いよいよ月曜からは期末テストという、金曜日の化学の授業。
今日は絵里のいるクラスも授業があるため、気が重かった。
「…………」
あの日以来、やはり彼女が姿を見せることはなくなった。
あれだけ騒がしかった昼休みの準備室も、それが普通のはずなのに、なんとなく違う物のようにさえ感じるから不思議だ。
「……ふー」
授業を始めるチャイムが響き、いつまでも自分の机にいるわけにもいかず重い腰を上げて実験室に向かう。
すると、ざわついていた生徒たちが嫌でも目に入ってまたため息が漏れた。
……もう、クセみたいなもんだな。
どうしたって、つい探してしまう絵里の姿。
――……が。
「あれ?」
いつもある場所に、彼女の姿がない。
ぽっかりと空いた空間が、やけに目立っている。
「…………」
しばらくそこを見ていたら、自然に彼女の隣の席に座っている瀬那と目が合った。
何も言ってないのに、ふいっと気まずそうにそらされる。
……さては、サボりか。
確かに、気持ちがわからないでもない。
好きだと告げた男にフラれても平気な顔をして授業に出れるほど、彼女は強くなかったのだろう。
「皆瀬は?」
「っ……ええと……」
瀬那に歩み寄って声をかけると、気まずそうに視線を落とした。
別に強く聞くつもりはなかったのだが、気になったんだからしょうがない。
「……多分、屋上です」
「屋上?」
小さく呟いた彼女へおうむ返しに訊ねると、こくんとうなずいた。
屋上……って、確か立入禁止だったよな。
まぁ、あの子ならばなんの躊躇もなく鍵を開けて忍び込みそうだけど。
「あー、静かに。……それじゃ、各自自習なー」
1番前にある教員用の実験テーブルまで戻ってから、ざわついていた生徒たちに声をかけ、自分も冊子を広げる。
先日発表された、新しい化学に関する定義の論文だ。
学会へ行ったとき、教授からもらってきたもの……なの、だが。
「…………」
いくら読み進めても、一向に頭に入ってこなかった。
……まさか、自殺とかしないよな……。
って、何考えてんだ俺は。
馬鹿馬鹿しい。
ンなワケ――……。
…………。
……って、自殺ぅ!?
「ッ……!」
ガッタン、と大きく音を立てて椅子から立ち上がってしまい、一斉に生徒たちがこちらを向いた。
「……あ、いや。ごめん」
苦笑を浮かべて椅子を戻し――……はしたものの、つい、そのまま実験室を抜け出していた。
まさか、自分にフラれたのを苦に自殺なんて……考えられないことだが、いやしかし。
人間、時として危うい思考を働かせることも――……。
うわー!? マジか!!
死んだりするなよ、皆瀬!!
転びそうになりながら階段を駆け上がり、そのまま2号館の屋上を目指す。
屋上への階段があるのは、2号館だけ。
というか、俺だったらこの場所を選ぶ、というだけのまさに勘だった。
ノブをもどかしく開け、慌てて屋上に出る――……と。
「ッ……!!」
目の前のフェンスに腰かけている、絵里の後ろ姿が見えた。
「死ぬなーーー!!」
「きゃーーー!!?」
慌てて彼女を抱きしめて踏み止まらせると、驚いて叫んだ拍子に、迷うことなくこちらへ体重をかけた。
「うわ!?」
途端、支えきれずその場に崩れる。
「……いてぇ……」
「なっ……!? た、田代先生! 何してんの、こんな所で!」
「……ちょっ……どけって、苦しい!」
「あ、ごめん」
胸の上に座った彼女を手で払うと、大して悪びれた様子もなくひらりと降りた。
……お、重いんだよお前は!
「ったく……! 何も俺にフラれたくらいで、死ななくてもいいだろ!」
「……はぁ?」
「…………あれ? 違うのか?」
「馬鹿じゃないの? ていうか、自意識過剰もそこまでいくと表彰モンね」
立ち上がって白衣についた土ぼこりを手で払いながら彼女を見ると、眉を寄せて呆れたように息を吐いた。
「……なんだよー……脅かすなよなぁ」
たまらず力が抜け、そのままフェンスにもたれる。
すると、彼女がいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「何? 心配して来てくれたの?」
「ああ。お前が、死ぬんじゃないかと思ってな」
「だから、それが自意識過剰なのよ」
くすくすとおかしそうに笑う絵里を見ていると、こちらもつい笑みが漏れた。
と同時に、安堵のため息が出る。
「明日、お見合いするんだ」
「……え……? あれか? その、親父さんの行ってる会社のっていう……」
「は? 違うわよ。うちのお父さんの仕事先は、もともと身内の会社だし」
「そうなのか? え……てか、身内の会社ってのは……」
「いーでしょ、別に。そのへんは、どーでもいいの」
突然の言葉にあたふたといらぬことを口にしたら、呆れたようにため息をつかれた。
やっぱり、人の噂なんてのは半分以上が偽の情報でできてるらしい。
「写真見たけど、結構イイ男なのよね。将来有望って感じ? 金持ちだし、まぁいいかなと思って」
「……お前、見合いしないんじゃなかったのか?」
「だって、先生にフラれたんだし。邪魔立てするものはなくなったわけでしょ?」
「そりゃそうだけど……でも――」
「いいのよ。自分で決めたんだから」
ふっと見せた笑みは、普段の彼女からは想像もできないほど儚いもので。
こんな顔もするのかと思った瞬間、言葉が出てこなかった。
「……どこでやるんだ?」
「え? 駅前のホテルで、14時からだけど」
「…………。お前さ、本当にそれで――」
「もー。しつこいわねぇ。しつこい男は嫌われるわよ?」
二の句を継ぐ前にあっさりと阻まれ、ため息が漏れる。
本当にそれでいいなどと、彼女が思っているはずがない。
だが、今の自分に彼女を止められるだけの力があるはずもないワケで。
「ほら。早く授業戻りなさいよ」
「……いや、だから、お前を迎えに来たんだって」
「いいじゃない、今日くらい。サボらせてよ」
「お前なぁ。人の授業をサボるな」
「どうせ自習なんでしょ? なら、私はここで青空学習」
「そういうのを屁理屈って――」
「あーもー、しつっこいわね!! いいから、さっさと、帰れーーっ!」
「うお!?」
ぐいっと回れ右と同時に背中を強く押されてよろめくと、両手を腰に当てて彼女が思いきり睨んだ。
「だらしないわね。男でしょ!」
「うるせーな、ほっとけ!」
「なんとでも言いなさい。ほらほら、早く戻るっ」
「……ったく。わかったよ!」
ぶちぶち文句を言いつつドアに手をかけてから、彼女を振り向いてみる。
だが、彼女はすでにこちらへ背を向けて、考えこんでいるかのようにフェンスへもたれていた。
自分が止められるはずがないのだ。
彼女の思いを真っ向から否定した、この自分が。
「…………」
それはわかってた……はず、なのに。
彼女のそんな切なげな顔を見ていたら、それだけで『俺にできることは何かないのか』といらぬ考えをし始めていたのも事実だった。
実験室に戻ると、程なくしてチャイムが響いた。
これで、化学の授業は一応の終わりとなる。
次はテスト明けの、水曜日。
……まぁ、それもテストの返却と答えあわせで潰れるだろうが。
「それじゃあ、みんな本番も気合入れて臨むようにー」
生徒たちを見送ってから準備室に戻り、椅子に深くもたれる。
すると、同時に大きくため息が漏れた。
「悩みごとかね?」
「……え? あ」
コーヒーを手渡してくれたのは、年長者でもあり、化学課の主任でもある斉藤という教師だった。
「……いただきます」
軽く頭を下げてそれを受け取ると、絵里がいつも座っていたパイプ椅子を寄せて腰を下ろす。
……正直言って、彼は少し苦手だ。
なぜならば、自分が高校のときの担任その人だから。
昔の自分を知っている人間こそ、自分にとって最大の弱点。
……まさか赴任先に彼がいるとは思いもしなかっただけに、ついつい彼の前だと何も言えなくなってしまう。
「田代らしくないな。え? 昔のあの粋がってたころのお前は、どこに行ったんだ?」
「……ははは」
ため息をわざとらしくつきながらコーヒーを含んだ彼が、カップを机に置いて腕を組んだ。
こうされると、非常に威圧感がある。
思わず自分も彼に習うと、打って変わって鋭い視線を向けられた。
「思っていても、相手には伝わらない。周りのことではなく、自分がどうしたいかを考えるべきだ」
「……え……?」
「本当に大切なものなら、どんな物からも奪うくらいじゃなきゃ何も手には入らないんだぞ? ……と、昔から言っていたはずだがね」
にやり、といたずらっぽい視線を向けられ、思わず喉が鳴った。
……どうしてこの人は、昔からズバっと切り出すことができるのだろうか。
高校時代も、的を射た的確なアドバイスをよくしてもらった。
そのせいか、彼は俺にとって偉大すぎる人のように思えるから困る。
「君は何を悩んでいるんだ? そんなに難しい決断なのか?」
「……あ……。ええ、まぁ……」
「自分に正直に行動する。それだけで、随分と人は救われると思うがね」
……自分に正直に行動、をしてきたつもりだ。これまでは。
だが、ここに来て確かに――……迷っていたのかもしれない。
自分の立場や、周りの目を気にして。
昔はそんなこと微塵も考えなかっただけに、年を取った分保守的になっていると気付かされた。
「君はどうしたいんだ?」
「え……?」
真剣な瞳を反らせるはずもなく、ただただ彼を見つめ返す。
すると、独りでに唇が開いた。
「……正直に……行動したいです、けど」
「けど?」
「……奪うことが本当にいいことなのか……。正直言って、わかりません」
「馬鹿者!!」
「ッ……!」
ふっと視線を落として呟くと、いきなり彼がダンっと机に拳をぶつけた。
「奪った揚げ句に死ぬ気で護れないのなら、そんな気持ちは捨ててしまえ!」
「せ……先生……?」
「いいか? いつまでもウジウジとしているのは非常にみっともないんだぞ? こうと決めたら、こう! どうしてそうできない!!」
「す、すみません」
「私に謝っても仕方がなかろう!」
「っ……すみませ……っ……あ、いや、その……」
たじろぎながら頭を下げるしかできず、ぺこぺこと何度もくり返す。
すると、はぁ、とため息をついて椅子に腰かけた。
……こ……こえぇっすよマジで。
こういうところ、何も変わってねぇ。
「……まぁいい。どうせその程度の悩みだったということだ。そうだな?」
「……それは……」
「まぁもっとも、自分の気持ちに素直に行動することができるのは、幼い子どもだけなのかもしれんな」
「…………」
ぽつりと独り言のように呟いてから立ち上がった彼は、そのまま自分の席へと戻っていった。
……それにしても、人に叱られたのは久しぶりだ。
昔は鬱陶しいと思っていた説教も、この年になると、まじまじと噛み締めてしまう。
……自分に正直に……ねぇ。
どうすれば、正直なことなのか。
そして、正直なことが果たしていい結果になるのか……。
「…………」
そうは思いながらも、少しだけ気が晴れたような気もしていた。
恩師である、彼の言葉によって。
|