「瀬尋先生っ!?」
「……や」
小さく手を挙げて玄関に向かうと、驚いたように篠崎先生が瞳を丸くした。
それはそうだろう。
まさか、俺がここにいるなんて思いもしないだろうし。
「ええと、瀬尋先生は……どうしたんですか?」
「え? あー、えーと……」
う、と思わず言葉に詰まったとき。
こうならざるを得ない状況を作り出した本人と、目が合った。
「そう! アイツと昔からの知り合いでさ」
「あ、そうなんですかー」
「それで、たまにこうして飯をご馳走になってるんだよ」
あはは、と乾いた笑いを見せると、特に疑いもせず彼はにこやかに笑った。
……なんとか難は逃れたか……?
だが、彼が帰るまでは気を抜けない。
ヘタしたら、孝之がうっかり口走りそうだし。
「で。篠崎先生はどうしてここに?」
「あ、実は高校時代に瀬那先生にお世話になってまして。それで、お邪魔したんです」
「そうなんだよ。……まぁ、祐恭君にとっては大学も高校も後輩というわけだ」
「……はぁ」
にやにやと笑みを浮かべる瀬那先生に苦笑を返すと、彼女がこっそりリビングに戻っていくのが見えた。
……ほ。
と、内心安堵したのもつかの間。
「せっかくだから、篠崎も食べていかないか?」
「え!?」
「いえ、そんな……突然ですし」
「いや、いいじゃないか。なぁ、祐恭君」
「へ!? あ……え、ええ、そ……ですね」
にっこりと笑って肩を叩かれ、思わずごくりと喉が鳴る。
瀬那先生、もしかして何か試してんのかな。
たらりと背中を冷たい汗が伝い、乾いた笑いが漏れた。
タダでさえ、彼女との関係がバレるんじゃないかとひやひやしているのに、一緒にいる時間が長くなるなんて。
しかも、彼がここにいる間は彼女ひとりにもできないワケで。
うっかりも含めて、バラす可能性があるといったら孝之か、はたまた彼女かのどちらかだろうし。
などと内心もやもやしたままリビングに戻り、席に着いて箸を手にするも、思わずため息が漏れた。
「でも、瀬那先生のお嬢さんが高校生だったなんて……知りませんでした」
「はは、そうだろうな。孝之とは少し年が離れているし」
「しかも、かわいいお嬢さんですもんねー」
ぴく。
思わず、反応。
――……だが。
「ですね。俺も、そう思います」
敢えて、何も知らないふりをして同意することは、なんの罪にもならないはずだ。
うなずきながらから揚げをつまむと、自然に笑みが浮かんだ。
「だけど、彼氏のひとりやふたりは欲しいトコだよなー」
「ごほっ!」
「わっ!? せ、先生! 大丈夫!?」
孝之の言葉にむせると、慌てて彼女が背中を叩いてくれた。
こ……こいつはっ……!!
お前ケンカ売ってるだろ。絶対。
そのニヤニヤ顔はやめろ。殴りたくなるから。
「……はー……ごめん」
呼吸を整えてから、改めて孝之を睨む。
確実に、わかってやってる。コイツ。
つーか、この状況を見れば鋭いお前ならわかるだろ!?
少しくらい加勢してくれたって、バチは当たらないだろうに。
「篠崎は、彼女とかいないのか?」
「……ええ。ちょっと恵まれてません」
「ほぅ。もったいないなぁ、いい青年なのに」
「っ……」
孝之を恨みつつ箸を進めると、瀬那先生が篠崎君に話を振った。
……う。
なんていうか、こう……チクチクと痛いものが。
もしかして、俺は不真面目なんでしょうか。
「…………」
思わず箸を止めて緑茶を飲むと、篠崎君がにこにこと羽織ちゃんを見ているのに気付いた。
……まさか。
そんなワケないよな?
いくら名前が同じ『けいすけ』だからって……お前まで人の彼女に手を出すつもりか……?
だとしたら、絶対に許さない。
「……………」
思わずため息を漏らすと、彼の視線はもう違うところにあった。
気のせいならば、それでいい。
むしろ、そうであってほしいのだが……。
いつもと違ってとても気まずい夕食は、その後しばらく経ってからの彼の帰宅でようやく免れた。
「……俺も、そろそろ失礼します」
「あら、もう? お風呂入っていけばいいのに」
「いえ、とんでもないです。ごちそうさまでした」
苦笑と一緒に首を振り、一同に挨拶をしてから靴を履く。
夕食だけのつもりが、それなりの時間滞在してしまった。
やっぱり、ここは居心地がよすぎる。
もちろんそれは、ありがたいことなんだけど。
「気をつけてくださいね」
「もちろん。……それじゃ」
「……うん」
寂しそうに微笑んだ彼女の頬へ、あいさつの口づけをしてから車に向かう。
さすがに、毎日のように深いキスをしてたら、身体が持たない。
……明日で木曜日か。
まだまだ長いな……。
などと考えながら、いつもより疲れた身体を引きずるようにしてひとり寂しく帰路についた。
「……え? ……いや、あの」
「いいんですー。ぜひ、食べてくださいねっ」
「しかし――」
「いいんですってばー。田代先生と、瀬尋先生に……ぜひ食べていただきたいんです」
翌日の昼休み。
化学準備室で、俺と純也さんは多少困ったことになっていた。
教育実習生が、ひとりではないことはわかっている。
……だが。
世界史の教師として実習にきた彼女が、化学準備室に大量のサンドイッチを持ってくるという理由が、飲み込めないでいた。
「ともかくっ、たくさん食べてくださいねっ!」
きらっと大きな瞳を輝かせてウィンクをすると、短いスカートなのに、彼女はわざとかがんでから出て行った。
……うーん。
「……なんだったんだろうか今のは……」
「さぁ……」
中央のテーブルにどーんと置かれたバスケットには、いかにも手作りという雰囲気のサンドイッチがぎっしり。
さすがにふたりで食べ切れる量ではないので、ほかの先生方や篠崎先生にももちろん手伝ってもらおうと思ったのだが……。
「気に入られちゃいましたね」
「「え」」
純也さんとふたりでハモると、苦笑を浮かべた篠崎先生が続けた。
「彼女、俺と会ったときは何も言ってませんでしたし。きっと、おふたりのことが相当気に入ったんだと思いますよ」
「いや、でも――」
「ほら、おふたりとも先日のお昼は外食でしたし、ちょうどいいんじゃないですか?」
「……それはそれで問題が……」
「でも、きっとこれから実習中は続くと思います」
……はー。
こんなトコ、彼女に見られたら絶対いい顔するはずない。
それは、絵里ちゃんも同じだと思うが。
「……!」
――……マズい。
今日の化学も5時限目なので、この昼休み中に教科連絡でここに来るはず。
多分、俺だけじゃなくて純也さんまで食べていれば、絵里ちゃんに言うだろうし……うわ。
などと考えた途端、ノックの音が響いた。
「……きた」
ぽつりと漏らすも、いつも通りの彼女。
……なんてバッドタイミング。
内心汗をかきながらサンドイッチを積んだ本で隠すと、いつものように彼女が机にきた。
「先生、お昼はどうするんですか?」
「え!? ……いや、まだ……だけど」
「……よかった」
首を振ってぎこちない笑みを見せると、俺とは違って嬉しそうに彼女が笑った。
「はい。これ、お弁当……なんですけど。どうかなって思って」
「え、これ……俺に?」
「です。先生、いつも外食ですよね? 偏食は身体によくないですよ」
にっこりと笑って包みを机に置き、わずかに頬を染めてうつむく。
その姿は、多少照れているようで……ちょっと、いやかなりかわいい。
「……ちゃんと、作ったんですよ?」
「羽織ちゃんが?」
「はい。トマトは入れてませんから」
「……ありがとう」
本当に嬉しかった。
まさか、彼女がこんなふうに弁当を作ってきてくれるとは……夢? じゃないよな。
やばい、顔が緩む。
「あ、それと……無糖のアイスティー、です」
「うわ、ありがとう。……すげー嬉しい」
「ホントですか? よかった」
屈託なく微笑んだ彼女に何度も礼を言うと、恥ずかしそうに首を振った。
……その顔、たまんない。
かわいすぎて、どうにかなりそう。
思わずしげしげ見つめていたら、『今日の授業はなんですか?』といういつものセリフが聞こえてようやく我に返った。
「えーと、今回は篠崎先生に授業をしてもらうから。実験室で実験の考察ね」
「はーい。じゃあ、伝えておきますね」
「よろしく」
――……と、そのとき。
キィ、というドアが開く音のあとで、小さな声が聞こえた。
「あれ? 瀬尋先生、お弁当も食べるんですか?」
「……え?」
「っ……」
見れば、そこにいたのは篠崎先生。
俺の机にある弁当箱を見て、心底不思議そうな顔を見せた。
「……お弁当“も”……?」
「あ、羽織ちゃん。いや、瀬尋先生と田代先生ね、宮野先生にサンドイッチの差し入れもらったんだよ」
「…………え……?」
「いや、それは――……あ!?」
慌てて首を振るものの、彼女の表情は一変。
さっと弁当箱を手にして、こちらではなく篠崎先生に身体ごと向き直った。
「篠崎先生、お昼はどうされるんですか?」
「え? いや、コンビニで買ってこようかとは思ってるんだけど……」
「それじゃあ、これ食べていただけませんか? ……お口に合うかわかりませんけど……」
「なっ……!?」
……ち、ちょっと待て!
それは、俺に作ってきてくれた弁当じゃ――!?
だが、そんな抗議の視線をものともせずに、背中を向けたままの彼女の声は柔らかかった。
「これ、羽織ちゃんが作ったの?」
「はい。だから、ちょっと自信ないんですけど」
「いや、すごい嬉しいよ。ありがとう! いただきます」
「……よかった。じゃあ、お弁当箱は授業が終わったらいただきますね」
「うん、ありがとう。ごちそうさま」
「いいえっ。それじゃ、失礼します」
「あ、ちょっ……! 羽織ちゃん!?」
「……なんですか?」
「っ……」
………ものすごく不機嫌そう……というか、拗ねたような顔で振り返られ、喉が鳴った。
いや、だから、これは俺が悪いんじゃ――……ないだろ? ないよな?
「あの……さぁ。俺のは?」
「先生は、夕紀先生の手作りがあるんでしょ?」
「……だから、それは――」
「失礼します」
「あ!」
ふいっときびすを返したあとで、ドアを少し強めに閉めた彼女の足音がパタパタと遠のいていった。
……あーもー。マジかよ……。
思わず正面にいる純也さんを見ると、やはり同じように困った顔をしていた。
そう。
彼も、恐らく絵里ちゃんの心配をしているんだろう。
……そもそも俺たちが悪いんじゃないのに。
それとも、黙ってたから天罰なのか?
嬉しそうに弁当を広げる篠崎君を横目で見つつ、ため息を吐く。
……勘弁してくれ。
最愛の彼女の手作り弁当を、よその男に食べられる。
これは、かなりの精神的苦痛だと思うんだが。
「…………」
そうは言っても、まさにあとの祭り。
……ちくしょう。
マジで、勘弁してくれ。
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