静かな室内に響く、ベルの音。
いつもと変わらず、先にそれを止めたのは絵里だった。
「……6時半」
思わずため息が漏れる。
毎度のことだが、寝るのが遅いせいか疲れが取れていない気がするから困る。
しかも、最近特に。
「……ねー、起きて」
ベッドに入ったまま伸びをしてから、毎度のように回された腕をベッドに払う。
力が入っていない分、非常に重い。
「純也ってば……ねぇ、起きてよー」
相変わらず気持ちよさそうな寝顔だ。
普段もそうだが、なんだか子どもみたいで少しおかしい。
「こらっ、起きなさいってば!」
「……ん……」
強く揺すってやると、ようやく反応を見せる。
毎朝こんな調子だからこそ、もう慣れた。
「くすぐっていい?」
「……勘弁してくれ」
「もー。起きてるんじゃないのよー。ほら、起きて」
くすくす笑ってやると、眠そうに目を擦りながら伸びをひとつして、小さくあくびした。
「……はよ」
「ん。起きた?」
「まぁ、そこそこ」
「そこそこでも、まぁいいけど」
くるっと純也へ向き直って微笑むと、彼が絵里の頬に手を伸ばす。
毎朝の日課。
起きたらキスをすること。
一緒に暮らしてからずっと変わらない、ふたりの朝はこうして始まる。
「……あれ? 牛乳は?」
冷蔵庫を覗きながら絵里がそれとなしに口にすると、リビングにいた純也が彼女を振り返った。
「もうないだろ?」
「ないって……なんで?」
「いや、俺飲んだし」
「はぁ!?」
さらっと答えると、絵里が眉を寄せた。
空のパックを見つけるやいなや、キッと純也を睨みながらリビングに向かう。
「ちょっと! 私が毎朝牛乳飲むの、知ってるでしょ!?」
「知ってるけど……いいだろ? ほら、学校の自販機にもあるし」
「そーゆー問題じゃないの! 大体、学校のとは味が違うのよ! 味が!! せっかく『至極上贅沢しぼりミルク』見つけて買ってきたのに!!」
「……なんだよ。たまには俺に飲ませてくれてもいいだろ?」
「けどっ!」
「大体、買いに行けば済むだろ? 朝からそんな怒鳴んなって」
小さくため息をついてからトーストに視線を戻すと、バターを塗って――……。
「こっの……!! そういう態度はないでしょうが! 馬鹿ぁ!!」
「あたっ」
純也へ向かって持っていた牛乳パックを投げつけると、軽い音とともに彼が声をあげた。
ころころと床に転がる牛乳パックを睨みつけてから、絵里はバッグを引っ掴むように玄関へ向かう。
ため息をついた純也が立ち上がって声をかけるものの、一向に振り返ろうとしない。
「……ったく。牛乳ひとつでそんなに怒らなくてもいいだろ? 待てよ。ちゃんと――」
「イヤ。もういい。ふんっ」
純也を一瞥してから靴を履き、絵里がぷいっと顔をそむけてドアに手をかける。
間違いなく、彼女はひとりで出て行くつもりだ。
「あ。おい、絵里!」
「お先に!」
彼を振り返らずにドアから身体を滑らせ、ひとあし先に学校へ向かう。
なんとも、腹の虫が納まらない。
こういうときは、羽織に愚痴って聞いてもらうのが1番いいのを知ってる。
「……はー……もー」
久しぶりにバス停まで向かうと、自然にため息が漏れた。
……朝っぱらから何をしているんだろう。
少し、反省はする。
素直になればいい、と言われたこともある。
素直になりたい、と言ったこともある。
別に、甘えるのがカッコ悪いと思っているわけじゃない。
自分が、弱い部分をさらけ出すのが嫌なわけでもない。
ただ……正直言って、どうしていいのかわからないだけ。
……果たして、自分に素直な部分なんてあるのだろうか。
ふと、そんな疑問が頭に浮かんだ。
「おはよー」
教室に入ると、目が合った子たちが声をかけてくれる。
そんな友人らに手を振ってから机に向かうと、羽織は珍しくすでに席へ着いていた。
「あ。おはよ、絵里」
「おはよ」
鞄を机に置いてから椅子に座ると、くすくすと羽織が苦笑を漏らす。
……何?
思わずそんな彼女を見ていると、小さく笑って口を開いた。
「また喧嘩したんでしょ」
「え」
思わず口が開いたのを見て、やっぱり、と呟いた彼女を見たままでいると、机から教科書を出しながら小さく笑う。
「え、ちょっと待って。なんでわかったの?」
「そりゃあ、18年来の付き合いですから」
「……そゆこと?」
「そゆこと」
相変わらず、鋭いなぁと感心する。
普段は結構鈍い面が目立つこともあるのに、こういうことに関してはやけに鋭さが見えるから……スゴイかも。
「今度は、なんで喧嘩したの?」
「……牛乳」
「あー。絵里、朝から牛乳飲む派だもんね」
「でしょ? 純也だってわかってるはずなのにさー。酷いと思わない?」
「そりゃ、まぁ……でも、先生だってわざとやったんじゃないんでしょ?」
「……そうだけど……」
「じゃあ、許してあげればいいのに」
「…………だって」
悔しかったから、つい声が出た。
純也がわざとやったんじゃないことは、わかってるんだけど……。
「早く仲直りしなよ?」
「……わかってるわよ」
苦笑を浮かべてうなずくと、くすくす笑いながら羽織もうなずいた。
と同時に担任の日永が祐恭を伴って教室に入って来たため、話はここで中断となる。
……羽織は喧嘩とかしないのかしら。
羽織と祐恭を見ていると、そんな疑問が思い浮かぶ。
だが、羽織が自分と同じように声を荒げる姿は想像がつかない。
……なんで喧嘩しないで済むんだろ。
窓の外を見ていると、天気がよくてそれはそれは気持ちよさそうだった。
朝から純也と喧嘩して、気分がいいはずはない。
だからこそ、ついついサボってしまいたくなる。
だが、そう思い浮かぶだけで、実際はそんなことできないのが悲しいところ。
「…………」
――……しかしながら。
これまでに1度だけ、授業をサボったことがある。
科目は、化学。
忘れたりするはずがない。
今から2年前、夏休み前のあの日のことを。
高校入試では、トップの成績だった。
そのことは、入学する前からわかっていた。
なぜならば、入学式に新入生代表の挨拶をすると決まっていたから。
……そりゃあ、成績がトップだったということが嬉しくないはずない。
だが、それは絵里にとってこれまでと何も変わらない、ありふれたことでしかなかった。
そのせいか、どうしても『またか』という想いもどこかにあったのだ。
「絵里ちゃんになりたいよー。頭がよくて、美人で。文句なんてないでしょ?」
「また、トップだったの? いいわねー」
「うちの子も、絵里ちゃんみたいだったらよかったのに」
友人も、その両親も、近所の人間も。
いつも自分をそう評価した。
『なんでもできる、手のかからない典型的ないい子』
そんなふうに位置づけられていたのだろう。
小学生のころ……いや、もっと小さいころから。
成長すればするほどに、周りの評価も高くなっていく。
将来は有名大学ねとか、有名企業ねとか。
周りにいる人間すべてが、自分をそんなふうに見ているんじゃないか。
そう思ったこともあった。
そのたびに愛想笑いを見せ、差しさわりない返事をするだけ。
本当の自分を知らないくせに。
どれだけ努力しているか、知らないくせに。
笑顔を見せながらそんなことを考えていたなんて、誰が知っているだろう。
唯一の救いは、家族が周りと違った評価をしてくれていたことだ。
勉強もスポーツも、何ひとつ両親に期待されたことも、求められたことも、強制されたこともなかった。
だからこそ、余計に周りの言う言葉が強く聞こえてしまう。
自分にとっての安らげる場所は、きっと家族がいる“家”だけ。
そう、思っていた。
――………そして、外での自分の居場所は、幼なじみである彼女の隣だけだ……と。
「おはよー」
「あ、おはよう」
入学式からしばらく経ち、環境が落ち着き始めた4月の中旬。
いつものように教室へ入ると、見慣れた顔がそこにあった。
「羽織、化学やってきた?」
「……それ、私に聞く?」
「あはは。ごめん」
昔から理数系が苦手な羽織。
先日の化学の授業で問題集の宿題を出されたのだが、案の定解けていない様子だった。
「しょうがないなー。絵里ちゃんが教えてあげよう」
「ホント!?」
「お昼、ジュースおごりね」
「……高い授業料ですこと」
「それくらい、おごりなさいよーっ」
「わかってるってばぁ」
屈託なく笑う羽織を見ていると、こちらもつい笑みが漏れる。
小さいころからの幼馴染で、自分とはタイプが違う彼女。
昔からいじめられっ子で、どちらかというと泣き虫で。
そんな羽織を見ていると、つい守りたくなってしまう。
彼女だけは自分のことを理解してくれていたから……かもしれない。
誰と比べるわけでもなく、私を“私”として見てくれていた。
勉強ができるようになったのも、スポーツが得意になったのも、私がどれだけがんばっているかを知っている。
ほかの子が手離しで『すごいね』って褒めるのを、いつも不思議そうにしていた。
『みんな、絵里ががんばってるの知らないのかな』
いつだったか、そう言われて驚いた。
そういえば、羽織とは一緒に逆上がりの練習なんかもしたんだよね。
だから、私が常に『がんばっている』のを知ってくれていたから、ただ何もせずできるような子じゃないと知ってくれていて、安心したのもある。
ただ、結果だけを見て知って出たような軽い言葉ではなく、そこに辿り着くまでの過程を知った上での言葉をかけてくれたから。
だからこそ、彼女と一緒にいると安心するんだろう。
昔から変わらない、独特の雰囲気。
羽織らしさ。
それが、私は好きだった。
「あ。そろそろ時間じゃない?」
「ホントだ。あ、今日の日付だと絵里が当たるんじゃないの?」
「……あー。そうかもね」
高校になると、教師がその日の気分で当てるというよりは、日付などの関連性がある数字で指され、回答を求められたりする。
今日は私の出席番号の日にちだから、恐らく真っ先に当てられるだろう。
「ま。余裕?」
「あはは。ですよねー。愚問でした」
「わかればよろしい」
くすくす笑いながら化学実験室に向かうと、途中でチャイムが響いた。
「「わっ!?」」
慌ててふたりで廊下を駆け、滑り込むように実験室に入る。
すると、まだそこに教師の姿はなかった。
「……セーフ」
「よかったぁ、間に合って。……あ、先生だ」
顔を見合わせて席に着くと、ほどなくして化学教師が姿を見せた。
田代純也、24歳。
今年、新任教員として冬瀬女子高等学校に赴任してきた、まだまだ新米教師である。
なんでも、大学院で学ぶべき修士課程を飛ばして、その上である博士課程を終えてからの赴任という噂。
いわゆる、キャリア組。
まだ学生らしさが残ってはいるけれど頭はいいらしく、時おり見せる真剣な眼差しにどこか親近感を覚えた。
「それじゃあ、この前の続きから。……あー、宿題の答え合わせでもしようか」
教科書をめくってから顔を上げ、問題集に持ち替えてから背を正す。
意外と高い身長。
低めの声。
そして、顔立ちだって悪くない。
そのお陰か、学歴がある割にはとっつき易い、と生徒たちの評判も良かった。
自分としても、まぁ、別に悪い印象は持っていない。
――……少なくとも、この授業まではそうだった。
「じゃあ、今日は……えーと、皆瀬」
「はい」
出席簿を見てから名前を呼ぶと同時に顔を上げた純也と、一瞬目が合った。
うん。割といい男。
「じゃ、答え。えーと、5問までよろしく」
にっと笑みを返されて思わず言葉に詰まるものの、小さく咳払いをしてから答えを読みあげていく。
シンと静まった室内に響く、自分の声。
5問までつかえることなく読み終えると、純也が声をかけた。
「ありがとう。ただ、4問目の答えは『気体』だな。あとは正解」
「あ、すみません……」
「いや。……しかし、新入生代表らしくないな。がんばれよ」
……何?
彼の言葉で、思わず手に力がこもる。
「……皆瀬?」
不思議そうな顔をした純也から外した視線を再び合わせ、瞳を細める。
……やっぱり同じ。
どうせ教師なんて、みんな同じか。
一体、アンタに私の何がわかるっていうの?
何も知らない、たかがイチ教師のクセして。
「…………」
小さく唇をかんでから席に着くと、少し間を開けてから彼が次の子を呼んだ。
「絵里?」
「……最低ね。あの教師」
少し心配そうな羽織にぽつりと漏らすと、彼女も純也を振り向く。
……最悪。
きっと、私の中で彼に対する評価は、絶対に上がったりしない。
抱き始めていた憧れのような物も、この日この瞬間できっぱりと断ち切った。
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