「……あ? お前、いつ帰ってきたんだ?」
トーストをかじりながら振り返ると、リビングとダイニングの間に眠そうなお兄ちゃんが立っていた。
眉を寄せて口の中の物を飲み込んでから、彼を軽く睨む。
「昨日、もう帰ってたよ?」
「そうなのか? ……ふぅん」
「……ていうか、私もお兄ちゃんがいつ帰ってきたのか知らないけど」
「お前には関係ないだろ」
「っ……それじゃ、私がいつ帰ってきたっていいでしょ!」
相変わらず、ひとこと多いんだよね。お兄ちゃんって。
思わず、むっとしながらトーストをかじると、彼が隣に腰を下ろしながらネクタイを締め始めた。
……今ごろ、先生ちゃんとごはん食べてるのかな。
なんてことを思い浮かべた途端、ふいに彼が話を続ける。
「しっかし、祐恭のヤツすごいよな」
「え?」
「え、って……お前、夏休みの間一緒にいて気付かなかったのか?」
「別に……何もなかったと思うけど」
夏休みという単語で一緒にいられた幸せな期間を思い出すものの、コレといってお兄ちゃんが何を言わんとしているのかがわからず、首を横に振る。
すると、小さくため息をついた。
「アイツ、論文書いてたろ?」
「論文? ……どうだろ……。あんまり記憶ないけど」
「やっぱり」
……やっぱり、って何?
ちょっとだけカチンとくる言い方に眉を寄せると、私を見ずにコーヒーを飲んでから新聞に手を伸ばした。
……感じ悪いなぁ、相変わらず。
眉を寄せてから中断した朝ごはんの続きを再開するも、発生したイライラはそう簡単に収まらない。
「アイツ、教師の仕事してるだろ? しかもかけ持ちで。それだけでも大変なのに、大学に論文出しにくるんだぜ?」
「……そうなの?」
「そ。論文つったって、アイツはフツーの仕事持ってるし、そのうえ休みの日はいつもお前と一緒にいて……いつやってるのかって不思議に思うよ」
「え……私、見てないよ……?」
「だろうな。だから、いつ論文書いてんだって不思議なんだよ。夏休みの間一緒にいたのに、お前はその現場見てないんだろ? てことは、お前が寝たあととか朝早くに起きてやってたんじゃねーの?」
「……っ……」
そういえば、思い当たることがある。
1度じゃない、2度じゃない。
それこそ、何度も。
明け方に目が覚めると、隣にあるはずの彼の姿がないことが何度もあったのだ。
そのたびに、あの書斎にこもっていて………ということは。
じゃあ……じゃあっ、やっぱりあのとき、彼は論文を書いていたんだ。
私の知らない時間に。
寝る時間を削って。
「……私……邪魔してたんだ……」
トーストを持ったまま、思わずそんな言葉が漏れた。
だけど、しっかり聞いたらしいお兄ちゃんは小さく笑って首を横に振る。
「アイツがお前を邪魔なんて思うワケねーだろ。だったら、『一緒に暮らそう』なんて誘ったりしねーし」
「……けどっ!」
「お前、ンな顔でアイツに会う気か? ほら。とっととメシ食って、学校行けって」
「………………」
残りのトーストをひとくちかじる。
だけど、それ以上はどうしても入っていかなかった。
口の中に残っていたパンを流し込むようにアイスティーを飲み、食器を片付けて部屋に上がる。
……知らなかった。
先生、論文も書かなきゃいけなかったんだ。
大学に行っていることは知ってたけど、そんなお仕事があるなんてことはまったく知らなかった。
だって、私が見てる前で彼がパソコンに向かっている姿は、ほとんど記憶にない。
あるとすれば、彼が京都へ出張することになったあの数日の間だけ。
しかも、私が夕食を作ったりして何かほかのことをしているときだけだった。
「…………」
……私のせいだ。
彼は、何も言わなかった。
むしろ、いつもそばにいてくれて……時間を割いてくれて。
いろんな場所へ、たくさん遊びに行った。
家にいるときも、いつだってそばにいてくれた。
論文だけじゃなくて、ほかにもたくさん仕事があったはずなのに。
……なのに……彼はどんなことよりも私を優先してくれて、彼自身のモノである睡眠時間を犠牲にしていた。
私の、せいだ。
強く実感した途端、強い後悔を感じて苦しくなる。
どうして、彼は黙ってたんだろう。
仕事するなら、言ってくれれば邪魔したりしなかった。
邪魔になるってわかっていれば、彼の家に行ったりしなかったとさえ思う。
「……あ」
時計を見ると、もうバスの時間が迫っていた。
いつもよりもずっと重く感じる鞄を手にし、身体を引きずるように家を出る。
なんとなく、彼と学校で会うのが気まずい。
今週末、彼の家に行けるのを楽しみにしていたけれど……我慢しなきゃ。
だって、彼には仕事がある。
夏休みがあるのは学生だけ。
……そう。
私だけ、休んでいた。
彼はまったく休んでなどいられなかったのに。
……なかったのに。
「っ……」
申し訳なくて、だけど私の前では一切そんな姿を見せなかった彼を思い出すと、感謝と後悔でいっぱいになる。
だから今度は私が引く番。
彼のために、自分の時間を遣う番。
そう心に誓ってから、靴を履いてから玄関の外へ一歩踏み出した。
『祝 3年 皆瀬絵里 全国高校化学グランプリ 優秀賞受賞』
赤と黒の字で作られた看板のかかっている、正門。
絵里の名前が大きく飾られているのを見ると、まるで自分のことのように嬉しかった。
女子で優秀賞を得ることは、なかなかないと聞く。
だからこそ、絵里はすごいなぁと改めて思った。
国際化学オリンピックに出られるのは、このグランプリ受賞者以外の1,2年生になっているため、絵里はドイツに行くことはできない。
だけど、これだけの成績を残したというのは本当にすごいこと。
「おめでとう、絵里っ!」
「うぉあ!? っ……りがと」
教室に入って真っ先に彼女を見つけ、おめでとうの言葉と一緒に抱きついて喜びを示す。
途端、机へもたれていた彼女がひっくり返ってしまいそうになったけれど、いつものように『まったくもー』なんて笑われて、少しだけ力が抜けた。
絵里は、絵里。
……でも、違うの。
私の幼馴染は、とってもすごい人なんだから。
――……そんな今日は、絵里の受賞以外は普段と変わらない始業式だった。
いつものように校長先生の長い話を聞いてから教室に戻り、日永先生がくるまで雑談をする。
半日で帰れることは嬉しかったけれど、やっぱり気分は乗らないまま。
「……羽織?」
「え?」
「なんか、元気ないんじゃない?」
「そうかな? 変わらない……とは思うけど」
「……そう? ……んー、なんかね、笑えてなくない?」
「っ……」
「や、なんとなくよ? なんとなく。普段よりぎこちないっていうか、表情が乏しいっていうか。アンタらしくないなー、って思うのよね」
絵里の言葉に、思わず息を呑む。
……そう言われれば、今日はまだ笑ってないかもしれない。
朝、絵里を祝福した時も、自分らしくない固い笑顔だなってことが少し引っかかっていた。
「そんなことないよー。大丈夫」
そう言いながらもうなずけなくて、ひらひら手を振りながら首で否定を示す。
……とはいえ。
そう簡単に、絵里が『そっか』なんて鵜呑みしてくれるはずもなく
じぃっと見つめられたとき、まるで何かを見透かされているような気がした。
「あ。HR始まるね」
「え? ……ああ、うん」
えへへ、と作ったような笑いを浮かべて視線を外すと、ちょうど先生たちが揃って教室に入ってきた。
いつもならば、彼の姿が見えるとそれだけで笑顔になれるんだけど、今はそう簡単に喜べない。
自分が邪魔をしている。
彼の優しい笑顔を見ると、反対に心がちくりと痛んだ。
「おはようございます。夏期講習以来の子もいるけど、無事、新学期初日にこうして全員が顔を見せてくれて嬉しいわ。それじゃ、まずは今週と来週の予定表を配るわね」
日永先生と彼とがそれぞれ数種類のプリントを配り始めると、あっという間に机の上はプリントで束が作れるほどになった。
紙をめくりながら、言い渡される9月の予定を書き込んでいても、ついつい視線が向かうのは――……前で話をしている彼。
……申し訳ない。
そんな気持ちが、どうしても湧く。
結局、このあとはいろいろな連絡事項と一緒に模擬試験の日程が通達されたものの、お昼より少し早くにはLHRが終わった。
教室を出て行く先生たちを見送ってから鞄に教科書を詰めて立ち上がり、絵里とともに化学室を目指す。
「んじゃ、お昼買いに行こっか」
「そうだね」
午後は部活があるので、これからお昼を買いに行く予定。
今日は、荷物が多いからお弁当は持ってこなかったんだよね。
「……あ」
鞄を置いてから実験室を出ると、ちょうど田代先生が廊下に出てきた。
もちろん、ひとりじゃない。
少しうしろに、祐恭先生の姿もある。
「コンビニ行くのか?」
「うん。何かあったら買ってくるけど?」
「そーだな。じゃ、蕎麦」
「蕎麦ぁ? ……まぁいいけど」
「なら、なんでそんな不満げに反応したんだお前は」
眉を寄せた絵里を見て、田代先生が苦笑を浮かべつつお財布を取り出した。
別に、なんて言いながら笑って受け取る絵里を見ながら、こっちにも笑みが浮かぶ。
ふたりが楽しそうにしているのは、やっぱり見ていて嬉しい。
「……え?」
「どうした? 何かあった?」
「えっと……どうしてですか?」
絵里たちを見ていたら、不意に彼が頭を撫でてきた。
驚いてそちらを見ると、昨夜とは違う心配そうな顔につい喉が鳴る。
今日、初めてまっすぐに見る彼の顔。
眉を寄せられ、なんだか申し訳なくなる。
「いや、元気ないなと思って」
「っ……あ……えっと、あの、ちょっとだけ考えごとを」
「そう? ならいいけど」
なるべく心配されないように手を振って笑みを浮かべ、再度『なんでもないです』を口にする。
これで納得してもらえたなどとは思わないけれど、でも彼はしばらくしてからお財布を取り出して、私に小銭を差し出した。
「アイスティー、買ってきてくれる?」
「あ、はい。わかりました」
チャリ、と手の中で鳴る音がちょっぴり心地よくて、うなずきながら笑みが浮かんだ。
彼にはやっぱり、わかっていたのかもしれない。
さっき浮かべた笑みと、今浮かべた笑みとが違うモノだったということを。
「じゃ、行ってくるわね」
「おー。頼んだぞ」
絵里に手を引かれながらふたりに手を振り、小走りで昇降口まで向かう。
そのとき、階段の踊り場で私を振り返った絵里が、にやっとした笑みを浮かべた。
「なぁに? 羽織が元気なかったのは、祐恭先生に会えなかったからだったワケ?」
「っ……そんなんじゃないよ?」
「いーっていーって。別に、今さら恥ずかしがることもないでしょ? 好きなんだから」
「それは……そうだけど」
「よっし。んじゃ、買いに行くわよ」
「うんっ」
くすくす笑われ、反射的に私にも笑みが浮かんでいた。
……好きなことに、変わりはないし間違いもない。
だからこそ――……やっぱり、彼には無理も我慢もしてほしくない。
そう思うのは、自然なことだよね。
「…………」
「羽織? 行くよー」
「……あ。ごめん、待って!」
いつしか足が止まっていたようで、慌てて絵里のもとへ駆け寄る。
考えたなら、あとは行動に移さなきゃ。
改めて決意を固めながら『ごめんね』と絵里の隣へ並ぶと、苦笑まじりに『あんたって子は』なんて小さく笑われた。
化学室に戻ると、数人の部員の子たちがすでに昼食を取っていた。
空いていたテーブルに荷物を置き、頼まれた物を持って準備室に向かう。
すると、珍しくふたりとも店屋物を食べているところだった。
「……お。サンキュ」
「何よ、コレ食べてさらに蕎麦まで食べるの?」
「なんで? 駄目なのか?」
「……駄目じゃないけど……よく食べるわね」
「今日、朝飯失敗されたからな」
「は? ケンカ売ってんの?」
「いや、事実だし」
意味ありげに田代先生がジト目で絵里を見ると、同じように瞳を細めた彼女が小さく舌打ちした。
……朝からひと悶着あったんだ。
今のやり取りでそのときの様子が頭に浮かんでしまい、思わず笑ったら絵里に睨まれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
中華丼を食べていた彼に頼まれた無糖紅茶を渡すと、ぽつんと残されているうずらの卵へ目が止まった。
「……先生、うずらの卵嫌いなんですか?」
「いや、食べるよ?」
あ、そうなんだ。
トマトのせいか、最後まで残っている物は“嫌いな物”という刷り込みがされているらしい。
普段、好きな物は途中で食べる彼だけに、ちょっとだけ意外な一面を見た感じだ。
「昼飯、何にしたの?」
「え? っと……」
おつりを渡したところで聞かれ、ガサガサとレジ袋を開いて彼に見せる。
あれこれ、すごく迷ったんだよね。
でも結局、買ったのはサンドイッチとプリン。
……えへへ。
生クリームがたっぷり乗っているもので、ひと目見た瞬間思わず手を伸ばしていた。
「……またそんな甘いもの食べて」
「え?」
中を覗いた彼が、私を見てからニヤリといたずらっぽく笑った。
……ぅ。なんですか、その顔。
何か自分にとってよくないことを言われる前触れのように思えて、つい眉が寄る。
「生クリーム、ね」
「…………ぁ」
プリンを見てから、ふ、と笑われ、思わず手が止まる。
……昨日の、アレのことを言ってるんだ。
「っ……」
忘れていたわけじゃないんだけれど、頭にぱっとは浮かばなかった出来事。
うぅ、だってあんな……あんなに恥ずかしいことしたなんて誰かにバレたら、本当に大変なことになるんだから。
それこそ、すぐ隣で田代先生と話している絵里なんかに知られでもしたら……っ……恐ろしくて考えたくない。
「ん? どしたの? 羽織」
「え!? や……あの、ち、違うの。なんでもないの。あは……あはは」
さらりと指摘され、思わず肩がびくっと震えた。
取り繕うように手を振って否定するけれど、そう簡単に『あ、そう』なんて言ってくれるはずもなく。
私と先生との表情を見比べてから、瞳を細めてそれこそ彼と同じようにいたずらっぽい顔をした。
「んー? 何があったのかしらー?」
「っ……何もないよ!」
顔がどんどん熱くなる。
……うぅ。もう、絶対何かバレてるに違いないけれど、さすがに言えない。アレだけは、絶対。
秘密ったら、秘密なんです。
「ね、ごはん! ほら! お昼食べよ?」
「……えー? なんか、話逸らしてない?」
「してない!」
ぐい、と絵里の手を引っ張って実験室へのドアまで向かうも、途端に眉をひそめて指摘された。
でも、違うの。違うからね!
そんなんじゃないからね!
必死になればなるほど怪しいかもしれないけれど、どうしたって必死になるというもの。
……もぅ。
どうしてこんなことになっちゃうのかな。
「っ……」
ドアノブに手をかけたとき、振り返ったらいたずらっぽく笑う彼と目が合った。
……うぅ。
もうー!
「ごはんっ!」
「もー、しょーがないわね。わかったわよ」
もしかしたらこのとき、私は顔だけじゃなくて身体までも赤くなっていたのかもしれない。
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