「…………」
自分の机の上に、ノートと参考書を開く。
……だけど、シャーペンを握ったままの手はまったく動こうとしない。
それどころか、家に帰ってから今までの間、もうずっとこの状態を保ったままだった。
もう、すでに時間は夕方。
窓の外は日が暮れていて、部屋の明かりがガラスに反射している。
今はもう、勉強なんてできるだけの余裕がなくて、考え始めればキリがないほどにたくさんのことで潰れそうになる。
私じゃない、ほかの誰かと付き合っているかもしれない。
私よりもずっと……“大切な子”がいるのかもしれない。
「……はぁ……」
そんなわけないって思えるだけの自分がいない。
自信がなさすぎて、それが悔しい原因で、どうしようもなくて。
頬杖をついてため息をつくと、さらに身体が重くなった気がした。
……ため息と一緒に、嫌な事ことも身体から出て行ってくれればいいのに。
そうすれば……余計なことを考えずに済むのに。
「…………」
……すごく、つらい。
瞳を閉じて背もたれに身体を預けると、言いようのない不安から、また……涙が滲みそうになる。
「……え……?」
どれほど、そうしていただろうか。
小さなノックの音でそちらを見ると、薄っすら開いた隙間から葉月が顔を覗かせた。
「ちょっといい?」
「あ……うん」
首をかしげ、にっこり笑った葉月……が、私へある提案をした。
でもそれは、私には絶対に思いつかないようなことで。
「え……それって、でも……」
「大丈夫。ね、行こう?」
にっこり笑われ、まばたきするしかできなかった。
「……ねぇ、ホントにいいのかな……?」
「大丈夫。私、何度かきてるから」
「え! そうなの?」
「うん。大学の図書館だけど、一般にも開放されてるのよ? 本も借りられるし」
「えええ、知らなかった」
それこそ、葉月がこっちへきてまだそんなに経ってないにもかかわらず、まさか私もしたことないことをさらりとしてたなんて、びっくり。
大きな門を見上げたまま立っているのがよほど滑稽なのか、敷地の中からは幾人もの人たちが私と葉月を不思議そうに見ながら通り過ぎる。
……うぅ。
やっぱり、怪しまれてるんじゃ。
自然と寄った眉のまま、改めて葉月を止め……。
「っわ!?」
「行こう?」
「え、えっ! 葉月!?」
ぐいっと腕を引かれ、躊躇していた一歩どころか、どんどんと足を進めるしかなくなってしまった。
「ねぇ、葉月っ! やっぱり、ここは……」
「大丈夫。大学は、いろんな人が出入りする場所でしょう?」
「うぅ……でも……」
「ふふ。羽織ったら心配性ね」
「……それ、ちょっと違う……」
不安な顔しかできない私とは違って、葉月はなんだかとっても楽しそうに笑っていた。
……うぅ。
行動力というか、度胸があるというか……。
どうして葉月は見た目からはまったく想像できないようなことを、ときとしてできちゃうんだろう。
相変わらず、すごいとしか言えない。
「ね、せっかくだから教室見せてもらえるか聞いてみよっか」
「え? 誰に?」
「もちろん、たーくんに」
「えぇ!? あ、ちょっ……! 葉月!」
「大丈夫。ね、行ってみよう?」
「わ、わっ! 葉月ってばぁ!」
当たり前のようにどころか、そう言いだした葉月はなぜかとても楽しげだった。
軽やかな足取りあんど慣れた感じで、中庭から階段の伸びている、大きな建物へ方向転換。
……うぅう。
怒られる。
絶対、怒られるよぉ……。
楽しそうな葉月に手を引かれながら、そんな心配しかできなかった。
「…………」
「…………」
……来てしまった。
階段を上りきった先には、ガラス張りの重そうなドアが私たちを待ち受けていた。
「図書館……だね」
「うん。まだ、たーくんいると思うよ」
「えっと、それはそ……って、葉月!?」
「大丈夫」
「えぇえ!?」
私の反応があまりにもおかしいのか、葉月はくすくす笑うと当たり前のようにガラス扉へ手をかけた。
いったい、どのあたりから『大丈夫』って言葉が出てくるんだろう。
……ねぇその自信はどこから来るの……?
相変わらず楽しそうな彼女に、思わず苦笑が浮かぶ。
これまで、この図書館に来たことがないわけじゃないけれど、やっぱりちょっと入りづらくて。
なのに、葉月はまるでさっき私の部屋へ入って来たときと同じように、何の躊躇もなくドアを引いた。
「……っ……」
その、途端。
カウンターにいた、やけにこの場所が相応しくないような人が、私たちを目ざとく見つけて……明らかに表情を強張らせた。
……うわ。
あんなふうに驚く顔なんて、久しぶりに見た。
「……見つかっちゃった……」
「大丈夫、約束してるから」
「えぇ?」
気まずくて葉月の腕を引くも、くすくす笑いながら首を横に振る。
……約束……?
ていうか、いったいいつ? え、お兄ちゃん自身と……?
いくつも聞きたいことはあるけれど、葉月は当たり前のように中へ入ると、カウンターへ近づいた。
私はそちらへ近寄れないオーラを察知し、数歩後ろから見守る。
すると、カウンター越しに学生らしき人と話していたお兄ちゃんは、いくつか言葉を交わすと、それまでとは打って変わって“愛想”なんて言葉がどこかへ消えてしまったかのように、私たちを鋭く睨んだ。
あ、今絶対舌打ちしたでしょ。
我ながらそれがわかるのは、ちょっぴり嫌なんだけど。
「ちょっとだけいい?」
「……あのな。ふたりで来るとは聞いてねーぞ」
「えっと……いけなかった?」
うわぁ、すごい嫌な顔してる。
もし知り合いじゃなかったら、絶対近づかないタイプの人なんだけどなぁ……お兄ちゃんって。
両手をカウンターへついたまま明らかに機嫌の悪そうな顔をしているのを見て、小さく『うわぁ』と漏れる。
なのに葉月は、まったく物怖じせず彼の前へ立つと、私へさっきしたみたいに首をかしげた。
…………。
なんか……葉月って、実は無敵なのかも。
依然として悪たれてる彼を見ながら、そんなことが浮かんだ。
「で? 揃って何しに来た」
「……え。えーと……」
大きくため息をついたお兄ちゃんが、私を見た。
……うー。
私に言われても、困るんだけど。
だって、まさか葉月が図書館へ寄るなんて思わなかったんだもん。
『試験会場の下見に行かない?』と言われて、もし見ることができるならちょっと緊張しなくて済むかなって思ったんだけど……。
正直、予想外の展開だったの。
「あのね、たーくん」
「なんだ」
「試験会場、案内してもらえないかな?」
「は……?」
「……え……?」
にっこりと笑って、葉月がお兄ちゃんに呟いた言葉。
それは、どうやら私だけじゃなくて、お兄ちゃんもまったく予想できていないことらしかった。
「…………」
「……ん?」
「ん、じゃねぇだろ」
誰も何も言わずに葉月を見ていると、視線に気付いたらしく首をかしげた。
……試験会場。
そんなこと考えもしなかった。
だって、当日にしか入れないと思ってたし、ましてや……大学内だし。
……やっぱり、葉月はなんだか違う。
一遍通りにしか考えられない私たちとは、何もかもが本当に。
「はー……」
「だめかな?」
「…………」
大きくため息をついたお兄ちゃんが、こめかみに手を当てた。
あ、絶対言う。
彼の口癖の『馬鹿じゃねーの』が先に浮かび、思わず身構えた。
「野上さん」
「はい?」
……んだけど、まさかの展開に思わず面食らう。
お兄ちゃんは、背を伸ばして振り返ると、私たちではなく奥の部屋にいた女の人に声をかけた。
「ちょっと、抜けてきていい?」
「ええー? またですか? ダメですよ、そんな」
カウンターにまで出てきた彼女は、当然嫌そうな顔をする。
……だよね。
ましてや今は仕事中だし、『また』という言葉からすると、もしかすると……しょっちゅう抜け出しているのかもしれない。
「……あら? あなた、従妹ちゃん?」
「こんばんは」
「あらあらまぁまぁ。へぇええ……ふぅーん? なるほどなるほど。えへへーん、いいですよぉ? 留守番してあげてもぉ」
「……なんだその顔」
「え? だってぇ。……くふふ。お安い御用です」
「だから何が?」
それまでは、頑として譲ろうとしなかった彼女。
……なのに。
なぜか葉月を見つけた途端、にんまりといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「知り合い、なの?」
「んー……そんなところかな」
「へぇ……」
相変わらず取引めいたやり取りを続けているお兄ちゃんたちから葉月を見ると、苦笑を見せた。
……すごい。
私の知らない間に、葉月の世界は広がってるんだ。
それは驚きでもあったけれど、やっぱりちょっとだけほっとしたというか、嬉しくもあった。
「わかりました。それじゃ、30分だけですよ? 閉館作業あるんですから」
「サンキュ。恩にきる」
「はーい。恩を売っておきます。あ、ジュース忘れないでくださいね」
「わーったって」
どうやらふたりの間で成立した何かがあったらしく、お兄ちゃんがカウンターからこちらへ出てきた代わりに彼女がそこへ座った。
「いってらっしゃーい」
「ありがとうございます」
「いーえ。かわいい従妹ちゃんのためだもの! 一肌脱ぐわっ」
にっこりと笑って、私たちを送り出してくれた彼女に葉月が頭を下げたのを見て、同じく習う。
……かわいい人だなぁ。
その笑みは本当に屈託がなくて、まるで小さな女の子みたいだ。
「……くふ。いってらっしゃいませ」
「ち。悪そうな顔しやがって……」
「えへへー。報告待ってますね」
「なんの」
…………。
……もしかすると、お兄ちゃんには容赦ないのかもしれない。
|