「……はー」
いつも通り目覚ましで起き、手早く支度を整えてから新聞に目を通す。
……いつもと同じ。
そう、彼女と過ごした夏休み前までと同じ、朝。
パンをトースターに放ってから顔を洗い、先に着替える。
……とはいえ、ワイシャツを着るだけ。
下だけパジャマという格好もどうなのかとは思うのだが、長年身についてしまった習慣はなかなか抜けそうにない。
リビングに戻るころにはちょうどトーストが焼けており、それをかじりながらの教材準備。
『もぅ、お行儀悪いですよ?』
彼女がいれば、そんな言葉が聞こえてくるだろう。
眉を寄せて上目遣いで睨み、こちらが何か言えば苦笑を浮べる。
「…………」
ひとつひとつの動作が鮮明に浮かぶ彼女も、今では実家。
部屋が、余計に広く感じる。
ソファも、ベッドも、何も……かも。
彼女が立っていたキッチンも、今ではすっかり以前のまま。
きれいに片付いていて、変化は何もない。
部屋に響くのは、テレビに映っているニュースの音と新聞をめくる紙擦り音だけ。
さすがにひとりきりでは、声も出ない。
トーストを食べ切ってから紅茶を飲み、寝室のクローゼットからスーツの上着とネクタイを取り出す。
いつもならば、ネクタイを首にかけてリビングに戻ると、彼女が寄ってきて結びたがったのだが……。
「……はぁ」
ベルトを締めてから、自分で結ぶ。
それだけで、やはり寂しさは募る。
これから行けば学校で会うことはできる――……が、抱きしめることも、髪に触れることも、そしてもちろんキスをすることもできないわけで。
……は。朝からツラいな。
気分が滅入る。
今日は3年2組の授業があるので彼女が連絡をしにくるものの、あたりさわりない会話を繰り広げるのみ。
ふとした仕草でつい手を出したくなるのだが、いた仕方ない。
「……うさぎ、ね」
バッグに荷物を詰めてから、腕時計を取る。
京都で買ってきた、うさぎの置物。
そこから時計を取って、腕にはめる。
……彼女より、俺のほうが寂しくて死にそうだ。
思わず苦笑を浮かべてからキーケースを持ち、玄関を出て駐車場に向かう。
今は、ひとりで家にいるのがあまり好きではなく、できることならば少しの時間で済むように……と思っている。
ともに過ごした時間のお陰で、彼女の存在が予想以上に大きくなった証拠だろう。
「…………」
主のいない助手席に荷物を置き、エンジンをかけて学校へ。
せめてもの救いは、学校という場所でならば彼女と会って話していても不自然じゃないという点か。
かたちは違えど、毎日顔を見ることはできる。
……まぁ、それで満足できるほど子どもではないのだが。
我侭だとはわかっているが、それでも……。
「……参ったな」
苦笑混じりに呟きながら、すいている道を走ると心地よかった。
学校まであと少し。
そうすれば、彼女に会える。
……そんな歌詞の曲もあったな。
不意にそんなことを考えてから、教員駐車場へと車を乗り入れた。
何事もなく過ぎた、昼休み。
昼食を食べ終えてコーヒーを飲んでいるところに、愛しの彼女が姿を見せた。
「コーヒーなんですか?」
「うん。……何か変?」
「あ、いえ。ただ、コーヒーはあまり好きじゃないって聞いてたから」
「そうだけど、この学校に無糖のアイスティーは置いてないでしょ?」
「……確かに」
カップを机に置きながら言うと、苦笑を浮べた彼女が小さくうなずいた。
さらりと流れた髪に、つい目が移る。
「次の時間はなんですか?」
「とりあえず、夏休み最初ってことで小テスト」
「……はい?」
「だから、小テスト。ん? ちゃんとしたテストのほうがいい?」
「な、なんでテストなんですか!?」
「なんでって、夏休みに宿題出しただろ? それが身についてるか確かめるため」
にっこりと笑って続けると、困ったように眉を寄せた。
ただ、あまりにも予想通りの反応過ぎて、吹き出しそうになる。
「……何? その顔。自信ないとか言わないよね?」
「な……にを言うんですか。だって、勉強……したもん」
「だよね。なら簡単。ま、できが悪かった暁にはもう1度アレ着てもらうだけだから、心配しないで」
「アレ? え、アレって……っ……! やですっ!」
口角を上げて笑うと、頬を染めてぶんぶん首を振られた。
相変わらず、こういう反応をされると楽しい。
……ああ、俺ってもしかしたらSなのかもな、とわずかに納得した。
「それじゃ、がんばっていい点マークするようにね。なんせ、1度宿題でやった問題だし」
「……うぅ、がんばります……」
「連絡もよろしく」
「はぁい」
渋々といった表情で準備室を出て行く彼女を苦笑混じりに見送り、テスト問題をもう1度見直してみる。
……そんなに難しい問題じゃないしな。
まぁ、化学の勉強は……そういえば、さほどしてないけど。
間違うたびに、手を出した記憶しか浮かんでこないのは、果たしてどうなのか。
コレでも教え込むのを仕事にしてるんだが。
「…………」
顎に手を当てながらそんなことを考えると、やっぱり期待できないかもしれない、などと思い浮かんだ。
……そのときはまぁ、それを口実にあれこれやらせるか。
とりあえず、付きっきりで復習だな。
小さく笑ってテストを机に置くと、しばらくしてから予鈴が響いた。
果たして彼女はきちんと申し渡ししたのか?
自分のことでいっぱいいっぱいになってるんじゃないかという不安も若干はあったが、時間通りに実験室へ入る。
そのときはまだざわついていたが、教員用の実験台前に立つと、自然と音が収まる。
号令を受けて早速テスト用紙を配り始め、口々に起きたブーイングにも似た言葉を苦笑で誤魔化す。
それでも、テスト予告は宿題にも書いておいたことで、何も仕打ちなんてモノじゃない。
「それじゃ、始め」
全員にプリントが回ったのを見てから声をあげると、一斉に問題へ視線を落とした。
今までとは違い、途端に静かになるのは気持ちがいい。
「…………」
教員用の実験台に手をついて椅子に座るころには、カリカリとシャーペンの音だけが響き始めた。
……そんな中。
やはり、どうしても視線は彼女に行ってしまう。
シャーペンのノック部を顎に当てて、何やら真剣に問題を読んでいる姿。
……そんな、英語バリの長文問題は載ってないんだけど。
眉を寄せ、頬杖をつきながら用紙を食い入るように見つめる姿に、ただただ苦笑しか出てこない。
……相当悩んでるな、アレ。
遠目に見てもわかる、苦悩っぷり。
先ほどから、シャーペンが動くかと思いきや、動かずじまい。
……果たして、ちゃんと書いてるのか?
そんな疑問が頭をよぎるが、もちろん口を挟むことはなく、ほどなくしてから自分も作業を始めるべく視線を移した。
テスト時間は40分。
休み明け初回の授業ということもあり、少し長めに取った。
その後10分で答え合わせをして、今日は終了。
最後に解答用紙を回収してから、成績をつけるべくチェックする。
俺の授業で赤点取ったら許さないからな?
などと心の中で思いながら彼女を見ると、途端、小さなくしゃみをした。
……何か予感でも伝わったか。
相変わらず難しい顔をしている彼女に、ふっと笑みが漏れた。
「…………」
それにしても、見事に彼女だけに視線が行くな。
これでは、授業どころでなくなる。
授業中に目が合ったら、そのまま見つめてしまいそうだ。
……もしかしなくても、少し考える必要があるかもしれない。
などと考えていると、すぐに時間になった。
「そこまでー。それじゃ、これから答え合わせするから。赤ペンだけ出してほかはテーブルから外して」
立ち上がって声をかけると、途端に安堵なのか何なのかわからないが、ため息のようなモノが響き渡った。
中には、ぐったりと机に伏せている者もいる。
……ウチの彼女も例に漏れず。
隣に座る絵里ちゃんに、ぐりぐりと頬をつつかれている。
「まず、1問目。これは――……」
全員の目の前から筆箱が片付いたのを見計らってから、解答を黒板に書きながら説明を簡単にしていく。
まぁ、簡単な答えは配ってあるから見ればわかるんだけど。
「………以上。それじゃあ、ちょっと早いけど終わり」
ざっと答え合わせをし終えたところで、腕時計を見てから声をあげる。
早いと言っても、2,3分。
それでも彼女らにとっては嬉しかったようで、終わった終わったと口にしながら各自が席を立ち始めた。
集まったプリントを眺めながら、さりげなく彼女の答案を探し出す。
……ふむ。
だいたいは合ってるが……いや、合ってるようで合ってない。
細かいところがちょこちょこ間違っている。
ケアレスミスってヤツ。
……ふぅん。
それじゃ、今度は細かく弄ってやるか。
ふとそんなことを考えながら生徒らを見送って準備室へのドアをくぐると、ちょうど主任である斎藤先生がひとりの青年を連れて入ってくるところだった。
見慣れない顔。
というか、初見。
……あれ。
もしかして、今朝何か連絡事項とかあったっけ。
まったく頭に残っていなかっただけに、思わずまばたきしてから純也さんを見ると、彼もまた俺と同じような顔をして肩をすくめた。
「えー、みなさん。ちょっとよろしいかな?」
純也さんと俺、そしてほかのふたりの先生方が彼を見る、小さく咳払いをしてから隣の青年を斎藤先生が手で示す。
「2週間、教育実習生としてこられた、篠崎先生だ。みなさん、よろしく」
「篠崎圭介です。2週間、がんばりますのでよろしくお願いいたします」
人当たりのよさそうな、物腰穏やかな青年がぺこっと頭を下げ、人懐っこい笑みを浮かべた。
……けいすけ。
名前の響きが、つい先日嫌な思いをしたばかりのアイツと同じで、つい顔が引きつる。
圭介、ね。
まぁ、彼の場合はウチの彼女と絡んだりしないだろうけど。
「瀬尋先生」
「あ、はい」
「七ヶ瀬大学の学生だ」
「……へぇ」
彼にはなんの関係もないヤツのことを考えながら斉藤先生とのやり取りを見ていたら、不意に声がかかった。
立ち上がってそばへ行くと、照れたように篠崎先生がうなずく。
「初めまして、瀬尋です。よろしく」
「瀬尋先生っ………大学にもいらしてますよね?」
「え? あぁ、よく知ってるね」
「もちろんです! 教授から、よく先生の話を伺ってますから」
「あー、どうせロクでもないことだろ? 授業中寝てたとか、レポートの期限伸ばすのに賄賂送ったとか」
「まさか! 先生の論文、よく読ませていただいてます」
「……うわ」
きらきらした目で見られ、うっかり本音が口を滑る。
というか、うわってなんだ。うわって。
我ながらどういう反応をしてるんだとツッコむが、仕方ない。
なんせ、自分で書いておいてナンだが、『読んだ』と自己申告くれた人間と久しぶりに会ったので、素直な反応が出たんだ。
「俺のはあんまり参考にならないと思うけど……」
「とんでもない! すごく面白いですよ!! 実際にお目にかかることができて、光栄です」
「いや、そんな大層な人間じゃないから」
眉を寄せて苦笑混じりに呟くものの、彼は相変わらず笑みを浮かべたままで『とんでもない!』と首を横に振った。
……なんか、雰囲気が彼女に似てるな。
ころころ表情変えるところとか、人懐っこく笑うところとか。
つい、彼の仕草の中にも彼女を重ねてしまい、しっかりしろよと自分に内心喝を入れる。
「そんなわけだから、2週間よろしく頼むよ」
「……え。自分ですか?」
「ああ。彼は日永先生のもと、3年2組に入ることになったのでね」
……なるほど。
確かに、日永先生が好きそうなタイプだ。
自分とは違う、かわいらしい感じの彼。
いわゆる、母性本能をくすぐられるとかってヤツか。
「それじゃ、2週間。不甲斐ない教師だけど、よろしく」
「とんでもないです! こちらこそ、お願いします」
にっこり笑って手を差し出すと、彼も笑顔を浮かべた。
……これから2週間、みっちり鍛えるか。
自分が実習に来たときとはまったく違う立場というのは、なかなか面白い。
まぁ、日永先生の下につくのであれば、無茶な要求はされないだろうが。
3年2組の化学の次の授業は、木曜日。
人文系のクラスなので、化学は火、木、金の週3日だ。
木、金と週末に連日彼女の顔を見れるので、2学期の時間割は結構気に入っている。
今週末は家にくるだろうし。
そんなことを考えながら荷物をまとめ、次の授業へ向かうことにした。
|