その日俺は、あたかもするべきことを最初から決めていたかのように家を出た。
 車に乗り込み、目指すは……そう。
 絵里が見合いをすると言っていた、例のホテル。
 どこのレストランでやるのかわからないため、とりあえず30分前に着くように……と早めにホテルへ向かうことにした。
 これが、一晩考えて出した結果。
 ――……と言えば聞こえがいいが、先日斉藤先生に言われてすぐにもしかしたら答えが決まっていたのかもしれない。
「……単純だな、俺」
 ふとそんな言葉が漏れ、苦笑が浮かぶ。
 車を走らせれば早いもので、すぐに目的のホテルに着いた。
 だが、果たしてフロントで見合いのことをストレートに聞いたとしても、そう簡単に教えてもらえるワケがない。
 せめて、アイツの番号でも聞いておくんだったな……。
「……ん?」
 思わずため息をつきながらロビーへ足を向ける……と、その先に見慣れた服が目に入った。
「な……んじゃありゃ」
 それは、ホテルには場違いすぎる冬女の制服だった。
 短く明るい髪に、いかにも威風堂々といった感じの後ろ姿。
 ……あれは、間違いない。
 アイツだ。
「皆瀬!」
「っ……」
 小走りで近寄って声をかけると、きょとんとした顔の絵里が振り返った。
「先生……え? 何してるの? こんなトコで」
「……つーか、なんでお前制服なんだよ」
「だって私、高校生だもん。正装って言ったら、学生は制服でしょ?」
 平然。
 なんの迷いもなく答えた彼女に思わず瞳を丸くすると、肩をすくめる。
「それに、このほうが相手を納得させやすいじゃない?」
「……何が?」
「だから。見合い相手が女子高生だってわかれば、ふつーは引くでしょ? そのために制服で来たんだし」
「……え? 何、お前……断るつもりだったの?」
「誰が見合い受けるって言ったのよ」
 しどろもどろに呟くと、呆れたように絵里がため息を漏らした。
 ……あれ?
 けど、昨日お前……なんか、言ってたことと違うんじゃないか?
「私は、お見合いするって言っただけで、受けるなんてひとことも言ってない」
「……そういえば、そうかも」
「それに、写真をよく見てたら……確かにカッコいいけど性格悪そうなのよねー。冷たそうっていうか」
「……あ、そう」
「やっぱり、結婚するからには幸せになりたいじゃない?」
「…………まぁ、そう……だなぁ」
「あのね。さっきから『そう』しか言ってないけど?」
「……そうか?」
「そうよ」
 くすくす笑った絵里を見たままで頭をかくと、何度もうなずきながら視線を合わせてきた。
 両手を腰に当ててたたずむ姿は、とてもじゃないが女子高生には見えない。
「で? 先生は、なんでここにいるわけ?」
 ……はっ。
 こうなると、結構気まずいというか……なんか、カッコ悪いな。
 かぶりを振って言葉を濁すと、にたぁっと意地の悪い笑みを浮かべられ、『う』と言葉に詰まった。
「ははーん。何よ、そんなに心配してくれたわけ?」
「……違う。それは違うぞ」
「じゃあ、いいじゃない。私忙しいから――」
「ほら、行くぞ」
「っ!? あ、ちょっ……! 先生!」
「16で見合いなんて早すぎるだろうが。普通、こういうときにサボるもんだ」
「ちょ、ちょっと!」
 文句を続ける絵里の手を引いて駐車場に向かい、車の助手席に押し込めるように乗せてやる。
 そして運転席に回ってシートに座ると、いきなり胸倉を掴まれた。
「っわ!?」
「ちょっと! 誘拐でしょ、これ!!」
「違うだろーが。だいたい、お前だって、ハナっからフケる気だったんじゃないのかよ」
「だからッ! ちゃんと会って断るって言ったじゃない!!」
「……あーもー、うるさい! いいから、大人しく乗ってろってば!」
「ちょっと!」
 一瞬『あ、そうかも』とか思ったものの、その考えを否定してからエンジンをかけてしまう。
 とはいえ。
 これからどうしようとか、どこに行こうとかまったく考えてない。
 ――……が、とりあえずホテルから遠ざかるためにギアを入れてアクセルを踏みこむ。
 彼女の身内にでも見られたら困るしな。
「…………」
 って、この発想自体が“誘拐犯”そのものすぎて、軽く眩暈がした。
 とりあえず走りだしはしたものの、これといって行くあてが決まってないと困る。
 ふと、大人しい助手席を横目で見ると、何やら真剣な顔をして考えごとでもしているかのようだった。
 相変わらず、こういう真面目な顔は16歳っぽくない。
 でもまぁ、文句も出ないみたいだしこのまま続行だな。
「で? どっか行きたい所あるか?」
「……先生、何も考えてなかったわけ?」
「うるせーな。仕方ないだろ」
「ちょっとー……まぁいいけど」
 案の定、呆れられた。
 考えるより行動するタイプなんだよ、俺は。
 などと勝手なことを思いながら絵里を見やると、顎に手を当ててから笑みを見せた。
「水族館がいい」
「は?」
「だから、遠足で行ったでしょ? 八景島」
 まさか水族館などと言われるとは思いもしなかったので、だらしなく口がぽかんと開いた。
 ……まぁ、いいけど。
 どうせ、行くアテもないんだし。
「じゃあ、行くか。水族館」
「よろしくー」
 国道を横浜方面に折れて彼女を見ると、嬉しそうに笑みを浮かべた。
 こういう顔は、まだまだ16歳どころか幼さを感じる。
 彼女の普段が普段だけに、もしかしたらそう思うのかもしれないが。

「あー、楽しいー」
「……そうか?」
「そーよ」
 1度来た場所。
 しかも、ごく最近。
 それなのに、彼女はすごく嬉しそうに笑った。
 本当に水族館が好きなんだな、と思うような屈託のない笑み。
 心底楽しんでいることが伝わってきて、嬉しくなる。
「……ったく。誰がイワトビペンギンなのよ」
「そっくりだろ?」
「違うし!」
「ほら、そういうトコとか」
「ほっといて!」
 例のペンギンの水槽の前で足を止めると、キっと睨まれた。
 だが、こちらとしても別に思い付きで言った訳じゃないため、肩をすくめるしかできない。
「あ、ねぇ見てー。おっきーい!」
 制服姿ではしゃいでいるのを見ると、なんか笑える。
 普段こんなふうに笑うところを、見ていないからかもしれないのだが。
 コイツは、いつも自分に対しては敵対的だったからな……。
 それがどうして急に柔和になったのかは、正直今でも謎だった。
「すごい……魚がいっぱい」
「そりゃそうだ。お前、ここ水族館だぞ?」
「知ってるわよ」
 幅10mは軽く越えているだろうと思われる、巨大な水槽。
 そのガラスにへばりつくように絵里が両手を当て、きらきらした眼差しで泳ぐ魚たちを見つめた。
 そんな姿がいつもの彼女らしくなくて、つい笑いが出る。
「……何よ」
「いや、子どもみたいだなーと思って」
「うっさい!」
「あてっ」
 けたけた笑ってやると、背中を叩かれた。
 ったく、容赦ないな。
 その後もあれこれ声をかけてはみたものの、『うん』と言いこそすれど反応はなく。
 どうやら集中しているようで、仕方なくそのまま彼女の隣にいることを選択。
 泳ぎ回る、大小さまざまな魚たち。
 小さいのもいれば、かなり大きなサイズの魚が上のほうを優雅に泳ぐ。
「…………」
 珍しく何も言わない彼女を横目で見ると、それはそれは楽しそうに瞳を輝かせていた。
 ここにいるのはいつもの勝気な彼女ではなく、純粋にこの時間を楽しんでいる少女。
 ガラスに映る表情とリアルの表情を見ていると、引き込まれそうになった。
「え?」
 ガラスに手をついて絵里を見ると、こちらに気付いて顔を上げた。
 不思議そうな、丸い瞳。
 その顔はあどけなくて、幼さが残る。
「……っ……!」
 時間が急激にゆっくりになったんじゃないかと思うくらい、耳に痛い静寂。
 気がつくと、一瞬触れたか触れないかという軽いキスをしていた。
「ち……ちょっと!」
 ふいっと顔を背けてその場をあとにすると、慌てたように絵里が駆けて前へ滑り込んだ。
 顔がわずかに赤くなっていて、こういうのをギャップとでも言うのか。
「どういうこと!? な、んでっ……! なんで、キス……なんか……っ」
「……別に」
 頬を染めて困ったように怒る絵里をさらりとかわしてやると、途端に表情を変えた。
「べっ……別に!? ちょっと! そんな理由で人のファーストキス奪うわけ!?」
「なんだ、お前初めてなのか?」
「っ! くぉの、馬鹿教師!!」
「うわ!?」
 どん、といきなり突き飛ばされてよろけると、思いっきり睨んでから背を向けて出口へと小走りに駆けて行った。
 慌てて彼女を追いかけるものの、あっさりと出口から外へ出てしまったあと。
 ……あー。
 なんだ? ひょっとして、怒ってる?
「おい、皆瀬ー」
「うるさい!!」
 相変わらず振り返らずに進む絵里の手を取ると、足は止めたものの、意地でも振り返るものかという雰囲気が伝わってきた。
「……なんで怒ってんだよ」
「当り前でしょ!? だいたいねぇ、先生のキスとは重みが違うのよ、重みが!! 人の16年分のもの、返して!」
「いや……返してって言われても……」
「あんな簡単にできるようなキスと一緒にされたら、困るのよ! 信じらんない! 最低! この淫行教師!!」
 今にも泣きそうな瞳でまくしたて、ぜいぜいと肩で息をつく。
 ……参ったな。
つーか、淫行はないだろ、淫行は。
 ここまで怒られるとは思いもしなかったので、つい焦る。
 うーん……子どもの相手は苦手だ。
「あ、ほら。クレープ買ってやるから」
「……ちょっと。私は子どもじゃないわよ」
「気にするなって。いらないのか?」
「…………食べる」
 文句を言いながらもうなずいた彼女に苦笑すると、そそくさとクレープのワゴンまで足を向けた。
 ……結構単純だな。
 まさかこんな手に乗るとは思わなかったので、つい面食らった。
 どうやら、彼女は見た目とはまったく違った中身の持ち主らしい。


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