「気をつけて行くんだよ?」
「……はい」
「ちゃんと、座席とか確認すること」
「はいっ」
「ああ、それから――……」
「……うぅ。なんですか……?」
「必ず、名前やマークシートの塗り潰す位置を確認すること」
「……ぅ」
「わかった?」
「……はい……」
眉を寄せて言葉に詰まった私を見て、彼は少しだけ心配そうに『大丈夫?』と続けた。
いよいよ、今日は――……センター試験本番当日。
昨夜……というよりは、もう日付もとっくに変わっていたから、“今日”のことなんだけれど。
本当に遅くまで続けられた最後のシメ会に、彼は嫌な顔ひとつせず付き合ってくれた。
しかも、夜遅いからという理由でそのまま家に泊まってくれて、朝ごはんも一緒に食べて――……。
「それじゃ、いってらっしゃい」
「はい……っ。いってきます」
こうして、試験会場である県立七ヶ瀬大学まで送ってきてくれた。
もちろん、たくさんの人たちが行き交う正門ではなく、普段学生も使うことがほとんどないという東門なんだけれどね。
今日は当然私以外にも冬女の子はここに来ているので、数人の先生方が正門で見送りをしてくれている。
……きっと今ごろは、日永先生もそこにいるだろう。
だから敢えて、彼はここに連れてきてくれた。
「終わったら電話して? 迎えに来るから」
「え? ……あ、でも……」
「今日と明日は遠慮なくつかってくれて構わないよ」
「っ……」
『なんでもどうぞ』と少しだけいたずらっぽく笑った彼に、ただただ苦笑を返すしかなかった。
……その表情は、なんだか少しだけ『なにか』ありそうな気がして、ちょっと不安なんですけれど。
でも、私の気のせいということにしておこう。
「……じゃあ……」
「ん。いってらっしゃい」
「はいっ」
ドアを開けて外に立つと、ほのかに温かい日差しながらも冷たい風に思わず瞳が閉じた。
センター試験は毎年天気が荒れるといわれているけれど――……確かに今年も、あまりいいとは言えなさそうだ。
「……それじゃ」
ドアを閉めてから少し離れ、彼に向かって手を振る。
すると、同じように笑って軽く手を上げてくれた彼が、ギアを入れてその場をあとにした。
「…………」
道の角を曲がるまで見届け、大きく深呼吸してから――……学内へ入る。
……ここからは、私ひとりでがんばらなければいけない。
そんな、自分を奮い立たせる意味も込めて、ぎゅっと手を握りしめていた。
予想以上の、人出。
……って言ったら、まるでどこかの行楽場所みたいに聞こえるかな。
でも、そういう意味では一種のイベントだと言っていいと思う。
「…………」
たくさんの、見知った制服を着込んで――……自分と同じ場所を目指す各校の生徒。
そんな人たちとともに広い教室へ入ると、人の多さに反比例するかのごとく、本当に静かな時間が過ぎていた。
……ここだ。
テーブルの端に張られている受験番号をひとつひとつ確かめながら自分の席を探し、ゆっくりと腰を下ろして荷物をテーブルに置く。
……うん。
あの日、あの――……葉月とお兄ちゃんと一緒に来たときと、間違いなく同じ教室。
だけどやっぱり、雰囲気はまるで違っていた。
「…………」
バッグから筆箱とノート、そして参考書を取り出す。
――……あ。
そのとき、透明なパスケースに入れていた、みんなからのお守りが目に入った。
「ほらよ」
「……え……?」
最初にあの切符のお守りをもらったのは、お兄ちゃんからだった。
朝ごはんを食べ終えて、学校に行こうとしたとき。
立ち上がろうとした私に、彼がいきなり手渡してきた。
「これは?」
「気休め程度」
「……え? 何?」
まじまじと見つめたって、わかるわけがない。
それはただ1枚の少しだけ古びた感じが漂う……そう。
言うなれば、今みたいなモノとは違って、昔の切符みたいな。
そんな感じで、ただ『はい』と渡されただけの私には、何なのかわからなかったんだから。
「んじゃな」
「え? あ、ちょっ……! お兄ちゃん!」
「……なんだよ」
「何じゃなくって。え? これ、なぁに?」
同じように朝ごはんを食べ終えた彼はすぐに立ち上がって、私の言葉なんてまるで聞いていないみたいに、玄関へ向かおうとした。
「…………」
「……え?」
「別に」
「っ……あ、ちょ……! お兄ちゃん!? 待ってってば!」
入り口に立った彼は瞳を細めて私を一瞥し――……たかと思いきや、そのままふいっと身体の向きを変えてそれ以上振り返ることはなかった。
……わ……わかんない。
これがいったい、なんの意味を発揮するのかがまったく。
「ねぇ、お兄ちゃんってば! ちょっと待って!」
「いーって。じゃあな」
「お兄ちゃん!!」
結局、こんなやり取りがしばらく続いた。
……にも関わらず、彼は鬱陶しそうに私を追い払うだけで、まったく詳しいことを教えてはくれなかった。
詳細が分かったのは、その数時間後。
学校で教科書を机にしまっているときだった。
「はい」
「……え?」
「私と純也から」
目の前にいきなり差し出されたのは、小さな紙――……というか……まさに、朝、家でお兄ちゃんに貰ったのとまったく同じ物で。
にっこり笑ってうなずいた絵里に、思わずまばたきが出た。
「これねー、願いを叶えてくれるっていう切符なのよ」
「願いを……?」
「そ。受験に限らず、どんなことでもね」
絵里から受け取って、改めてそれと彼女とを見比べる。
……あ……。
そのとき一瞬だけ彼女が見せた顔は、やっぱり――……すべてのことに対するような表情だった。
「……ありがと、絵里……」
「いーえ」
きゅっと両手でそれを包み込み、力を込める。
……どうか、願いが叶いますように。
受験もそうだけど、でも……ね?
このときの私は、それよりも先に叶えてもらいたいことを、強く強く……思い浮かべていた。
どうか、先生とまた笑い合えますように。
「なぁに? 早速願いごと?」
「え? あー……あはは」
少しだけいたずらっぽい顔をした絵里に見つかってしまい、苦笑を返すしかできなかった。
……でもね。
この切符の効力は、私が思った以上だったんだなー……って実感することになった。
なぜならば、願ったことがこの“希望”への切符を貰ったその日の内に叶えられたんだから。
「はい、羽織」
「……え?」
「お守り……って言ったら、大それちゃってるけれど」
昨日の夕方。
学校から帰ってきて、葉月と一緒に夕食の支度をしたあとの、休憩時間。
リビングで一緒に雑誌を見ていたとき、思い出したように葉月が渡してくれたのは、小さな丸いものだった。
「……? あれ? これって……」
「ごめんね、大したことないお守りで」
「え!? そんなことないってば!」
指先でそれを目の高さまでつまむと同時に、葉月は言葉の意味を違って取ったらしく苦笑を浮かべた。
そんな、大したことないなんて思ったりしない。
だけど、正直言ってこんな“お守り”を貰ったのは初めてで。
だからこそ、ちょっとだけ珍しい気持ちもあって、ぽろっと出てしまったのだ。
「これって……五円玉、だよね?」
「あのね、こういうふうに穴が開いてるコインって、海外では幸運だって思われてるの」
「へえー、そうなんだ」
そういってほんの少しだけ照れたように笑った葉月が、とってもかわいく見えた。
いつものしっかり者な印象と違って、なんだか……まるで新しい何かを見つけた子どもみたい。
『どう?』なんて私の反応を伺ってくるところとかが、微笑ましくなってしまう。
でも、五円玉って日本人にとってはなんてことないモノなのに……やっぱり、違う場所では不思議なモノに映るんだ。
それって、ちょっと面白いかもしれない。
「えっと……それじゃあコレは?」
「それは、おまけ」
「……おまけ?」
「うん」
五円玉の穴に通して結び付けられている、紙のような物。
それをつまむと、わずかに首を横へ振った。
「……えっとそれじゃあ、中見たりしないほうがいい?」
「あ、ううん。それは別に。……でも、大したこと書いてないよ?」
「もぅ……葉月ってば、さっきから『大したことない』ばっかり」
「……あ」
くすっと笑って彼女を上目遣いに見つめると、瞳を丸くしてからおかしそうに笑った。
でも、私はこのときの葉月を見て、『ああ私と似てるな』って素直に思った。
私も先生に『謝りグセがついてる』って指摘されて、初めて気付いたし。
……葉月の場合は、遠慮グセかな。
小さく笑って『クセなの』って笑ったのを見て、そう強く思った。
「…………」
最後に貰ったお守りは……先生からの、切符。
表面は、お兄ちゃんと絵里に貰った物とまったく一緒。
……だけど。
実はコレ、裏返して見るといかにも彼らしい言葉が添えられていた。
『Go for it』
本当に短いたったひとことだけど、きれいなクセのない字。
先生は『カブった』と言ってたけれど、でも、私に言わせてもらえばどのお守りも全然違う物で、同じように見えても――……それは表面上だけでしか共通してなかった。
……あ。
でも、あえて共通点を挙げるとすれば、それは、“私に対する想い”かな。
自惚れてるって言われたら反論はできないけれど、でも、みんな私のためにそれぞれのお守りを用意してくれた。
……これって、本当に嬉しくて心底幸せなことなんだなって実感する。
私を想って、私のために渡してくれた。
それぞれに込められている願いも、きっと……同じなんだろう。
「……そういえば……」
ふと葉月がくれたお守りに付いていた、あの紙へ目が向いた。
実はアレ、『見てもいい?』と自分から聞いておきながら、未だに実行できてなかったんだよね。
「…………」
試験が始まるまで、あと少し。
……見てみようかな。
1度気になってしまうと、やっぱり当然中身が気になる。
「…………」
というわけで、結び目を解き、細かく折られていた紙を……ゆっくりと開いてみることにした。
「……え……」
そこに書かれていた、ひとこと。
それは、まったく想像していなかったもので。
……てっきり、合格に関する言葉だと思ったのに……期待をいい意味で裏切られちゃった。
自然と笑みを浮かべながら改めて紙を畳み、もう1度五円玉に通して結んでおく。
……葉月らしいっていうか、なんていうか。
でも、やっぱり嬉しい気持ちになったのは、彼女の優しさのお陰だろう。
『God bless you』
いろんな言葉の中からあえて彼女がこれを選んでくれたときの様子が思い浮かんで、笑みが浮かんだ。
「受験生のみなさんは、机の上を整理してください」
きゅ、と紙を結び直したときに室内へ響いた、大きな声。
それで、思わず身体が強張る。
……でも。
「…………」
大丈夫。
私には、たくさんの人たちの想いがあるから。
……ちょっと照れちゃうけど、でも、ホントに『ひとりじゃない』って思えるから不思議。
大きく深呼吸をしてからお守りを両手に持ち、きゅっと1度軽く力を込める。
少しでも多く、みんなの力をわけてもらえますようにと、願いを込めて。
「…………」
いよいよ、真剣勝負の時間。
一斉に、『よーいどん』で走り出すとき。
転んでもいい、つまずいてもいい。
……ちゃんと最後まで走れればそれだけで。
高鳴る鼓動を押えるようにもう1度深呼吸をすると、いつの間にか彼にもらった鉛筆をぎゅっと握り締めていた。
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