「それじゃ、少し休憩しようか」
「……お願いします」
私を見て苦笑を浮かべた彼に、頭を下げる。
今は、午後の5時というところ。
……もうこんな時間かぁ……。
朝の9時から続いていた、彼とふたりきりの時間。
それは、当然嬉しいし願ってもない状況なんだけれど……中身が“センター対策の特別問題”となれば、話はちょっと別で。
「……はー……ぁ」
大きく伸びをしてそのままソファに倒れると、キッチンから戻ってきた彼がそこに座った。
「疲れた?」
「……疲れました……」
「だろうね」
髪を撫でてくれる手が心地よくて、ついつい瞳が閉じてしまう。
……気持ちいい。
なんだか、まるで今まで勉強をがんばっていたことに対する、ご褒美みたい。
それが嬉しくて、つい笑みが浮かぶ。
「……あ。いただきます」
「どーぞ」
身体を起こしてテーブルを見ると、目の前にアイスティーの入ったグラスが置かれていた。
彼に断ってからそれを手に取り、早速口づける。
……おいし。
冷たくて、ほのかな甘みがあって。
気分と頭がすっきりした気がして、また、笑みが浮かんだ。
「……いよいよ、か」
「…………ですね……」
しみじみ呟かれた言葉で彼を見ると、目の前のパソコンラックに置かれている卓上カレンダーに視線をやってから、頭の後ろで手を組んだ。
――……そう。
彼の言うとおり、いよいよ週末の土日にはセンター試験が行われる。
……センター……試験が。
「……え……?」
「そんな顔しない」
「…………でも……」
「受ける前から心配してて、どうする?」
「っ……それは……」
「それは?」
「……そう、なんですけれど」
ぽん、と頭に手を置かれて彼を見ると、少しだけため息をついて私をまっすぐに見つめた。
……わかってる。
わかってる――……んだけれど、やっぱり、なかなか『ばっちり!』っていうふうには思えなくて。
もしもまた、ダメになってしまったらどうしよう。
……また……予期せぬ出来事が起きてしまったら……。
「……っあ」
「だから、そういう顔しない」
『心配するだろ』
ぎゅっと抱きしめてくれた彼が、肩に両腕を乗せたまま耳元で囁いた。
……そう……ですね。
そう。
いくら心配してても、時は満ちていくんだから。
だったら、悔いのないように今できることをきちんとこなそう。
「……だいじょぶです」
「そう? ……ならいいけど」
「はい」
顔だけで彼を振り返って、笑顔でうなずく。
すると、彼も同じように柔らかな笑みをくれてから、また……髪を撫でてくれた。
「…………」
こういう時間、好き。
テレビもコンポもついていなくて、ただ……ふたりきりで何も言わなくても過ごしてられる時間が。
ちょっとだけ彼へ身体を預けるようにもたれてから、さらに近づいてみる。
……こうすると、聞こえるのはもう――……お互いの鼓動だけ。
でも、それがどんなことよりも特別で、嬉しくて……とっても貴重だ。
「…………」
「…………」
何も言わずに、髪に触れてくれて。
少しだけ弄るように、手ですくわれる。
……これ、気持ちよくて大好き。
そっと彼へ腕を回して、頭を預ける。
……………えへへ。
すごく、すごーく嬉しい。
特別って気持ちが、とっても強くなる。
思わず瞳を閉じたままで顔を緩めると、どうしようもないくらい幸せな気持ちが溢れた。
「……そろそろ」
「え?」
「送ってくよ」
ゆっくりと穏やかに聞こえる彼の鼓動を感じたままでいたら、突然考えてすらなかった別れの言葉が聞こえた。
「……先生……?」
驚いて丸くなった瞳のまま、身体を起こして彼を見つめる。
……うそ。
「せん……せ……?」
だけど、彼はまったく冗談めいた顔なんてしてなかった。
まっすぐ私を見つめたまま、唇を固く結んで。
「……え……」
何も言えずに、ただただ首を軽く振るしかできない。
人間、本当に驚くと……こんなふうに、パニックになるんだ。
「ど……して、ですか?」
「いや、ほら。……もうこんな時間だし」
「で、でもっ! でも、まだ……5時じゃ……」
彼らしくない。
いつもの、先生らしくなんかない。
……どうして?
なんで?
私が何か気に触るようなことをしただろうか。
それとも、何か――……嫌がるようなこと、言った……?
苦笑を浮かべるでもなく、ただただ私をなだめるかのように呟く彼が今何を考えているのか、推し量ることすらできない。
「……センター、終わったら迎えに行くから」
「でもっ! でも、私……」
「気持ちはわかるよ? ……俺だってもちろん、そばにいたいし」
「それじゃあ……どうして……?」
別に、彼の説明で納得できないわけじゃない。
……でも……少しだけつらかった。
まだ早い時間だし、いつもはこんな時間にそんなこと言ったりしないのに。
……なのに、どうして今日に限って……?
わずかに視線を落として、でもすぐに合わせてくれた彼を見ながらも、眉は寄ったままだった。
「俺は、彼氏でもあり、教師でもあるから」
「っ……」
「……だから、学生の本分をまっとうしてほしいんだよ」
彼が静かに呟いた言葉で、視線を合わせることができなかった。
……私……我侭だ。
先生の言葉は、どれもこれも私を落ち着かせるような静かなもので。
それこそ、まるで……聞きわけのない子を諭すような物で。
「…………」
これじゃあ、駄々をこねてる子どもみたいに、あやされてるのと同じ。
我侭を言って、彼を困らせて――……。
「……ごめんなさい……」
「いや、別に羽織ちゃんが悪いわけじゃ……」
「でも……っ」
「ごめん」
彼にこんな顔をさせてしまったのは、ほかでもなく私だ。
……私以外に、いない。
彼に、こんな……困ったような、少しだけつらそうな顔をさせているのは。
私はいったい、彼にとってどんな彼女を務められているんだろう。
彼に求めてばかりで、挙句の果てには困らせて。
「……ごめんなさい……」
きゅっと彼のシャツを掴んだままでゆっくりと顔を上げると、先生は変わらずに優しい笑みのまま首を振ってくれた。
……私、もしかしたら何か思い上がっていたのかもしれない。
彼にとっての特別な“彼女”というポストに迎え入れてもらえたことで――……まるでなんでも許してもらえるみたいに考えたんじゃないだろうか。
……カッコ悪いとか、そういう問題じゃない。
そうじゃなくて――……欲張りで、我侭で……自分のことしか考えられない、困った子。
彼と一緒にいられるのはとても嬉しいけれど、離れたくないって思うことで彼を困らせたら、本末転倒。
……大丈夫。
試験が終われば、きっとまた……。
…………また……。
「……羽織ちゃん?」
「え……っ? ……あ、えっと……あの……」
ふ、と視線が落ちてしまっていたらしく、彼が顔を覗き込んだ。
そんな彼がまた心配そうな顔をしてしまわないように、笑みを浮かべて手と首を振る。
……しっかりしなさい。
自分の仕事は、何?
今はまだ、試験をパスして第1希望に合格することでしょう?
大学でやりたいことがあるんだから。
だから、今はまだそのための……準備期間なんだから。
「試験、がんばりますね」
にっこり笑って彼に言えたのが、気持ちを切り替えられた何よりの証拠。
……そう。
今は、彼に甘やかしてもらうわけにはいかない。
そうしてもらうのは、試験をしっかりとパスしてからだけ。
いつも通りの顔で頭を軽く撫でてくれた彼に、小さくうなずく。
……いいの。
抱きしめてもらえなくても、キスを……もらえなくても。
それでもやっぱり、彼が好きだから。
一緒にいられる時間がちょっとでも、それでも、会えないよりはずっとずっと恵まれてるんだから。
「…………」
……そう、なんだから。
ふと彼が私から視線を外したのを見て、なんとも言えない気持ちがいっぱいになった。
……大丈夫だよね?
試験が終われば、きっとまたいつもみたいになるんだよね?
しぼんでしまった笑顔のまま彼を見つめていると、いつしかまっすぐにさえ見ることができなくなった。
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