「え……? っん!」
玄関を開けて中に入ると同時に、こちらを振り向かせて口を塞ぐ。
後ろ手に鍵を閉め、片手で彼女を抱き寄せたまま口づけを繰り返すと、徐々に後ろへ下がりながらそのまま玄関に腰を下ろした。
それに合わせて、こちらも姿勢を下げる。
冷たい床に手を付きながら、1度唇を離して再び。
ときおり漏れる彼女の声と口づけの濡れた音だけが、まだ明りのついていない我が家に響いた。
「……っ……ふ」
ちゅ、と小さく音を立てて唇を離すと、戸惑ったような……だが、明らかに先ほどまでとは違う彼女の顔があった。
何かを確かめるように瞳を合わせ、口づけたばかりの唇をうっすらと開く。
「……俺のせい?」
頬を撫でながら視線を合わせると、軽く眉を寄せてから瞳を逸らした。
……やっぱり。
「……そんな顔するなよ……」
たまらず抱きしめると、なんだかいつもよりずっと華奢な身体のような気がして仕方がない。
だからこそ、余計に不安に駆られる。
「……先生……」
ようやく回してくれた、両腕。
それで少しだけ安心できた。
彼女を促してリビングに向かい、部屋の明かりと暖房をつけてから、ソファに座って彼女を抱きしめる。
服越しに伝わってくる、温もり。
たまらなくほっとすることができて、思わず瞳を閉じた。
どちらも言葉を発しず、ただただ抱きしめるだけ。
……なんだが、それだけでも十分満たされる。
「どうして昨日は……キス……してくれなかったんですか?」
ぽつりぽつりとした言葉に瞳を開けて、真正面から捉える。
まだどこか不安そうな、瞳。
……そんな顔するな。
頬を撫でながら髪に触れると、相変わらず心地よく滑った。
「……昨日の帰り道、飲酒の取り締まりやってたんだよ」
「取り締まりって……警察の?」
意外そうな顔をした彼女にうなずき、言葉を続ける。
……笑うよな、きっと。
それよか、幻滅するかもしれない。
自分自身何を食べたのかよく覚えていないので、余計になんだか情けない。
「……で。酒臭くはないけど……匂うって言われてさ」
どうしたって、声が小さくなる。
ぼそっと呟いて俯くと、しばらくして微かな笑い声が聞こえた。
「……笑うと思った」
「だってぇ……じゃあ、それで……?」
「そうだよ、ああ、そうさ。だから、キスしたくてもできなかったんだよ」
ぷいっと顔を背けて拗ねた子どものようにまくしたてると、やっぱり同じように笑われた。
……そんなに笑うことないだろ。
俺にとっては重要な問題なんだ。
「……っ」
グレる寸前だったとき。
膝で立った彼女が抱きしめてくれた。
首に腕を巻きつけられ、ちょうど頬が彼女の胸に当たる高さ。
落ち着いた鼓動が聞こえると、自然にササクレ立った心が穏やかになる。
「もぉ……私、そんなことでキス嫌がったりしませんよ?」
「……でも、ヤだろ? 何臭いんだか知らないが、キスしてそんなことに気付かれるのは」
「先生だから、平気ですよ?」
「…………俺はよくない」
彼女の言葉は嬉しくもあったが、微妙に慰められてないような気が……。
今の俺の心が、荒くなっているせいか?
「……もぅ」
髪に感じる温かな手のひらの温もりに一瞬彼女を見ると、さっきとは打って変わって柔らかな笑みを浮かべていた。
それを見た途端、身体からヘンな力が抜ける。
……よかった。
笑みを見れたことで、本当の意味でようやくほっとする。
と同時に、これまで溜まっていた愚痴がつい漏れ始めた。
「だいたい、昨日はいろいろと嫌なことがありすぎたんだよ。朝から涼に起こされるわ、買い物行けば小さい子に『オジさん』呼ばわりされるわ――」
「そんなこと言われたんですか?」
髪に触れていた手が止まり、彼女が驚いたように声を漏らした。
あんまり思い出したくないんだけど……。
「…………言われた」
ぽつりと呟くと、再び彼女の手が動き出す。
撫でるように髪を滑り、そのたびに温もりが伝わってきた。
「ほかにも、何かあったんですか?」
「……車ぶつけられた」
「…………ですね。ほかにも?」
「急に学校に呼び出されて、羽織ちゃんと離れなきゃならなくなって、コーヒーこぼして仕事をやり直して、検問に捕まって……キスできなかった」
すっかり拗ねた子どものように呟くと、そのたびに彼女が髪を撫でてくれる。
……母親みたいだな。
つーか、俺が子どもなのか。
……まぁ、いいや。
こうしてもらってるのは、気持ちいい。
「それに……」
「それに?」
鮮明に思い出される、朝の夢。
今目の前にいる彼女が、コトの最中に言い出した強烈な一言。
じぃーっと顔を上げて瞳を見つめていると、不思議そうにまばたきを見せてから軽く首をかしげた。
「どうしたんですか?」
「……いや、なんでもない」
さすがに、これは言えない。
……言えばどうせ『えっち』とかなんとか言われるんだし。
再び彼女の胸元に頭をもたげて瞳を閉じると、ずいぶんすっきりしているのに気付いた。
……愚痴るつもり、なかったんだけどな……。
彼女にこうされると、どうしても甘えてしまう。
……むしろ、甘えてほしいのに。
そんな考えが湧き上がり、ため息が漏れた。
「ほかにはないですか?」
「……ん。もうない」
彼女の言葉で子どもみたいにうなずくと、髪に触れていた手を止めて――……。
「いたいのいたいの、とんでけー」
…………ちょっと待て。
ぐりぐりと頭を撫でて何を言い出すのかと思いきや、それ?
「俺は、別に――」
だが、次の言葉を言う前に視界が遮られた。
ぎゅっと形を変えて抱きしめられ、何も言えなくなってしまう。
「……痛かったんじゃないですか?」
「っ……」
いつもより大人しい声で、耳元に囁いた彼女。
しっかりと抱きしめられる格好で、思わず喉が鳴った。
わずかに身体を離して瞳を合わせ、柔らかい笑みを見せてくれる。
「ね? もう大丈夫ですよ」
屈託なく微笑まれ、思わず口が開いた。
呆然と言うよりは……なんていうんだろうな。
最高の慈しみを受けたっていうか。
とにかく、びっくりした。
いろんな意味で。
「……ちょっとは、元気……戻りました?」
じぃーっといつまでも見つめていたら、さすがにはにかんだ笑みを見せた。
「んー……まだダメ」
「えぇっ?」
ぎゅっとしがみつくように抱きつき、そのまま瞳を閉じる。
彼女の笑みが見れた、キスもできた……んだが。
彼女が許してくれるとわかると、とことん甘えてみたいわけで。
「もぅ……。確かに、いろいろありすぎたんですよね、昨日が」
「ん」
「……先生の好きなごはん、作りますね」
「んー……」
「まだ、ダメ?」
「うん」
即答するも、相変わらず髪を撫でてくれる。
うん、これは結構立ち直れるかもしれない。
「もぅ……元気出してください。ね? ……なんでも言うこと聞いてあげますから」
……ほう?
「……なんでも?」
「うん」
いつもは、こっちが頼んでも簡単に『うん』とは言ってくれない、申し出。
それを彼女自身がしてくれるとは……。
……ひょっとして、すごく気を遣わせてるのか? 俺は。
いや、もしかいたら心配されてるのかも。
そう考えると、若干……というか、結構心苦しい。
でもな……昨日起きた出来事は、俺にとって非常に予想外だったわけで。
んー……。
「……なんでも聞いてくれるわけ?」
「いいですよ。先生がそれで、元気になるなら……」
……ふむ。
そんな心配そうな顔で願ってもないことを言われると……そろそろ立ち直るかという気になる。
……いや、実際もう半分以上は復活してるんだけど。
…………まぁ……いいか。
ここまで彼女が言ってくれたというのに、敬意を表して。
というよりも、あんまり心配させすぎるのはちょっとかわいそうな気もするし。
さっきから慰めるように接してくれている彼女と瞳を合わせると、『ね?』とばかりに首をかしげた。
|