さく手が動いたかと思いきや、彼がかったるそうに身体を起こした。
不機嫌そうに眉を寄せたままネクタイを緩め、頭に手をやって――……。
「っ……え……」
じぃっと見つめられた。
……それだけじゃない。
目が合った途端、彼は私を抱きしめたのだ。
「なっ……! お……にいちゃ……?」
突然のことで避けることもできず、ただただなされるがままの格好。
だけど、半分まだ寝ているのか応答はなかった。
……と同時に、もたれられて支えきれなくなる。
「……いずみ……」
「っ……」
小さく。
本当に小さく聞こえた声で、時間が止まった気がした。
ため息混じりに呟かれた言葉。
……いずみ……?
なんのことか考えを巡らせる時間をくれる暇もなく、彼が腕に力をこめた。
……ううん。
暇がなかったんじゃない。
彼の声が聞こえたとき、私の思考は止まってしまったんだから。
「……ちが……ぅ……」
安らかに寝息を立てて、きっちりと瞳を閉じている彼に抱かれたまま、声が漏れた。
掠れた……本当に、『搾り出した』という表現が正しい声が。
「……っ」
ぼろ、っと大きく涙がこぼれる。
と同時に、彼が薄っすらと瞳を開けて腕から力を緩めた。
「……私は……」
彼に、軽く俯いたまま首を振る。
「……羽織?」
嫌だ。
……その声が、あのときと同じように聞こえたから。
『なんだ、お前か』と言われた、あのときと同じように。
「私はっ……泉なんて名前じゃない……っ!」
自分と違って、彼に笑みを向けてもらえていた、山田 泉先生。
その彼女が、今度は彼に名前を呼んでもらえるようになった。
すごく愛しげに、酷く切なげに。
ねぇ、神様。
どうして、あなたはそこまでいたずらをするんですか?
こんなことを聞くのは、私じゃなくてもよかったはずなのに。
……私はただ、彼に近づきたかっただけなのに。
「もぉ……やだ……」
不器用に涙を拭って、力が緩んだ彼から離れる。
今だけは、どんな優しさも受け付けられなかった。
……たとえそれが、1番欲している彼がくれた物だとしても。
好きでたまらない人。
心底、大切な信頼できる人。
その人によって、こんな目に遭わされている自分がかわいそうだとさえ思った。
ワガママな自分。
……こんな私、大っ嫌い。
「羽織!」
引き止めるように呼ばれた、名前も。
こちらを見ているであろう、彼も。
――……みんなみんな、なくなってしまえばいいのに。
……元に戻らないのならば、いっそ。
消えちゃえばいいんだ。
駆け上がるように階段を昇りながら、涙とそんな醜い考えが止まらなかった。
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