「……ったく。急に何かと思えば……」
「だって、どうしても見てみたかったの」
 3人で歩く、街灯に照らされているだけの薄暗い大学の中庭。
 どうやら講義もこの時間はないらしく、学生の姿はまばらだった。
「試験やんのは、5号館……ほら。あの白い建物だ」
 そういってお兄ちゃんが指した建物は、白い壁が目立つまだ新しい建物だった。
 ……そういえば、隣にある建物には見覚えがある。
 だってあそこ……。
「お前も来たことあんだろ?」
「……うん」
 歩きながら私を振り返った彼に、建物を見たままうなずいていた。
 あれは、11月の推薦入試のときだ。
 ……そういえばあのときは……先生に送ってもらったんだっけ。
「…………」
 話しながら歩くふたりの背中を見ながら、つい視線が落ちた。
 ……先生、今ごろ何してるのかな。
 やっぱり…………あの子と一緒なのかな。
「……羽織?」
「え?」
「とっとと来いよ。置いてくぞ」
「あ、待って!」
 足が止まってしまっていたのか、顔を上げるとふたりはすでに入り口へ立っていた。
 慌てて謝りながら、小走りで急ぐ。
 ……今は、考えちゃいけない。
 しなきゃいけないことは、もう目の前なんだから。
 追いついたふたりに『ごめん』と小さく告げてから開けてくれていたドアを閉めると、エレベーターに案内された。

「わ、広いね」
 当たり前のように照明をつけたお兄ちゃんのあとに続いて入った部屋は、真っ白い机が何十台も並んでいる広い教室だった。
 高校とは全然違う風景に、ちょっぴりどきどきする。
「ここでするの?」
「さすがに本番の教室はもう規制かかってんから、似た教室で我慢しろ」
「え、そうなの?」
「たりめーだろ。明後日だぞ? もう机に試験番号も貼ってあるし、ここ数日は学生も出入り禁止だからな」
 そうなんだ。
 さすがに内情までは知らず、言われてみればなるほどと納得もする。
 ……明後日。
 いよいよ明後日、この大学を目指す人たちが一斉に試験を受ける。
 私と同じ気持ちでいる、大勢の人たちが。
「……え?」
「座ろう?」
「あ……うん」
 くいくい、と袖を引かれてそちらを見ると、すでに葉月は着席していた。
 なんていうか……。
「……葉月って、すごいね」
「え? どうして?」
「なんか……ドキドキしたりしないの?」
「んー……それはきっと、私は試験を受けないから、かな」
「そういうものかなぁ」
「ごめんね、私だけ楽しんで」
「え! そんなことないよ。私も楽しいもん!」
「そう? ならよかった」
 隣の椅子を引いて腰かけながら、申し訳なさそうな顔をした葉月へ慌てて首を振る。
 なんていうのかな。葉月って、すごく自然なんだよね。
 とにかく、行動力といい洞察力といい、本当に自分と違う。
 ……あ、もしかしたらお兄ちゃんもそうだったりして。
 だから、急な申し出だったのにこんなふうに――。
「え?」
 そのとき、少し離れた場所から咳払いが聞こえた。
 ……?
 葉月と同じタイミングで前を見ると、1番前にある教壇みたいなところにお兄ちゃんが立っている。
 黒板を背に立つ姿は、まるで“先生”みたいにも思えた。
「これから幾つか、試験の注意事項を挙げる」
「……え?」
「その間、問題用紙には触らないこと」
「…………」
「…………」
 いたって真面目な顔で、普段とは違う口調に目が丸くなった。
 ……。
 ……?
 そう感じたのは葉月も一緒だったみたい。
 でも、思わず顔を見合わせると、なぜか葉月は嬉しそうに笑った。
「机の上に置けるのは、使用する筆記用具及び時計のみ。筆箱と携帯電話およびスマートフォンは、電源を切って鞄の中へしまうこと」
 言いながらお兄ちゃんは、教卓に両腕を組んで乗せた。
 ……なんだろ……。
 言ってることは、さながら本番と同じような注意事項で。
「…………」
 ……もしかして、もしかする?
 『わかったか、お前ら』とでも言わんばかりの彼に、まばたきが出た。
「教科書類も鞄へ。ただし、口が閉まらない鞄を使っている者は、教科書が開かないように横にして床に積んでおくこと。それから、受験票は各自通路側の机上部へ置いておくように」
「…………」
「…………」
「以上。何か質問あるか?」
 彼が言葉を終えると、先ほどまでと同じ静けさが室内を包んだ。
 ……なんだろ……。
 これは練習も練習で、まったく拘束力なんてないっていうのはわかってる。
 わかってる……んだけれど。
「シャーペンなんか使えねぇからな。間違っても持ってくんなよ」
「……あ……」
 『わかったか』と続けたお兄ちゃんの顔は、普段とまったく同じだった。
「…………」
「…………」
「ふふ」
「あはは……っ」
「……あのな」
「あはは! お兄ちゃん、おかしー!」
「まるで、本当の試験が始まるみたいね」
 葉月と顔を合わせて笑うと、心底居心地悪そうにお兄ちゃんがため息をついた。
 だって、『らしくない』。
 全然、お兄ちゃんらしくないんだもん。
 まさかこんなお芝居じみたことをやってくれるなんて。
 ……すごい。
 もしかしたらコレも、葉月の力だったりして。
「昔、試験監督のバイトしたからな。今も大して変わんねぇと思うぞ」
「……へぇ。そんなアルバイトがあるの?」
「ああ。割とオイシイぜ。時給もいいし、昼メシも出るし」
 肩をすくめてうなずいたお兄ちゃんに葉月が瞳を丸くすると、それはそれは自慢げな顔でにんまりと笑った。
「……ま、笑うだけの余裕がありゃ、いーだろ」
「うん。ありがと」
 トンっと小さな音とともに段を降りたお兄ちゃんが、こっちへ歩いて来た。
 ……あはは。
 まったくもって彼らしくない行動に、今でもつい笑いが出てしまう。
 ……だけど、嬉しかったのはホント。
 葉月だけじゃなくて、お兄ちゃんまでこんなふうにしてくれるなんて、思わなかったもん。
「少しは緊張ゆるんだ?」
「うんっ!」
「よかった」
「……ま、せーぜー遅刻しねーよーに気をつけるんだな」
「大丈夫だよ。……午後からだもん」
「そーゆー余裕が命取りだぞ? お前」
「わかってるってば!」
 私たちのほかには、誰もいないこの広い空間。
 実際の教室ではないけれど、明後日から行われる本当の試験のときには……きっと、今とはまったく違った光景になるんだろうな。
 ……。
 でも……本当に、少しだけ肩の荷が下りた気がした。
 試験のことで気負ってたのも事実だから、このことはプラスの方向に自分を持って行ってくれるだろう。

「ふたりとも、ありがとう」

 改めて葉月とお兄ちゃんに向き直り、軽く頭を下げる。
 すると、1度ふたりで顔を見合わせてから、同じように笑みを返してくれた。
 ……ありがと、ホントに。
 ふたりそれぞれの形の優しさを感じて、ようやくいつもの私らしい笑顔が浮かんだように思えた。


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