「そこ、字が違います」
きょとんとした顔の彼にシャーペンで黒板を指差すと、1度振り返ってから苦く笑みを浮かべた。
「……これはどーも」
「どーいたしまして」
にっこりと笑みを見せると、向き直って正しく字を直す。
……ったく。
しっかりしてよね。
そりゃあわかるわよ?
今日は金曜日だから、気が緩むってことくらい。
……ねぇ? 祐恭先生。
頬杖をついてにやっと笑うと、気付いたらしく小さく咳払いをした。
あはは。
どうやら、私の考えていたことに気付いたみたい。
……って。
「あんたね……」
「え?」
ふと横を見ると、羽織がノートを書き直しながら再び正面に真剣な瞳を向けていた。
「書いてて気付きなさいよ」
「……あー、ごめん。つい」
小さくツッコミを入れると、苦笑交じりに小さく舌を見せた。
……ったく。
「そんなに、今夜彼氏の家に行けるのが嬉しい?」
「え」
「違うの? ……ずっと見とれてるクセに」
「っ……絵里ぃ……」
つんつんとシャーペンのノック部で腕をつつくと、困ったように羽織が眉を寄せた。
でも、照れてるのは十分にわかる。
だって、ほっぺた赤いんだもん。
相変わらず、からかい甲斐があって楽しい。
そんな彼女も、今では……あそこで真面目に授業やってる教師が彼氏なんだけど。
まさか、お互いに彼氏が教師っていう職業の人になるなんて、考えてもいなかった。
昔から、そりゃあ好みは似てた……ような気はするけれど、何も仕事がカブらなくてもねぇ。
……ま、いいけど。
「…………」
だけど、ちょっと羽織は羨ましい……のよね。
羽織に言わせれば、きっと私のほうが羨ましいって言われると思うけど。
でも――……。
「じゃあ、今日はここまで。次回はこの続きやるから、問題集忘れないように」
チャイムの音と同時に祐恭先生が授業を切り上げると、数名の生徒が立ち上がった。
そのまま向かうのは――……やはり彼の元。
中には教科書を持ってる子もいるから、まぁみんながみんな単に喋りたいだけじゃないと思うけど。
……それにしても。
「いいの? 羽織は行かなくて」
「え?」
消しゴムの屑を集めて指でつまみ、ご丁寧にゴミ箱へ。
……相変わらず、律儀っていうか、なんていうか。
「そんな事してる場合じゃないでしょ! いいの? あんなふうにへらへらしてる先生見てて」
びしっと彼を指差すと、1度そちらを見たものの……おかしそうに笑ってから大きくうなずいた。
えぇ……? なんでよ。
「いいよ、別に。だってそんな……ねぇ?」
「ねぇ、じゃないでしょ。気にならないの? 何話してるか、とか」
「んー……特には……。それに、先生すぐに準備室行っちゃうよ?」
「……え?」
羽織の言葉に瞳を丸くすると……ほどなくして、教室の前から声があがった。
そちらに視線を移すと、苦笑を浮かべながら生徒たちに手を振って……準備室へ消える彼の姿。
「……ありゃ」
「ね? 先生、いつもそうだもん」
……さすが。
彼に関しては抜け目ないというか、目ざといというか。
「……さすがは、彼女ねぇ」
「そんな……。関係ないよ?」
「いいって、いいってー」
くすくす笑いながら、互いに立ち上がってドアへ向う。
……やっぱり、“彼女”なんだなぁ。
「ん?」
実験室をあとにしようと、ドアを開けたとき。
ちょうど、純也が準備室のドアを開けようとしていた。
「あれ。なんだ、まだいたのか?」
「……まだって何よ。今、授業終わったばっかり」
「あ、そ」
ったく。
そんなに早く移動する必要ないでしょ?
まだ休み時間なんだし。
……って、あれ?
「何? それ」
「ん? ああ、目ざといなお前。もらったんだよ。食うか?」
純也の手にあったのは、紅葉饅頭と書かれた箱だった。
……ってことは、誰かのお土産か。
「うん。食べる」
「言うと思った。羽織ちゃんも、祐恭君ひと箱貰ってるから」
「そうなんですか?」
「うん。渋い顔してるから、食べてやって」
「あはは。わかりました」
純也も甘い物好きじゃないけど、祐恭先生ってもっと苦手な感じがする。
でも貰うってことは、羽織が喜ぶのを知ってるからっていうのもあると思うけど。
……まぁ、そう簡単に人様のお土産を無碍にできないわよね。
「んじゃ、またね」
「おー」
「失礼します」
純也にうなずいた羽織を促して、教室に向かうまでの道中。
先ほどのことが、頭に浮かんだ。
……ちょっと聞いてみるか。
「羽織はさぁ……」
「ん?」
くりっとした瞳に、一瞬次が出てこない。
……でも、やっぱり……ちょっと気になるし。
「週末に先生に会うでしょ? それって、やっぱ……楽しいわよね」
「うん。……そりゃあ、ね?」
心底嬉しそうに笑った羽織に、ついこちらも笑みが漏れた。
今現在、彼女が幸せな証拠。
それを見ることができて、安心したというのもある。
……まぁ、羽織泣かせたら承知しないけど。
「……それってね、ちょっと羨ましいんだ」
「え?」
不思議そうな顔をした彼女に苦笑を返すと、自然に視線が落ちた。
「私は、ずっと純也と一緒に暮らしてるでしょ? だから、会えない寂しさとか、待つ楽しみとか……そういうのってずっと体験してないから」
両親が外国へ行くことになったときから、純也と一緒に暮らし始めた。
それはもちろん嬉しかったし、やっぱりいつも一緒にいられるのは楽しいけれど……。
でも、羽織を見てると、ちょっと不謹慎かもしれないけれど羨ましくなる。
デートができるどきどき感とか、しばらく味わってないし。
「んー……私は絵里のほうが羨ましいけどなぁ」
「ま、羽織はそうよね。たまにしか会えない分、一緒にいられる私がこんなこと言うのは、ないものねだりなんだけど」
「ううん、そんなことないよ。絵里の気持ち、ちょっとわかるから」
「……え?」
苦笑を見せると、羽織が慌てて首を振った。
……わかる? 私の、こんなワガママが?
何度かまばたきを見せて彼女を見ると、大きくうなずいてから口を開いた。
「だって、待つ楽しみっていうのもあるじゃない? あと何日、あと何時間……って。そういうドキドキって、やっぱりいいよね」
「……羽織」
自分が予想しなかった答え。
だって、羽織にとっては贅沢すぎる悩みのはずだから。
それなのに、この子は笑顔でうなずいた。
……相変わらず、大きな心持ってるなぁって感心しちゃう。
と同時に、やっぱり有難かった。
「もー。絵里もかわいいところあるんだから」
「かっ……! ちょ、ちょっと。いいのよ、別に私のことは! それに――」
「いいってば、そんな照れたりしなくても。……あ、そうだ。それじゃあ、明日ふたりでデートしたら?」
「……デート……?」
「うん。待ち合わせしての、デート。映画見るとか、買い物するとか」
「……デート……ねぇ」
久しぶりにそんな言葉を聞いた。
羽織たちには、買い物に行くのもデートの一種だと思う。
けど、私たちは生活の一環になっているわけで。
……デートか。
「……でも、一緒の家に住んでるのよ?」
「関係ないよー、そんな。大事なのは、気持ちでしょ?」
「気持ち……ねぇ」
「うん」
なんとなく、ままごとっぽい匂いがする。
でも、ちょっとそれは面白そうな気がした。
だって、デートなんてするの……いつ振りだろう。
そりゃあ、一緒に買い物したり映画見たりっていうのはあるけれど、それはデートとはちょっと違う気がする。
だいたい、待ち合わせなんてしないし。
……ふむ。
「なかなかイイ提案かも」
「ホント? じゃあ、明日はかわいい格好して、先生に褒めてもらいなよー」
「……かわいい格好って、あんたね……」
ぽん、と手を打った羽織に、思わず苦笑が漏れる。
なんか、ものすごく楽しそうね。
……ひょっとして、ちょっと遊ばれてる? 私。
「あ。ほら、急がないと授業始まっちゃう!」
渡り廊下の途中で足を止めたまま話し込んでいたので、チャイムが大きく響いた。
次は……日永先生の授業だ。
「マズい! 羽織、急ぐわよ!」
「あ、待って!」
ぐいっと手を引いて小走りに教室に向かうと、ちょうど職員室のほうから歩いてきていた日永先生と出くわした。
「こーら。チャイム鳴ったわよ?」
「すみません!」
「ごめんなさいっ」
くすくす笑う彼女の前に教室へ入り、互いに席へ滑り込むように着く。
すぐに委員長の号令がかかり、本日最後の授業が始まった。
慌てて教科書とノート、そして辞書を並べる。
……でも……デートか。
羽織の提案に、ちょっと楽しみにしている自分がいた。
明日何を着ようとか、どこに行こう、とか。
……あ、せっかくだし待ち合わせもしたほうが楽しいかも。
久しぶりの出来事に、思わず笑みが漏れた。
……あとは、肝心の純也がこれを聞いてどういう反応を見せるか、だけど。
ま、問答無用で実行するわよ。もちろん。
ここまで盛り上がっているのに――……そりゃ私独りで、だけど。
でも、せっかくなのに実現できないのは、寂しい。
……笑うかもね。
いろいろと純也の反応が出てきて心が足踏んでしまうが、まぁ、いいとしよう。
絶対、やる。
やるとなったら、実行あるのみ。
黒板に書かれて行く万葉集の句を見ながら、自然に笑みが漏れた。
「……でぇと?」
「そ。ねぇ、面白いと思わない?」
夕食のアジフライをつまみながら笑みを見せてやったのに、渋い、しぶーい表情。
……なんなのよ。
もうちょっと、愛想のある顔できないわけ?
「……なんでまた、そんなことを……」
「いいじゃない。ダメ? ……何よ、イヤなの?」
「……イヤとか、そういうんじゃないけどな……」
「じゃあ、いいでしょ? 明日は、デート。服も見たいし、映画もいいよねー」
「でも、それって普通の休日と変わんねぇだろ?」
「だからっ! 気持ちが大事なのよ、心意気!!」
「……心意気って、お前なぁ」
「いいからっ! 行くの? 行かないの? どっちよ。はっきりして!」
眉を寄せて純也を見ると、相変わらず怪訝そうな顔のまま箸を置いた。
「別にいいけど。……で? どうすればいいんだよ」
「……そうね。じゃあ、駅前で待ち合わせする?」
「駅!?」
「うん。デートっぽいでしょ?」
アジフライの尻尾をつまんでお皿に置くと、純也が小さくため息をついた。
……?
私、別におかしいこと言ってないけど。
「……あそこまでお前、どうやって行くんだよ」
「バス」
「わざわざ金遣う必要ないだろ?」
「いいのっ! だから、気分が――」
「別に、下で待ち合わせればいいじゃねぇか」
「それじゃ、デートにならないでしょ!」
「なんでだよ。大事なのは気分なんだろ?」
「……う」
そ、そう言われると何も言い返せなくなるんだけど。
……むぅ。
「……わかった」
「ん。で、明日はどこ行くんだ?」
「だからっ! それは明日決めるの!」
「……あ、そ」
「ったくー」
乙女心ってのが、まったくわかっちゃいない。
デートなんだから、今日の間にあれこれ予定立てちゃったら面白くないじゃないのよっ。
空いた食器を重ねて立ち上がると、純也と目が合った。
「ん? 何?」
「……別に」
「何よ。気になるでしょ?」
「なんでもねぇって」
またそーやって、内緒にするわけ?
こっちは、ものすごーく気になるのに。
まぁ、いいけどっ。
どーせロクでもないこと言われるんだから。
「……ふ」
シンクに食器を置いて水を張ると、自然に笑みが漏れる。
……デートか。
ちょっと、楽しみよね。
あ。今日は、早く寝なくちゃ。
なんてったって、明日はデートなんだから。
そんなことを考えながらスポンジを泡立てて握り、とっととあと片付けをしてしまうことにした。
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