「んー、おいしー」
 先ほどから子どもみたいにクレープを心底幸せそうに食ってる彼女に、つい笑みが漏れる。
 ……だが、いつまでもこんなことしてる時間はない。
 まだ空は明るいが、時間はそれなりに過ぎて今はもう夕方だ。
「家、どこだ?」
「なんで?」
「送ってくからに決まってんだろ」
 ……だが。
 呆れながら呟いた俺に、彼女はけろっとした顔で首を振った。
「私、帰らないわよ?」
「……は?」
「だって、今から帰ったらものすごく怒られるもん。そんなのヤダ」
 ぷいっと顔を逸らしてクレープの続きを食べ始め、指についたクリームを舐める。
 ……いやいやいや、ちょっと待て。
 お前の言ってることが、まったくわからない。
「ンなこと言ってねーで。な? 一緒に行って、謝ってやるから」
「今夜、先生のとこ泊めてよ」
「……はぁ!?」
「いーじゃない、別に。ていうか、責任とって泊めて」
「ばっ……! 馬鹿かお前!! そんな簡単に男の家に――」
「男じゃなくて、教師でしょ? 教え子に手ぇ出したら、懲戒免職よ?」
「くっ……!」
 この娘は、あっさりと怖いことを言ってくれる。
 いや、別に懲戒免職が怖いというわけじゃない。
 地位や名誉に固執するタイプじゃないし、どっちかっていうと体力仕事のほうが自分に合ってるのもわかってるから。
 ……って、話が逸れた。
 しかし、だな……ふつー、そんなあっさり言うか?
 仮にも、ひとり暮らしの男の家にだぞ?
 泊めてくれって……何を考えてんだ、こいつは。
 って、何も考えてないな。きっと。うん。
「それとも、何? 襲っちゃいそうとか?」
「馬鹿かお前は。俺がお前みたいな子どもにそんな気起きるかよ」
「じゃあいいじゃない。泊めてよ。うん、決まりー」
「あ、こら、皆瀬!」
 ぽん、と手を打って食べ終わったクレープの紙を丸めると、ゴミ箱へと嬉しそうに歩いて行ってしまった。
 ……はぁ。
 なんでこんなことになったんだか。
 売り言葉に買い言葉を、身をもって体験するとともに初めて後悔することになった。

「……へぇー。っていうか、何もないわね」
「うるさいな。イチイチ人の部屋に文句をつけるな」
 結局。
 あのあと軽く夕食を取ってから、散々文句をたれる絵里を家に連れてくる羽目になった。
 ひとり天下の居心地いい部屋が、なんだかやけに薄れて見える。
 ……俺の家なのに、なんで落ち着かないんだ。
 ため息をついてソファにもたれると、絵里が立ったままでテレビをつけた。
 かと思いきや、あれこれと部屋を物色し始める。
「だから、人の部屋をあれこれ見るなっつってんだろ」
「いいじゃない、別に。減るもんじゃなし」
 けろっとした顔で呟くと、早速棚を漁ったりテーブルの書類を弄ったりと、せわしなかった。
 ……あぁもう。
 やっぱり、連れてくるんじゃなかった。
 どっと疲れた身体からため息を吐き出し、目を閉じる。
 すると、テレビ番組をひと通りチェックし終わったらしく、彼女が目の前に歩いてきた。
 ……また何か言うのか?
 気配でそれを察知して薄くまぶたを開けると、案の定俺の想像の斜め上をいく発言が飛び出た。
「お風呂貸して」
「……あー……。入ってくれば?」
「そうじゃなくて! 服! 貸してよ!!」
「……お前、着替えもないくせに泊まるとか言い出したのか?」
「当り前でしょ? どこの世界に、見合いに行くのに着替えを持っていく人間がいるのよ」
「……そりゃそうだけど……」
 着替え、つったってTシャツくらいしかないぞ。
 立ち上がって引き出しを開け、Tシャツとハーフパンツを投げてやる。
 決してサイズが合うことはないだろうが、まぁ、ないよりはマシだろう。
「ほらよ」
「サンキュー」
 にっと笑みを浮かべてそれを持つと、こちらに背を向けた彼女。
 ……って、風呂の場所知ってんのかよ。
 いつの間に俺んちの間取りを把握した!
「先生、下着は?」
「……はぁ!?」
「だからー。貸してよ。下着だってないし」
「俺が女物持ってるわけないだろ!」
「当り前でしょ!? 持ってたら嫌よ! 先生の貸してって言ってるの!」
「はぁあ!?」
 何を言い出すんだコイツは。
 ……ああ、なんか頭痛くなってきた。
 なんで、教え子に下着まで貸してやらなきゃならんのだ。
 ぶちぶち文句を言いながらボクサーパンツを放ると、きゃーきゃー声をあげながらも一応持ち去られた。
 ……ったく。
 文句言うならコンビニで買ってこいっつーの。
「じゃ、お先にー」
「どーぞ」
 ぺたぺたと間違いなく風呂場に向かって歩いていった彼女を見送り、ため息をつきながらソファにもたれると、しばらくして浴室のドアが閉まる音が響いた。
 風呂、ねぇ。
 あーもー、なんかめんどくせーなぁ。
 やっぱり泊めるんじゃなかった。
 心の底から、そんな考えが湧きあがったのは言うまでもないが、あえて言っておく。

 たわいないバラエティを見ながら缶ビールを空けていると、ぺたぺたと裸足で絵里がリビングに姿を見せた。
 制服姿の彼女とはまったく違って、なんつーか随分と砕けた印象になる。
 などと意外さから彼女を見ていたら、いたずらっぽく笑った。
「何? 襲いそう?」
「いや、お前男物似合うな」
「ほっといて!」
 Tシャツはさすがにデカくて7分丈のようになっていたが、ハーフパンツは普通だし。
 髪が短いせいか、少年のようにも見える。
「なんか、弟みてぇ」
「先生、弟いるの?」
「いないけど」
「……何よ、それ」
 あっさりと首を振って否定すると、苦笑を漏らした。
 そんな彼女は当たり前のようにキッチンへ向かい、冷蔵庫を勝手に開けて中からお茶のペットボトルを持ち出す。
「150円」
「人のファーストキスを――」
「あーもー、わかったよ」
 やたらしつこく言うな、お前。
 ……うるせーなぁ、もう。
 頭をかいてから立ち上がり、自分も風呂に入ってしまうことにした。
 あのままだと、グチグチほかにも言い出しかねない。
 洗面所のドアを閉めて手早く服を脱いでから、浴室のドアを開ける。
「…………」
 途端、むっとするような熱気が頬に当たった。
 普段使っている風呂場。
 そして、普段使っているシャンプーの匂い。
 なのだが、なんだか違う家にでも泊まりに来たような気がした。
 ひとり暮らしだからこそ、1番最初に風呂に入るのは自分。
 だから、こんなふうに誰かが使ったあとの風呂に入るのは久しぶりだった。
「……って、何考えてんだ、俺は」
 一瞬よぎったよからぬ考えを否定するように頭を振り、そのままシャワーをかぶる。
 仮にも、教え子。
 とはいえ、ひとり暮らしで邪魔する人間は誰もいない。
 ……って、だからーーー。
 あーもー、すっきりしねぇな。
 がしがしとヨコシマな考えを払うように頭を洗うと、次第にしっかりしていった気がした。
 だが、改めて絵里を泊めることになったのを後悔したのは確かだ。
 それも、かなり激しく。
 ……はぁ。
 湯船に浸かると、ついついため息が漏れる。
 参ったな。
 正直に行動しすぎたツケなのか、心底この状況はヤバいと思う。
 俺も、そろそろヤキがまわってきたかもしれない。
 16歳という8つも年下の少女に翻弄されている自分が、心底情けなく思えた。

「…………ん?」
 風呂から上がってリビングに向かうと、膝を抱えて半分寝ている絵里の姿が見えた。
 と同時に、少しほっとしている自分に気がつく。
 冷蔵庫から冷茶を取り出してグラスに注ぎ、その場で呷る――……と、気付いたように顔を上げた。
「ベッド使えよ。寝室、その奥」
「……うん」
 眠そうに目を擦った彼女に、リビングを通って奥のドアを開けてやる。
 と、ほんの少し表情を強張らせた。
 ……ったく。
 んな顔するなら、泊まるとか言い出すな。
「俺はソファで寝るから」
「……え?」
「当り前だろ? 誰がお前と一緒に寝る」
「どうしてよっ」
 ……はぁ。
「どうしてってお前な。当り前だろ」
「……ははーん。やっぱり先生、自信ないんだ」
「何が?」
「私のこと、襲っちゃいそうなんでしょ」
「……馬鹿かお前は。俺がお前相手に欲情するわけないだろ」
「あ、そ」
 ため息をつきながら壁にもたれた、その瞬間。
 ぐいっと、その腕を取られた。
「……な……」
 思わず丸くなった瞳で見ると、そこには真剣な顔をした絵里がいた。
 やけに、鋭いきれいな瞳。
 芯の強さが、そのまま表れている。
「じゃあ、一緒に寝ようよ」
「……はぁ!? な、何言って――」
「私が横にいても余裕なんでしょ? なら、一緒に寝て」
「お、おい! 皆瀬!!」
 ぐいぐいと腕を引いて寝室に向かう彼女へ慌てて声をかけるものの、聞く耳を持たない。
 ……マジかよ。
 ぱっと手を離して先にベッドに潜った彼女が、ぽんぽんと隣を手で叩いた。
「ほら。早く来なさいってば」
「……だから、俺は――」
「欲情しないんでしょ? あ、それともやっぱり、強がり?」
「ばぁか。俺が好みの女はもっと年上だ」
 ふん、と鼻で笑ってやってからスタンドの明かりをつけ、リビングを消す。
 そんな柔らかい暖色の照明に浮かんだ彼女の顔は、どこか挑戦的なものだった。


ひとつ戻る  目次へ  次へ