「それでは、授業を始めます」
 いつもと雰囲気の違う授業に、生徒たちは興味津々といった顔を見せていた。
 自分は、実験室の後ろから授業を観ているワケだが、はっきり言っていい気分はしない。
 ……というのも、ちょうど羽織ちゃんと絵里ちゃんふたりの座る席のすぐ後ろだから……という場所柄。
 それこそ、すぐに手が届く距離。
 だが、相変わらず彼女は目を合わそうともしてくれず、明らかに怒っているのが見て取れた。
 ……それだけじゃない。
 俺の授業のときとは違って、どこか楽しそうに授業を聞いているような……。
 そしてそして、心なしか瞳も潤んでいるように……。
 …………はぁ。
 何度目かのため息をつくと、それに気付いたらしく絵里ちゃんがいたずらっぽくこちらを見た。
「センセ、実習生にお弁当もらったんだって?」
「……ほっといてくれ」
「いい身分よねー。せっかく、羽織楽しみにしてたのに」
「俺だって嬉しかったよ。……なのに、篠崎先生が代わりに弁当食ったんだよ? ショックと言わずになんと言う」
「えー? 普通、ほかの女からもらった弁当があるって聞いて、じゃあどうぞって渡せると思う? ……甘すぎ」
「……それはわかってるけど。でもな、自分のために作ってもらえた弁当をよその男が食べるトコ見てるのって、苦痛だよ?」
「それは自分が悪いんでしょ。……少し反省したほうがいいんじゃない?」
「……わかってる」
 ぼそぼそというやり取り――……をしていたら、羽織ちゃんがこちらを向いた。
「……あ」
 ……が。
 目が合った途端、あっさり逸らされる。
 ぷい、と。そんな音が聞こえた気も。
 あーもー、感じ悪いぞ。
 ……俺が悪いのか? 俺が。
 けど、なんの関係もない実習生がいきなり弁当作ってくるなんて思いもしないだろ? 普通。
 ……それとも、アレか。
 妬いてくれてる、とか?
 …………それは結構いいかも…………って、いやいやいや。やっぱり良くないって。
 なんか、うかうかしてると篠崎君と仲良くなりそうだし。
「はー……」
 もう、先日の合宿のような思いをするのは御免だ。
 などと考えながら授業を観ていると、後ろから見ているせいか、どの生徒も真剣に聞いているのがわかった。
 俺の授業のとき、こんなに真剣に聞いてたか?
 そんな思いがよぎり、多少つらい。
 ……それじゃなくても今週はいろいろあるせいで、ヘコんでるというのに。
 これで、今週末彼女が家にこないとか言い出した日には、来週ツブれてる。
 間違いなく。
 ……はぁ。
「…………」
 さっきから、ため息しか出てこないな。
 …………あーもー、勘弁してくれ。
 思わず本音が漏れそうになり、壁にもたれたまま自然と目を閉じる。
 ……たまんねぇな。
 いろいろありすぎて、精神的に疲れた。
「――……では、これで授業を終わりにします」
「きりーつ、れーい」
 ぎこちないながらも、懸命さが伝わってきた授業だった。
 むしろ、そんな緊張感が生徒たちに伝わって、いい具合になったのかもな。
 彼の1回目の授業が終わり、生徒たちが実験室をあとにする。
 見送ってから、俺も準備室に戻って実習ノートをつけ始めた――……のだが、ちょうどそこへノックした彼女が入ってきた。
「篠崎先生」
「あ、羽織ちゃん」
 ……はおりちゃん、ね。
 はー。
 それを言うのは、俺なんだけど。
 てか、第一に恩師のお嬢さんだからって、ちゃん付けでいいのか?
 …………なんて。
 自分をずいぶんと高い位置においておいて、よく言うよ。俺も。
 それでも、彼女の口からほかの教師の名前が出るのは寂しいモノで。
 いつも、ここに来るときは俺に用があってきてたのに。
 と同時に、ほかの男が彼女を自分と同じように呼ぶのが、なんとも嫌な気分だ。
「お弁当、すごくおいしかったよ。料理上手なんだね」
「喜んでもらえて嬉しいです」
「ホント、冗談抜きにおいしかった。俺も、羽織ちゃんみたいな彼女が欲しいな」
「……え?」
「俺、ひとり暮らしだから料理ってなかなかしなくて」
「それじゃあ、お昼はいつも買ってるんですか?」
「うん。それか、店屋物かな。今だけね。大学では学食メイン」
「そうなんですか。でも、それじゃあ栄養偏っちゃいますよ?」
「……んー、そうなんだけどね。まぁ、気をつけます」
「そうしてくださいね。では、失礼します」
「うん、ごちそうさま」
 さすがに『それじゃあ、これから作ってきましょうか?』などと言わなかったことが、せめてもの救いだと思うしかない。
 きっと、俺が同じことを言ったら、作ってきてくれるだろうし。
 ていうか、現に作ってきてくれたしな。
 …………とはいえ。
 やっぱり、いい気はしない。
 俺の前で、笑顔見せながらそんなに親しげに話すなよ。
 男だって嫉妬するって知らないのか?
 君の彼氏は、現に今ココでふたりのやり取りを見ながら、もやもやしてたっていうのに。
 嫉妬もすれば、独占欲も強い。
「…………」
 失礼します、と遠くで聞こえたあとで閉まったドアの音を聞き、仕方なく実習ノートに目を戻す。
 ――……だが。
 このときの俺はまだ、まさかこのあといろいろな“もしも”が本当になるなどとは、微塵も思っていなかった。

「……用事?」
「はい。だから、今週末は……泊まりに行けなくて……」
「なんで?」
「っ……だから、用事……です」
 ……用事用事って、いったいどんな用事だって聞いてるんだけど。俺は。
 俺と過ごすほかに、そんなに大事な用があるのか?
 しかも、会えないという割に、あまり寂しそうな顔というか、申し訳なさそうな顔をしてないな……。
 ――……ただ今、金曜の部活中。
 例のごとく、部員たちがそれぞれ帰り支度を始めたころ、今夜泊まりにこないかと持ちかけたんだが――てあんな返事を食らった始末。
「……俺が宮野先生の弁当食ったから怒ってる?」
「もぅ……それは、まぁ……いい気はしないですけど。でも、本当に用事があるんです」
「……そう? なら仕方ないけど」
 視線を落として彼女に呟くと、申し訳なさそうに頭を下げた。
 ……本当になるとは思わなかった。
 まさか、今週末いきなり彼女と過ごせなくなるとは。
 予知してたワケじゃなく、ただ単に『なったらツラい』と思っただけ。
 だが、それがまさに今現実になってしまって、自分の想像力を呪いたくなる。
 そりゃ、人が想像できることは実現可能なことだとは言うけどさ。
 こんなトコにまで反映してくれなくても、イイと思うぞ。
「わかった。いいよ、別に」
「……ごめんなさい」
「そんな顔しない。……じゃないと、連れて帰りたくなるだろ?」
「……うん……」
 寂しげに眉を寄せてうなずいた彼女に小さく微笑むと、もう1度謝ってから絵里ちゃんの元へ戻って行った。
 ……さて。
 それじゃあ、明日明後日は何をしようか。
 とりあえず車を洗って……あー、ガソリンもなかったな。
 あとは、久しぶりにエンジンルーム開けてもらうか。
 頬杖をつきながらペンをくるくる回して、週末の予定を埋めるべく頭を働かせる。
 彼女がいない週末は、体感時間がものすごく長い。
 だからこそ、昔とは違って、今では時間をいかに効率よく潰せるかばかりを考えるようになっていた。

 土曜の朝。
 いつもならば彼女が泊まりにきていて、今ごろはどこへ出かけようかなどと話している時間だ。
 それが――……。
「…………」
 静まり返ったリビングには、相変わらずニュースを読み上げるアナウンサーの声しか響いていない。
「……はぁ」
 用事、ね。
 まさか篠崎先生と一緒にいるようなことはないだろうからいいものの。
 週末にしか会えない身分だからこそ、ついどうしても我侭になる。
 それでも、家にいること自体がはばかれるため、天気もいいし洗車を兼ねて出かけることにした。
 車を走らせていつものセルフスタンドへ。
 珍しく空いてるな、なんて考えながら万札を入れて満タン給油。
「せっかくの休みなのに、ひとりっすか?」
「……いいだろ、別に。ほっとけ」
「えー。なんだー、先生やっぱ彼女いないんじゃん?」
 にやにやと話しかけてきたのは、冬瀬高の生徒だった。
 どうやら、ここでバイトをしているらしい。
「いろいろあるんだよ。大人の事情ってヤツ」
「嘘だー。……ま、先生も所詮俺たちと一緒ってことだよね」
「一緒にするな」
「またまたー。いいっていいって、そんな遠慮しないで」
 あはは、と笑っている彼を軽く睨み――……あ、そうだ。
「洗車、頼むな」
「お。いいっすよー。……え? ってことは、俺が運転していいの?」
「あのな。お前、動かせないだろ?」
「無理。半クラだっけ? そーゆーの知らないし。先生、今はオートマの時代だよ?」
「そういう時代だから、マニュアルがいいんだよ」
 苦笑して給油を終えてから、社員らしき青年に鍵を渡して頼む。
 ここは、つい最近セルフになったため、洗車機がセルフになっていない。
 昔はこればかりだったので、この待つ時間って俺は結構嫌いじゃないんだが。
「……ん?」
「先生、コーヒー飲む?」
「紅茶がいい」
「えー。贅沢だなー」
「じゃあいいよ、コーヒーで」
 にこにこ笑いながら中までついてきた生徒に苦笑を浮かべてうなずくと、カップに注いで持ってきてくれた。
 ……ほー。なかなか懸命じゃないか。
「……成績、色つけないぞ」
「あはは、わかってるってー。ほい、どーぞ」
「サンキュー」
 早速、受け取って口に含――……。
「っ……!? お前、これ……!」
「え? 先生コーヒー苦いから飲めないんじゃないの?」
「違う! 砂糖入れすぎだ!!」
「えー。ほら、甘いほうがいいかなと思って」
「……嫌がらせか」
「あはは、わかった?」
「減点」
「うわ、きたねー! 先生こそ、横暴じゃんか!」
「ったく。ほら、仕事に戻れって」
「へいへい」
 甘すぎるコーヒーをテーブルに置いて彼を見送り、スポーツ新聞を手にする。
 ……うー、口が甘い。
 記事を読みながら口元を押さえ、洗車が終わるのを待つ。
 すると、しばらく経ってから名前を呼ばれた。
「ありがとうございましたー」
 すっかりきれいになった愛車をしげしげと見てから、今度は家とは逆方面へ。
 ……あ、そういえば。
 愛車で思い出したが、先日こんな話をした覚えがあった。


ひとつ戻る  目次へ  次へ