正直言うと、皆瀬絵里の第一印象はよかった。
入学式で新入生代表の挨拶をしたときは、しっかりしてそうだし、真面目そうだし。
16歳という年齢よりもずっと大人びて見え、きれいな子だとも思った。
授業も真面目に受けていたし、成績トップ入学者らしく出来もよかった。
――……だが。
初めて彼女を指名して、問題の答えを言わせたあの日。
意外にも1問間違っていた。
「新入生代表らしくないな。がんばれよ」
成績優秀で入った子にしては珍しいと、つい出た言葉。
だが、その瞬間彼女の表情が明らかに変わった。
これまでは、入学したてという感じの初々しいものだった顔。
それが、急に敵対するような鋭い眼差しに変わったのだ。
それ以降――……彼女と視線が合うことは、まずなかった。
授業中もほとんどこちらを向いていないし、授業をきちんと聞いているのかどうかも正直いって汲み取れない状況。
授業の回数こそ進むものの彼女の態度は一向に変わらず、明らかに自分を避けているようにも見えた。
……何か悪いこと言ったかな。
授業を終えるたびにそう考えるのだが、初めて彼女を指名して以来言葉を交わしたこともない。
だからこそ、余計に彼女の態度が気にかかっていた。
――……そんなときだ。
たまたま廊下で見かけたのを機に、声をかけてみたのは。
「皆瀬」
こちらに背を向けていた彼女へ声をかけると、足を止めてから小さく振り向いた。
だが、その顔は相変わらず歓迎してくれてはないようだ。
『あんたみたいな教師が、なんの用だ』
まるでそう言われているようで、つい苦笑が浮かぶ。
声をかければ大抵の生徒が笑顔で迎えてくれる中、彼女だけは相変わらず射すくめるような鋭い視線。
だからこそ、つい言葉に詰まる。
「……もぅ。絵里、そんな顔しないの!」
皆瀬に眉を寄せて声をかけたのは、同じクラスの瀬那羽織。
皆瀬とは違いまだ幼さの残る顔立ちで、声をかければ、いつも笑顔で答えてくれる生徒のひとりだ。
「すみません、先生。なんか、絵里機嫌が悪いみたいで……」
「あ、いや。……ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
「なんですか?」
思わず喉が鳴った。
本当に16か? と思わされる、雰囲気。
その顔立ちは、相変わらずキレイで。
鋭い視線すらも、似合っているようにさえ感じた。
「いや、ちょっと話が――」
「ここでどうぞ」
まったく表情を変えずに返され、小さくため息を漏らしてから背を正す。
……俺も随分と嫌われたもんだな。
「俺、何か悪いことしたか?」
ヘンな質問だということは、よーくわかってる。
だが、意外にも彼女はその言葉を聞いた途端に瞳を細めた。
それはそれは、心底嫌そうな顔をして。
「別に。先生もほかの大人と一緒だったってだけですよ」
「え? ……っと、ちょっとわからないんだが」
「……結局、先生だって私のことうわべでしか見てない大人ってこと。期待して損した。以上」
吐き捨てるようにそれだけ呟き、くるっと背を向けて瀬那の手を取り廊下を歩いて行ってしまった彼女。
「……ほぉ」
その後ろ姿を見ながら、思わずため息が漏れた。
『諦め』、からじゃない。
むしろ、『感嘆』から。
初めて……だと思う。
女相手に、何も言葉を返すことができなかったのは。
昔から、素行がいいほかの教師とは違い、どちらかというと異色だと自負していた。
だからこそ、相手が男ならばもちろん、女相手ならば負けることなく生きてきた。
……なのに、である。
たかが16年しか生きていない子ども。
しかも、女子高生に対して何も言葉が出てこなかったのだ。
これは、ある意味結構な屈辱であるとも言える。
……昔の俺を知ってる奴らが聞いたら、笑い死ぬな。
ふとそんなことが頭に浮かび、思わずため息が漏れた。
今度は、『情けなさ』から。
「それじゃあ、それぞれ気をつけて行動するようにねー」
「はぁーい」
5月の上旬。
毎年恒例の遠足が行われた。
場所は、八景島シーパラダイス。
どこに行きたいかをクラスで話し合ってそれぞれ場所を決めるのだが、我らが1年2組はここにしたのだった。
「ほら、羽織! 行くわよー!」
「あ、待ってよー」
チケットを手にして早速班ごとに水族館へと入って行くと、広々とした館内が心地良かった。
徐々に蒸し暑くなってきている、この時期。
クーラーがしっかり完備されている薄暗い館内は、より過ごしやすいような気がした。
「うーわー。見てよ! すごーい」
大きな水槽にへばりつくように見ると、自分と同じように目を輝かせて羽織が大きくうなずいた。
相変わらず、こういうところは彼女らしいと思う。
自分の気持ちに、素直に行動する。
ある意味、見習わなければならない部分だ。
「あ、ねぇ。ペンギンいるってー!」
「ホント? 行こっ!!」
「うん!」
班の子に急かされるようにそちらへ向かうと、途中で田代純也の姿が目に入った。
でも、あえて声をかけるようなことはもちろんしない。
憧れなんて、あのとき捨てた。
――……彼が、ほかの大人と変わらない身勝手な発言をしたときに。
「あはは、かわいいーっ!」
ぴこぴこと歩くペンギンや、水槽の中を自由自在に泳ぐペンギン。
動きがとてもかわいらしくて、ついつい声が漏れる。
単に、周りが勝手に『嫌いだよね?』と余計なお節介を働かせるだけで、私自身は水族館も遊園地も好きだった。
幼いころから忙しかった両親にねだっては、よく連れて来てもらった覚えもある。
見た目が大人びているせいか、勝手に決め付けられてしまうことが多い人生。
あれは好き、これは嫌い。
それは自分が判断するのに……なんで他人に決められなきゃいけないの? と、幼いころから不服だった。
「ねえ、羽織。あのペンギンってなんだっけ?」
水槽を指差したままで呟くものの、返事がない。
「……羽織?」
「イワトビペンギンだよ」
「っ……!」
代わりに聞こえたのは、期待外れの声だった。
……田代純也。
名前がすぐに浮かぶ自分が、少し気に入らない。
「……先生には聞いてませんけど」
振り返らずに呟くと、小さく笑う声が聞こえた。
「なっ……!」
「いや、ごめん。皆瀬って、イワトビペンギンみたいだよなぁ」
「……は……?」
眉を寄せて彼を見ると、隣に立って水槽を眺めた。
こうして並ぶと、自分よりずっと背が高いのがわかる。
自分とて、身長が低いわけではない。
なんだけど……こう、なんていうか。
正直言って、視線が合うたびに見下ろされるのは、昔から好きじゃないのよね。
自分がよく思っていない相手ならば、なおさらのこと。
「イワトビペンギンってさ、自分のテリトリーに入ってきた侵入者を、全力でぶっ倒すんだよ」
「……だから、なんですか?」
「いや、皆瀬に似てるなぁと思って」
「……最悪」
なんてことを言う教師だろう。
普通、冗談でも教え子にそんなこと言わないでしょ。
でも、思わず笑ってしまった自分にも気付いた。
「……やっと笑った」
「っ……」
途端、彼が小さく笑った。
弾かれるように顔を上げると、これまで見たこともないような優しい顔をしていた。
「なんでそんなに怒ってんだ? 疲れるだろ? そんな顔してたら」
「……別に……」
「俺、何かしたか?」
彼の言葉で俯くと、いきなり頭を撫でられた。
反射的に顔が上がり、手で彼の腕を振り払う。
「ちょっ……! 子こども扱いしないで!」
「何言ってんだよ。まだまだ子どもだろ? そもそも、俺にとってはたった1歳年下だろうと、子どもだなーって思うよ」
「……は……はぁ?」
「だいたい、そういう考えすること自体が子どもだって気づいてないだろ。なんで怒ってんだか知らないけどな、いつまでもンな顔してるとそういう顔になっちまうぞ?」
「っ……な……んなのよ、いったい」
眉間にわざと皺を寄せて呟いた彼に眉を寄せると、くすくす笑いながら水槽に視線を戻した。
……初めてかもしれない。
親以外の人間に、子ども扱いされたのなんて。
「…………」
これまで『なんでもできるいい子』という印象を持たれてきた、自分。
だからこそ、あえて子ども扱いするような人間はこれまで身近にいなかった。
そのせいか……少し、彼に対しての印象が変わり始めたように思い、慌てて否定する。
――……だが。
「先生が悪いんじゃない」
「……俺?」
「そう。先生」
驚いたように瞳を丸くした彼に大きくうなずくと、訳がわからないといった顔で軽く頭をかく。
……ったく。
何も知らないくせに、言ってくれるんだから。
「先生も、私のこと『なんでもできるいい子』扱いしたでしょ? ……何も知らないくせに」
ふいっと顔を逸らすと、ペンギンが水槽に飛び込むのが見えた。
水しぶきがガラスにかかり、反射的に瞳を閉じてしまう。
すると、おかしそうに彼が声をあげて笑った。
「お前、そんなこと気にしてたのか?」
「んなっ……!? そんな、笑うこと――」
「ったく、ガキだなー。あんなん、社交辞令に決まってんだろ?」
「しゃ……社交辞令ぃ?」
水槽にもたれながらさもおかしそうに笑う彼を睨みつけると、散々爆笑したあげくに目元を軽く拭った。
何、この人。
なんか、すんごい感じ悪いんだけどどうしたらいいのかしら。
「ちょっ……何よそれ! そんなもの、知らないし!」
「参ったな、こりゃ。面白いなー、お前」
「ッ……ちょっと! お前お前ってねぇ、失礼でしょ! 私はそんな名前じゃないわよ!!」
「あ、そっか。ごめん。……いや、でもなぁ皆瀬」
「何よ!!」
自分のことを、この16年間生きてきて初めて『お前』呼ばわりした彼を睨むと、いきなり表情を柔らかくさせた。
その変化に思わず『う』と戸惑い、唇が尖る。
「もうちょっと、肩の力抜いて生きれば?」
「……はぁ?」
「そんな生き方、疲れるぞ。所詮、教師は教師なんだよ。何を求めるんだ? 皆瀬は」
「……っ……」
思いもしなかった言葉に、思わず面食らう。
すると、彼が苦く笑った。
「人間、ひとりじゃ生きていけない。じゃあ、周りの人間に何を求める? 自分のことを理解してほしいのか? それとも自分に都合よく動いてくれれば、それで満足か?」
「……それは……」
「別に、いいだろ? たとえ、この先自分の人生に深く関わってこないような多くの他人になんて言われようと。たったひとりでも、自分を理解してくれてる人間がそばにいてくれれば」
「…………」
目の前にいるのは、堅物で真面目腐った教師でもなんでもない。
笑みを浮かべて、柔らかく話す少し軽そうな教師。
――……だけど。
これまで出会ったどの大人の言葉よりも、ずっと深く身体に入ってきた。
「お前のそばには、そういう人間がいるんじゃないのか?」
「……え?」
「あ、絵里っ!」
聞き慣れた声で振り返ると、心配そうな羽織が息を切らせて走り寄ってきた。
「もぉ! 心配したんだよっ!? どこ行ってたの?」
「どこって……え、ずっとここにいたけど」
「えぇ!? ……うそ、私、てっきり先に行っちゃったんだと思って……」
心底ほっとした顔の羽織に、思わず顔が緩む。
自分の居場所。
それを確立してくれている、彼女。
……何よ、たまにはいいこと言うじゃない。
初めて言われたことに、思わず笑みが浮かぶ――……ものの。
「あ、田代先生と仲直りできたの?」
「「……は?」」
不思議そうな羽織の言葉に、思わず彼とハモる。
すると、おかしそうに羽織が笑い出した。
「ちょっ……! 羽織っ!」
「あはは、ごめーん。だって、ふたりとも同じ顔してるんだもんー」
「え」
「な」
思わず彼の顔を見ると……確かに、同じような顔をしていた。
困ったような、呆れたようなそんな顔。
……似てるって……この人とぉ!?
「じっ……冗談じゃないわよっ! 誰がこんなヘボ教師と!!」
「な!? お前なぁ! 教師に向かってヘボとはなんだ、ヘボとは!!」
「だってそうでしょ!? 教え子に向かって、散々な言葉遣ってたじゃない!」
「あれはお前が悪いんだろうが!!」
「だからッ! 私はお前じゃないって言ってるでしょ!?」
喧々囂々とまくし立てて彼を睨んでいると、再びおかしそうな羽織の笑い声が聞こえた。
「ちょっと! 羽織!!」
「だ、だって! 絵里ってば……あはは、おかしー!! 田代先生のムキになるところなんて、初めて見たー」
「っ……いや、それは……だなぁ」
「あはは、ふたりともそっくりー! あー、苦しいー!」
「……ったくもー……」
あまりにもおかしそうに笑われたから腹が立ったわけじゃない。
もしかしたら、少し嬉しくて……その照れ隠しだったのかも。
彼に背を向けて羽織へ手を伸ばし、両頬をむにむにとつまんでやる。
相変わらず柔らかくて気持ちいいわね、あんたの頬は。
「こら! 羽織!」
「むぁっ!? ご、ごめんにゃひゃいー」
「許しませんっ!」
「きゃーー! ごめんってばぁー!!」
ぺいっと手を払って駆けていく羽織を追いかけて、その場をあとにする。
その途中でふと振り返ると、おかしそうに笑う彼の姿が見えた。
……ヘンな教師。
彼に対する嫌悪感は薄れ、今ではどちらかというと好奇心にも似た興味が湧き始めていた。
ほかの教師とも、ほかの大人とも違う……今まで自分の周りにいなかったタイプ。
「ヘンな男」
ぽつりと漏らしたその顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
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