「ねぇ、羽織」
「ん?」
「アンタ昨日、駅前で先生と会ってた?」
「……え……?」
お昼ごはんを食べ終えて、しばらくしたとき。
頬杖をつきながらジュースを飲んでいた絵里に、思わず瞳が丸くなった。
「まさか……! そんなことしてないよ」
「……そうなの?」
「うん」
昨日。
……ということは、日曜日で。
「……てっきりそうだと思ったんだけど……」
「え……?」
小さく、ぽつりと呟かれた言葉に何も言えず視線が落ちる。
……ウソ。
そんな話知らない。
だって、昨日は明るいうちに先生に家まで送ってもらって。
そのあとは――……寝る前にメールを交わしただけだから。
「……えーと、あのね?ほら、勘違いよ。勘違い!」
「え?」
「『見た』って言ってた子、割と噂好きでさ。だから、尾ひれ背びれ付けまくってるんだと思うし」
ぽん、と手を叩いて『ないない』とばかりに手を振った絵里が、あははと大きく笑う。
……でも。
「それって、どういう話だったの?」
「え?」
「……先生を……駅で見た、って」
落としていた視線を再び上げて、まっすぐに絵里を見つめる。
……心配してくれてありがとう。
でも、大丈夫だから。
私――……そんなに弱くないよ。
そういう意味を込めて笑うと、明るい声が出た。
「気になるんだもん。ね?」
「……羽織……」
「だから教えてくれる?」
にっこり笑ったし、声だって落ちてなかった。
なのに、絵里は私をすごく心配しているような顔を見せた。
……優しいなぁ。
でも……大丈夫だから。
知らないで悩んでいるより、ホントのことを知ったほうが落ち着くことだってあるでしょ?
「…………わかった」
絵里を見ると、1度ため息をつきながらもちゃんとうなずいてくれた。
「…………」
放課後のSHRが終わって、昇降口までのひとりの時間。
今日は、絵里が図書室へ寄って行くということだったので、先にひとりで帰ることにした。
でも……今ごろになって、その選択が間違いだったことに気付く。
――……だって。
「……ウソ、だよね」
ひとりきりでいたら、気を紛らわせるだけの余裕なんてなくなっちゃって、どうしても嫌なほうにしか考えられなくなるから。
『昨日の夕方、祐恭先生が駅前で冬女の子と一緒にいるところを見たらしいのよ』
冬女の子なら、別に先生と一緒にいたって何も不思議じゃないし、ヘンじゃない。
だって、冬女の子にとって彼は“先生”なんだから。
知ってる人なんだから。
――……でも。
『やけに仲良さそうに話してて……ちょっとだけ、その子が手で触ってたって』
触れる必要は、どこにあるんだろう。
しかも、駅前。
人通りはもちろん多い。
……そんな場所で、どうして?
確かに、ときどき知らない子が彼の腕を叩いたりしながら話しているのを見ることはある。
でも、それは冗談めいた態度で、というのがもちろんの前提。
……そんな類なのかな。
それなら、いい。
それなら別に……私だって、そこまで悩んだりしない。
でもね、違うの。
違ったの。
だって絵里の言い方は……決してそんな程度じゃなかった。
『それで――……私はてっきり相手が羽織だと思ったから、「他人の目があるから気をつけなさいよ」って言おうと思ったのよ』
気をつけろ。
そう言われるほどの“触れる”行為って、どんなもの……?
話していて、ときおり腕に触れる程度ならば……誰も彼との間を疑ったりしないよね。
見た目通り、“教師と生徒”なんだって……思うだけで。
「…………」
絵里は、私の顔を見て最後に『何かの勘違いだとは思うけど』と付け加えてくれた。
……勘違い。
それは、見た人の?
それとも――……先生の?
「…………」
外から聞こえてくる、賑やかな声。
だけど、私が今歩いている廊下には、まったくそんな気配がなかった。
……誰もいない、場所。
ひとりぼっちで、誰の声もしなくて――……なんて思いながら階段へ向かった、とき。
「……え……?」
少しだけ離れた場所から、声が聞こえた気がした。
別に、呼ばれたわけじゃない。
……だけど――……そちらへ無意識に足が向く。
だって。
……だって……今聞えたのは間違いなく彼の声だったから。
「…………」
見えているあの、曲がり角。
……あの先から聞えてくるらしい、ぼそぼそといった――……少しだけ秘密めいた会話をしているような声。
…………誰と……?
少なくとも、話している所を見られて困るような相手じゃなければ、そんな小さな声で話す必要はないはず。
それがわかるから、近づくにつれて不安が徐々に大きくなって行く。
『冬女の子と一緒だったって』
さっき、絵里に聞いた言葉。
それが、妙な響きを伴って頭の中で響く。
……違う。
そんなこと、ない。
先生は………。
だって先生はそんな――……そんな、私をあえて困らせるようなこと、する人じゃないから。
「……ッ……」
そう、願ってた。
あるはずないって。
先生は…………先生だけは、嘘をついたりしないって。
そう――……思っていたのに。
「…………うそ……」
今、目の前の光景は本物なの?
どれもこれもが鮮やかで、掠れてなんていなくて。
……だけど。
何も音のない世界。
……夢なのかな。それとも、見間違い?
もしくは――……。
「……やだ……」
丸くなった瞳は、まばたきを忘れてしまったかのように見開いたままだった。
こちらに背を向けているのは、彼。
そんな彼の向かいにいるのは――……私の知らない子。
……でも。
きっと、彼にとっては『知らない子』なんかじゃないんだろう。
親しくもない子なんかが、彼に腕を回してもらえるなんて、あり得るはずないんだから。
慰めているのかもしれない。
私が知らない何かがあったのかもしれない。
……でも。
こんな光景を見て……私はどうすればいいの?
彼に対して……聞けるはずないじゃない。
『あの子は誰?』なんて真正面から聞いたとき、彼の表情がかすかにでも曇ったりしたら……私、立ち直れないもん。
「……っ……」
――……もしかしたら。
もしかしたら昨日、彼が私を早く家に帰したのは、彼女と会うためだったんじゃないだろうか。
……そう。
そうだよ。
だって、そうすれば――……たくさんの『?』がちゃんと答えを見つけるんだもん。
急に、キスしてくれなくなったこと。
抱きしめても……くれなかったこと。
……そして。
いつもなら許してくれることを、許してくれなかったこと。
…………ああ。
どうして、こんなに嫌で不安になるだけの考えは、いともたやすく組み立てられるんだろう。
「…………」
不安なんかなかったのに。
先生は違うって。
私にだけは、嘘をついたりしないって……そう信じてたのに。
信じてたのに。
「ッ……!」
彼に回されていた腕が緩んで、ほんの少しだけ顔を覗かせた――……その子と目が合った。
「……ぁ、や……っ……」
声をかけられる……!!
咄嗟にそう思い、衝動的にその場をあとにする。
鞄を抱きしめて、階段を駆け下りる。
どこか、見つからない場所を。
彼に――……会ったりしない場所を。
……ううん。
願わくば………誰にも。
そんなことを無意識に考えていたからか、気付くと生徒の通りなんて皆無ともいえる、3号館の1番奥の部屋の前に立っていた。
――……いったい、どうやってここに辿り着いたのか。
どこを通ったのか。
途中、誰と会ったのか。
……それらはまったく覚えていないに等しい。
だけど。
先ほど見た真実と思しき光景だけは、全然薄まらずに……むしろ強すぎる大きな印象として残り、鮮やかに私を追い詰めた。
「……うそ……じゃ」
――……ないの?
ぎゅうっと鞄を抱いたままでドアにもたれると、今ごろになって震えがきた。
……怖い。
今度、彼と会わなければいけない時間が。
そして――……彼に、いつもと変わらない笑顔を見せられることが。
「……ふぇ……っ」
どうして感情が遅れて波を立てるんだろう。
あのときあの場所で泣いていれば。
……そうすればきっと、今とはまったく違う結果だったに違いないのに。
どうして?
なんで?
そんな、誰からも答えをもらうことができない問いだけが、どんどんと数を増していく。
……嫌だ。
彼がいなくなってしまうことが。
そして――……嘘をつかれていたのかもしれない、ということが。
「やっ……だ……やだぁ……っ」
ぼろぼろと自分でも驚くくらい大粒の涙が溢れた。
先生はそんなことしない。
彼は……嘘をついたり、しない。
私にだけは、いつだって本当のことを――……本当のこと……っ……。
「……やっ……ひっ、く……やだ……ぁ」
どうしたらいいんだろう。
私は、どうしたらいいの?
誰もいない階に響く、押し込めたような自分の嗚咽。
それを止めることもできずにずるずると姿勢を崩すも、わずかにすら涙を止めることができない。
「ふぇっ……ひっ……っく……!」
ぺたんと廊下に座り込んで触れた部分から、ひんやりとした感触が直に肌へ伝わる。
だけど、今はそれすら心地よく感じた。
……もしも。
もしも今、誰かに聞かれたら。
もしも今、彼がこんな私の姿を見たとしたら。
……私はなんて答えるのかな。
普段の彼ならば絶対に心配してくれるようなことながらも、今は私を気遣ってくれる表情を思い浮かべることができない。
……ねぇ、先生。
私はいったい……先生にとって、どんな存在なんですか?
「……っ……せんせ……ぇ」
彼を呼ぶ涙声が、わずかでも彼に届いてくれればいいのに。
今はもう答えをもらうことができない人に、私は……我侭しか抱けないらしい。
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