「……なんで俺が」
スーツを着たままの彼が、田代先生のおうちのキッチンにいる。
その光景だけでも妙なのに、彼は右手に先ほど無理矢理ある物を握らされていた。
それは――……。
「……だいたい、なんでケチャップなんだ」
そう。
彼がまじまじと見つめたのは、間違いなく普通のケチャップだった。
生のトマトは嫌いだし、料理のトマト味も好まない。
……でも、ケチャップは平気。
そんな彼がトマトの象徴であるケチャップを持っているというのは……やっぱり、少しおかしかった。
「いいじゃない、手伝ってくれても」
「……いや、でも俺は……」
「えぇい! でも、も何もないの!! とにかく、やるのよ! 先生も一緒に!!」
「……だから、なんで俺が――」
「あーもー! しつこーい!! つべこべ言わずに、やるったらやるのよ! だいたいね、今の時代は男が料理やるべきなんだから!!」
「……どんな理屈だ」
「っるさい! 外野は黙ってなさい!!」
ため息をついた先生と、そんな彼に眉を寄せる絵里。
そこへ、頬杖を付いた田代先生が皮肉っぽく笑った。
……あぁあうぅうう……。
なんだかもう、なんで……? ってことしか頭に浮かんでこない。
さっきから、ずっとこう。
田代先生も『今だけは言わないほうが……』と思う瞬間に限って、必ず茶々を入れる。
当然のように絵里は怒って、それで……結局元に戻る気配はないんだけど……。
……うーん。
でも、ずっとこうして田代先生を間近で観察していると……ひとつ、わかることがあった。
それは、どんなときですら、彼が本気で絵里をからかっているんじゃないということ。
……まぁ、確かに『からかう』っていうのは本気でやるものじゃないんだろうけれど。
でも、なんて言うのかなぁ。
彼の言葉に反応を見せる絵里は毎回本気で受け取ってるんだけど、田代先生はそうじゃないっていうか。
とにかく、このふたりの温度差というかお互いの姿勢の違いというかが、そもそもの発端のように思えてならなかった。
「羽織ちゃん」
「はい?」
「何かテレビ見る?」
「……テレビ、ですか?」
「うん。……ほら、向こうは向こうで何かと忙しいみたいだしさ、当分の間時間もあるし。……ぶっちゃけ暇でしょ?」
「あはは」
こたつに入ったままキッチンのふたりを見ていたら、田代先生が声をかけてきた。
その顔は、さっきまで絵里に見せていたいたずらっぽいものじゃなくて。
……うーん。
もしかしたら……先生、絵里をからかうのが楽しいのかな……?
そう思うと、絵里を見ているときの彼は、まるで小さい男の子のようにも思える。
…………。
……なんて、年上の男性に失礼な見解だけど。
「えっと……これといって見たい番組はないんで……先生にお任せしますけれど」
「そう? ……うー……ん。まぁ、俺も普段からあんまりテレビとか見るほうじゃないからなぁ」
さすがに、『観察していろいろ考えてるから平気です』とは言えない。
……でも、困ったなぁ。
私も普段からテレビをよく見るってほどでもないし、ましてや今の時間帯は、ほぼノータッチ。
ちらっとキッチンに目を向けると、何やらふたり揃って眉を寄せて同じような顔をしていた。
……うーん。
今のところはまだごはんの匂いも漂ってこないし、もしかするとまだまだ時間がかかるかもしれない。
……さて。
その間、どうしていよう。
「……あ」
パチパチと適当にチャンネルを回していた彼が、ふと手を止めた。
そこに映っていたのは、いわゆるサスペンス物。
2時間でぴったり犯人が出てくるという、典型的なアレだ。
……でも。
「……これでもいい?」
「あ、今同じこと考えてました」
「はは。んじゃ、コレで」
「ですね」
手が止まったところといい、目が合ったところといい。
何気に、私たちは似てる部分があるのかもしれない。
それが血液型によるものなのか、付き合っている相手の性格によるものなのかは――……判断しがたいけれど。
「コレなら、ちょうど『彼がいけないんです!』なんて白状し始めたあたりに、メシができ上がるかも」
「けど、今始まったばっかりみたいですし……かなり先ですよ? それ」
「うん。……でも、結構俺の勘は外れてないと思うよ?」
「あはは。そんな、まさかぁ」
くすくす笑いながら、肩をすくめた彼に首を振る。
――……だけど。
そのとき、ひとつだけ気になったことがあった。
それは…………彼の目が、半分だけ笑っていなかったという点だ。
「……で?」
「え?」
「これは今、何を作ってるんだ?」
先ほど、彼女に渡されたケチャップ。
それを持ったまま腕を組み、目線で物を語る。
「……何って……見ればわかるじゃない」
「いや、わからないから聞いてるんだろ」
眉を寄せた彼女に、こちらも眉を寄せる。
……何を作ってるんだ。ホントに。
これでも、俺だってがんばってみたんだぞ?
あれじゃないかとか、これじゃないかとか。
だが、どうしても『妙なモノ』という言葉しか浮かんでこなかった。
悪いが俺には、コレが何かうまそうなメシの準備段階とは思えない。
「ったく。失礼しちゃうわね」
「悪かったな」
「……羽織ってば、いったいどう躾けてるのかしら」
「は……?」
とんでもない言葉がぽろりと彼女の口から出て、思い切り口が開いた。
が、しかし。
彼女は俺の反応など微塵も気にしていない様子で、そのまま『まぁいいわ』とひとことであっさり片付ける。
……いや、待て。
ちょ……いや、うん。あのだな。
おかしいだろ? どう考えたって、今のセリフは。
……しつけ、って。
それじゃまるで、俺が子どもかペットみたいじゃないか。
心外だ。激しく、心外だ。
それに、どちらかといえばむしろ俺のほうが躾けてる自負はあるのに。
……って、それなりに語弊があるが。
「これはね。オムライスよ」
「…………」
「何よその顔。失礼しちゃうわね。どこからどう見たって、そうじゃない!」
「ちょっ……待て! それは待て!!」
腕を組みながら『えっへん』と胸を張った彼女に、ぶんぶん首を振って否定してやる。
こ……これが、オムライスだと……!?
おいおいおいおい、ちょっと待ってくれ。
っていうかそもそも、オムライスってのは黄色い卵につつまれてるんじゃないのか!?
それが、これ。
この、今俺の目の前にあるのは……間違いなく、ボウル。
なぜかその中には炊いてある飯が入っていて、さらには――……あれよあれよと、何かいろいろ入っている。
「失礼ね! どこが違うのよ!」
「いや、全部だろそれは!」
ダンッと作業台を叩いた彼女に抗議されるが、そこだけは譲れない。
なんかこう……それだけは、守らなきゃいけないというか。
そりゃそうだろ?
なんせ俺には、いつもうまいメシを作ってくれる、料理上手な彼女がいるんだから!!
「明らかに違うぞ! 彼女はいつも、こんなふうにオムライス作ったりしない!」
「何よ! でも、ちゃんと野菜だって入ってるじゃない!!」
「いや、そ……れはそうだけど、でも……だな。……って、生じゃねーかコレ!!」
「何言ってるのよ、当たり前でしょ!? オムライスってのはね、卵を先に焼いてからそこにご飯入れるのよ!? だもん、そのときに火が通るから、中身の具は生でもいいの!!」
「んなっ!? そっ………………なるほど」
そんなワケあるか! とツッコミかけたのだが、しかし。
よくよく考えてみると、確かに彼女の言い分は正しいような気がしてくる。
……それもそうだよな。
どうせ、火の点いてるフライパンにメシ乗せるんだもんな。
だったら、確かに生でもいいのかもしれない。
初めて、料理で彼女と意見が合った。
「……ん?」
ほら見なさい、と言わんばかりの彼女から目を離して、ふと……こたつに入ったままの料理上手な彼女へと顔が向いた、途端。
「……え……?」
彼女は、まるで『えぇ……!?』とでも言いたげな眼差しで唇を開いていた。
「……羽織ちゃん?」
「えっ!? ……あ……あは……あはは、え、い、いえ。あの、何も……」
「いやいやいや、それは何もって顔じゃないだろ」
「やっ……! あの、ホントに……ええ。大丈夫です」
始終彼女は、引きつった笑いを浮かべていた。
その右隣に座って、こちらに背を向けている純也さん。
その人もまた……肩を揺らしているような。
「…………」
なんだろうか。
……もしかして、アレか?
今の発言に、何か誤りがあったとか……?
そんなことを考えてはみるものの、料理にはまったく手が出せない自分。
そのへんの間違いは、まぁ……あとできっちり彼女に教えてもらうとしよう。
…………。
……手取り足取り、ね。
「よし」
小さく、少し嬉しそうな声が聞こえた。
それで、ようやく絵里ちゃんへと向き直る。
――……と。
「…………」
何やら、ぐらぐらと煮立っている鍋に、奇妙な物体が浮遊しているのが見えた。
「……つかぬことを聞いてもいいかな」
「何?」
「これはなんだ」
彼女を見ず、ただただ鍋を見つめたままで、びしっと指をさしてやる。
まるで、小さな寸胴とでも呼ぶに相応しい、鍋。
その中には、やっぱり見間違いなどではなく、茶色い物体がぼこぼこと沸き立つ湯とともに上下していた。
「何って、見てわからない?」
「わからないから聞いてるんだろ」
先ほどとまったく同じ、やりとり。
いったい、何度目のデジャヴだろうか。
「これは、肉団子のスープよ」
「……肉……団子?」
「そ。肉団子」
にやっと笑ってうなずいた彼女は、そのあとすぐに『あぁ、ミートボールって言ったほうがいいかしら?』などと付け加えてきた。
……いや、別に呼び方にこだわってるワケじゃなく。
むしろ、この……なんとも奇妙なメニューっぽいモノを初めて見たんで、どうにもこうにもリアクションが取りづらいというか……なんというか。
「…………」
肉団子の、スープ。
ということは、この……なんとも言えない色の液体を、スープと称して飲ませるワケだな?
…………しかし。
一見すると、その浮遊物以外に具となるモノが見当たらないんだが……。
これはいかに。
「……あのさ、絵里ちゃん」
「ん?」
「それ、味付けとかした?」
おたまを持って振っていた彼女にそれとなく訊ねてみる。
正直、このときはまた怒られるかなと思った。
……んだが……なぜか、彼女が浮かべたのはにんまりとした満足げな笑みで。
それを見た瞬間、『あ。聞かなきゃよかった』なんて第六感が働いた。
「ふっふっふ。先生ってば、なぁんにも知らないのね」
「いや、まぁ……それは否定しないけど」
「あのね。こういうのは、肉からダシが出るから、味付けはいらないのよ」
「………………ほぉ」
「ふふん。少しは見直した?」
「いや……その、なんつーか……」
得意げな顔の彼女に対し、こちらはどうにも表情が晴れない。
……なぜだ。
今の説明に、ちっとも納得できなかったんだが。
まぁ、こればかりは、その……彼女の料理レベルに比例するものなのかもしれないが。
たとえ同じセリフでも、ウチの料理上手な彼女が言えば、きっとすんなりうなずくだろうし。
……そんなモンなのかな。
いや、きっと……うん。多分そんなモンなんだろう。
そうあえて自分を納得させてしまうことにする。
あとあとめんどくさいことになりかねないと、踏んだからかもしれないが。
「なぁんだ。肉団子なんて簡単じゃない」
「……そう……なのか?」
「もっちのロンよ! だって、ただこねくり回してから丸めるだけで終わりなんだもん」
余裕綽々、朝メシ前。
彼女は俺に、Vサインを突き出した。
……だがしかし。
どうにもこうにも、不安は依然として拭い去れない。
「……絵里ちゃんさ」
「ん?」
「それ、味見した?」
料理の基本中の基本。
その作法を口にすると、まじまじと俺を見てから鍋へ向き直った。
味見。
それさえ彼女自身が1番最初にしてくれるならば、俺の不安も軽減する。
……いや、むしろみんなが救われるというか……。
「……あ」
などと考えていたら、持っていたお玉を鍋へぶち込んだ彼女が、ぐりぐりかき混ぜてから――……すくい上げた。
…………。
ど……どろり……。
なんとも形容しがたい雰囲気の汁を見つめた彼女が、そっとお玉へ口を付け……た、瞬間。
「ごふっ!?」
思った通り、見事なまでの咳き込みを生じた。
「ごっ……ぐぇ、何これ……!? 激マズ!!」
鍋から飛びのいた彼女が、お玉をぶんぶん振り回しながら鍋を睨む。
……だが、しかし。
俺はむしろ、そんな彼女にため息しか出てこなかった。
そして、同時に。
彼女自身に味見させたことを、心の中でガッツポーズとともに『よし』と思った。
「……なんでこんな生臭いの……!?」
いや、それはやっぱり『ひき肉をこねくり回して固めた物』しか入ってからじゃないだろうか。
「っていうか、ダシはどうしたのよダシは……! ……っく……! 味も何もかも、あったもんじゃないわ……!!」
そもそも、ダシに甘いとかしょっぱいとかって味はついてるんだろうか。
根本の時点で間違ってる気もする。
「えぇいままよっ……! こうなったら、奥の手!!」
「ッな……!!」
彼女が構えた瞬間、まず手が出た。
出はしたのだ……が、しかし。
……彼女はやっぱり、素早かった。
ぶちゅーーー。
「ぎゃー!!」
「ほーっほっほっほっほっほ!! すべて赤く染まってしまうがいい!!」
「なっ……なんてことを……!!」
手近にあったケチャップを引っつかんだ彼女は、なんの迷いもなく鍋へ中身を搾り出した。
当然のように、幾重にもとぐろを巻いて浮かんでいたケチャップ。
だが、絵里ちゃんがお玉で中身を強引にかき混ぜ始めた途端、液体が見事なまでに赤く染まっていった。
「何してんだよ! ンなことしたら、マズいだろ!?」
「ぶぁっかなこと言わないで!! ケチャップは王様よ!? 何とでも合うんだから、これさえ入れときゃ間違いないのよ!!」
腕を掴んで静止しようとしたものの、バッと勢いよく払われるとともに、ものすごい目で睨みつけられた。
だが、その王道を無視した言い訳の割には、彼女の表情に若干焦りの色が滲んでいる。
……しかし。
「…………」
ざっぷんざっぷんと勢いを荒げながら、お玉で鍋をかき混ぜる彼女。
浮かべている不敵な笑みと笑い声からして、俺にはどうしても怪しい薬を作り上げてる魔女その人にしか見えなかったのだが、これはどうしたらよかったんだろうか。
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