「ご馳走さまでした」
今隣にいるのは、先ほどまで一緒だった彼女ではない。
いつもそばにいてくれて、いつもいたいと願う子。
羽織ちゃんその人が、玄関先で俺と同じく純也さんに頭を下げた。
「いや、こっちこそ。……ごめんね。ふたりとも」
「とんでもない!」
「1日お世話になりました」
「はは。いいよ、それは」
気付けば、すでに夜の7時すぎ。
ここに来たときはまだ正午近くだったのに、ずいぶんと時間が経つのも早かった。
「それじゃ、気を付けてね」
「どうも」
「ありがとうございました」
再び頭を下げ、ともに玄関を閉め――……ようとしたとき。
「羽織!」
「……え?」
遠くから、パタパタという足音とともに、絵里ちゃんが駆けてきた。
「どうしたの?」
「またね」
「…………うん?」
「……いや、だから……また……。……おいでよ?」
ぜいぜいと肩で息をついている彼女に、瞳を丸くしたまま首をかしげる羽織ちゃん。
だが、その顔を見ていた絵里ちゃんの頬が、なぜか少しだけ赤くなっていた。
「……ん。ありがと」
「…………うん」
「またね、絵里」
「うぁ。……う……うん。またね」
にこにこと笑ったまま手を振る彼女と、しどろもどろの絵里ちゃんと。
……なんだか、反応がいつもとまるで正反対に思えるのだが、気のせいだろうか。
「…………何かあった?」
「え?」
閉まったドアを見てから歩き出し、エレベーターへと向かう。
だが、その最中も彼女は、ただくすくす笑いながら首を振るだけで、特にこれと言った何かを話してはくれなかった。
「……謝られた……?」
「そうなんです」
コートを着込んでいてもなお、肌寒い夜の風。
大きな国道に面した歩道をふたりで肩を並べながら歩き始めたとき、彼女が俺を見上げた。
「なんかね、理由はちょっとわからないんですけれど……。急に、ごめんって」
「……なんで?」
「さぁ……どうしてでしょうね?」
どうして。
そうは言いながらも、彼女はもしかしたら理由がわかっていたのかもしれない。
困ったような顔ではなく、浮かべていたのは穏やかな笑み。
……秘密、ね。
確かにまぁ、男にはわからない、女同士でしか通用しないような話もあって当然だろう。
楽しそうにまた笑う彼女を見ながら、こちらにも笑みが浮かぶ。
「……え?」
そんな、とき。
これまでは、彼女が半歩遅れて隣を歩いていたのだが、急に……腕を取って来た。
「寒い?」
「あ……えっと……。……そういうわけでもないんですけれど……」
ポケットに入れたままだった手を抜き、手のひらを差し出す。
だが彼女は、それと俺とをまじまじ見比べながらも、緩く首を振ってからさらに身体を寄せた。
「…………」
「…………」
……珍しいこともあるな。
そうは思うが、無論嬉しいことに変わりはない。
「……あ……」
「俺はこっちのほうがいいな」
「……で……でも……」
「一緒だって。……どっちの姿でも、見られたら一緒」
車の量もあれば、歩道を行く人の姿もまだちらほらとある。
だが、彼女から来てくれたんだ。
今さら、人目など気にするようなモノでもないし。
「……あったかい」
「ん。お互いね」
彼女から腕を抜いて、腰を抱くように手を回す。
無論、彼女にはあえて抱きつきやすいほうへ同じことをしてもらった。
歩きづらいとか、そんなのは二の次三の次。
ともにあることが、1番。
「……羽織ちゃんさ……」
「え?」
「俺じゃなくて、純也さんのほうがよかった?」
彼女を見ることはできず、まっすぐ前を向いて口を開く。
……マトモに目を合わせてできるような話じゃない。
さすがに、自分でもおかしなことを言ってるのは、よくわかってるから。
「……そんなこと……。だって、田代先生には絵里が――」
「もし、純也さんが誰とも付き合ってなかったら」
「え……?」
「……そうしたら、俺じゃなくて純也さんを選んだ?」
もう、すぐにウチのマンションは目の前。
……だが、あえて裏手の細い路地に入り、わざわざ回り道をする。
別に、顔が見えないほうが都合いいと――……は、まぁ少し思ってるが。
ただ、この手の話は家の中でしたくなかった。
家にまで持ち込みたくなかったというか……なんと言うか。
最初からすべてが自分の我侭だというのは、わかっているが。
「……え?」
彼女はどう言ってくれるだろうか。
なんてことを考えるまでもなく、すぐにおかしそうな笑い声が聞こえた。
「それはないですよ」
「……いや、でもだな……」
「でも、はないんです」
「え?」
少しだけ、強い口調ですぐに彼女が返事をくれた。
……途端。
思わず喉が鳴る。
「だって……私が好きになるのは、祐恭先生だけだから」
さすがに、顔がそちらへ向く。
にこやかに笑って首を振る姿も、そして――……一瞬唇を結んでから、恥ずかしそうに笑う姿も。
すべてがひとつひとつ深く目に焼きついて、自然と足が止まる。
「それと同じように、田代先生は絵里を好きになると思います。………これは、絶対ですよ」
これまで隣あっていたのに、いつの間にか身体ごと向き合う格好になっていた。
自信がどうこう以前に、彼女の口調は確かなモノで、かつ……この表情ならば。
にっこり笑われ、何も言えない。
嫉妬でもあり、我儘でもあり。
つまらない揺れのせいから言葉にしてしまったにもかかわらず、こんな返事がくるとは。
「…………」
まさに、脱帽。
彼女は、思ってた以上にすごい人だ。
わかっていたと言えば、ものすごく性格の悪い人間に聞こえる。
傲慢だと言われれば、間違いなくうなずく。
……だが、俺は自分でもズルイ奴だと知ってるから。
それでもなお、彼女に答えてほしかった。
別に、彼女を試すワケじゃない。
ただ――……安心したいだけ。
大切だから、もしもが不安で。
自信に満ち溢れるばかりじゃいられないときもあるから、こんなことが頭に浮かぶ。
「……そっか」
思わず笑みが浮かび、改めて彼女に腕を伸ばす。
すると、頭を撫でるよりも先に、強く抱きしめていた。
「……っ……せんせ……! ……誰か来たら……っ」
「別に構わないだろ? ……あそこにしか外灯もないし、あえて目を凝らしてまで見ようとする人なんていないよ」
肩口に顎を乗せ、強く引き寄せる。
互いの吐息を感じられる、この距離。
これはやっぱり、俺にはなくてはならない場所。
「……好きになってもらえてよかった」
「っ……」
ぽつりと、らしくない言葉が漏れる。
だが、これは本心。
きっと彼女も分かってくれているであろう、俺そのものの。
「……先生……」
「俺もだよ」
「……え……?」
「俺だって……羽織ちゃんを必ず好きになるから」
わずかに身体を離しての、宣誓にも似た言葉。
ふっと表情を戻してまっすぐ目を見て告げると、彼女の顔が嬉しそうにほころんだ。
「……嬉しい……」
「それは俺のセリフ」
小さく笑ってから彼女を改めて引き寄せ、ゆっくりと家に向かって歩き出す。
最近……というか。
こうしてふたりで外を歩くなんて、本当に久しぶり。
……そうだな。
まだ付き合い始めて間もないころは、割と機会もあったんだが。
「……星、多いんですね」
「だね」
普段は、なかなか見上げることのない空。
家に入ってしまえば窓はカーテンを引いておしまいになっているので、ずいぶんとこうして空を見ていなかったような気さえする。
「……また……」
「え?」
「またこうして、ふたりきりで夜でかけようか」
もちろんそれは、目前まで迫っている大学入試を終えてからの話。
そして――……願わくば、春への切符を受け取ったあとでの計画。
「……行きたいです」
小さくうなずきながら笑った彼女に、こちらも笑みが浮かぶ。
……どうか。
これからも、彼女とともにあるように。
そして、彼女自身も――……そう願ってくれるように。
「楽しみにしてますね」
「ん。俺も」
きゅ、と彼女の腕に力がこもったのと同時に、にっこり笑って確かにうなずく。
そのとき、北の空に一筋の光が流れたのが見えた。
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