「うー……」
「ほら。そんな顔しない」
「……でも」
「とにかく、ダメなものはダメ」
そう言って彼は、瞳を細めた。
……なんだかデジャヴのようにさえ感じられるこのやり取り。
その発端は、今から1時間ちょっと前に起きていた。
「うー……冷たい……」
毎年センター試験は天気が荒れると言われていたけれど、今年はそこまでいかないんだなーってちょっとだけ安心していた。
でも、それはやっぱり間違いだったらしくて。
初日は無事に過ごせたのに、2日目の今日は雪混じりの雨になってしまった。
試験が終わったのは、今から少し前。
来るときは暗くて重い雲がかかっていたけれど、でも、雨は降ってなかった。
……なのに。
「…………傘持ってこなかったのに」
ぎゅっとバッグを抱えたまま空を見上げると、相変わらず重くて冷たいみぞれが落ちていた。
今日は、日曜日。
だからもちろん、お兄ちゃんも仕事には出ていない。
置き傘でもあればって思ったけど、大学にそんなものあるわけないし……。
「……風邪引きそ――……っぅ!」
眉を寄せたまま少し上を見ると、ぱたんっと頬へ雨粒が落ちてきた。
「冷た……いぃ……」
反射的に閉じた瞳を恐る恐る開いてから、指先で拭う。
……でも、私はまだ濡れてないほうなんだよね。
すごい音の割には、この場所も乾いた地面がまだ残っているし。
「…………」
すべてはこの――……頭上にある大きな木の枝のお陰なんだろう。
髪もわずかしか濡れてないし、制服だって肩しか濡れてない。
……でも。
まぁ、確かに……時間の問題だと思うんだけどね。
私がびしょ濡れになってしまうかどうかは。
「……あ」
ぽつりぽつりと続けて落ちてきた雨粒を見上げていると、すぐ前に鮮やかな色が滑り込んできた。
「…………」
「……え?」
「なんで屋根のある場所にいないんだよ……」
ドアを開けようとした私よりも先に手を出してくれたのは、もちろんこの車のオーナーである――……彼。
なんだけど、なぜかものすごく機嫌悪そうな顔をして、大きなため息までつかれた。
「だって……あの……」
「だって?」
「……その……」
「その?」
「…………ぅー……」
軽く服についた水気を払ってからシートへ座ると、私がドアを閉めた途端に車を出した。
でも、口調はやっぱり歓迎してくれてると感じじゃない。
むしろやっぱり……その……。
「……怒ってます……?」
「まぁね」
「ぅ……」
まさか、そんなにさらりと返事をもらうなんて思わなかった。
だ、だってね?
そんなに降ってなかったし、ましてや彼に迎えに来てもらう立場だからこそ手間をかけさせたくなかった。
……それだけなのに。
「ったく。風邪なんか引いたらシャレにならないだろうが」
「それはっ……でも……」
「でも、じゃない」
「……は――……っぃ」
ウィンカーを出してから減速した車が、角を曲がってから――……すぐに加速した。
……う。
あ、荒いんですけれど……運転が。
「…………」
ぐっと一瞬加重されて、言葉に詰まる。
……これはやっぱり、私のせいなのかな……。
ちらりと彼を横目で見ると、やっぱりとっても機嫌悪そうに瞳を細めて唇をしっかりと結んでいる。
……うー……。
もしかしたら、『お疲れさま』とか『がんばったね』とか労ってもらえるかなぁなんて思っていたんだけれど、やっぱり甘い考えだったらしい。
……そうですね。
私はまだ、受験生ですもんね。
じぃっと彼を見つめながら『ごめんなさい』を心の中で呟くと、まるでそれが伝わってくれたかのように、彼が小さくため息をついて瞳を閉じた。
「……とにかく。家に帰ったらすぐ風呂に入ること」
ギアに手を置いた彼が、『いいね?』と私に念を押すかのようにまっすぐ見つめた。
……その顔。
もちろん大好きで特別なんだけれど……実はちょっとだけ苦手。
だって、『うん』ってうなずくしかできない魔法をかけられているような気になるから。
「……わかった?」
「…………はい」
……ほらね?
こくんとうなずくのと一緒に、『うん』って言っちゃった。
「ん。いい子」
すると彼は、途端ににっこり笑ってから私の頭を撫でてくれた。
……これって……なんか違うような気がするんだけれど、気のせいなのかな。
「…………」
でも、やっぱり――……間違いない。
彼は絶対に、特別な力を持ってるんだ。
急に表情を緩めてハンドルに手をかけたのを見ながら、そんな思いがどこからか湧いてきた。
「……はぁ……」
――……で。話は元に戻る。
あのあと私は、彼に言われた通り家に着いてすぐお風呂に入った。
…………。
も、もちろんひとりでね?
でも……あの、なんて言うか……。
正直、そのあとのことはまったく考えてなかったんだよね。
「……なんでため息?」
「え?」
ソファにもたれてため息をつくと、隣で新聞を読んでいた彼がちらりと私を見た。
その顔はまるで、あのとき……車の中で私に見せたのと同じような顔で。
……なんでそんなに機嫌悪そうなんだろう……。
まじまじと上目遣いで彼を見つめていたら、自然に眉が寄った。
「……あの、先生」
「ん?」
「…………」
「…………」
じぃっと見つめながら、さりげなく言いたいことをジェスチャーで表してみた――……んだけれど、彼はまったく気にせず新聞へ向き直ってしまった。
……うぅ。
絶対に、今のでわかったはずなのに。
いかにも『知らない』なんて思っていそうな横顔に、小さくまたため息が漏れる。
「……せめて、スカートとか……」
「しつこいなキミも。ダメだったら、ダメだって」
「で、でもっ! さっき、『なんでも言うこと聞い――」
「あれは、行為限定」
「えぇえ……?」
「……なんだよ」
「ぅ。……な……なんでもないですけれど」
ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ、彼にねだる。
……だけどやっぱり、彼は首を縦には振ってくれなさそうだった。
うぅう。
「…………」
彼に聞かれないようにため息をついてから、改めて自分の格好を見直してみる。
家に着くと同時にお風呂へ引っ張られてしまったので、着替えを用意してなかったのをすっかり忘れていた。
でも、そのことに気付いたのは、お風呂から上がったときで。
……遅すぎるってことは自分でもよくわかってたんだけど、でも……どうしようもなかった。
――……そんなとき。
ちょうど目に付いたのは、彼が普段着ているハイネックの黒いシャツだった。
さすがに下着だけで外に出ることもできないので、彼に……声をかけたんだけど。
「…………」
……あのときは、ふたつ返事で『いいよ』って言ってくれたのになぁ。
なのにどうして、こんな格好のままなんだろう。
こんな――……彼のシャツを着ただけなんていう、ものすごくだらしないというか、みっともないというか……。
確かに、彼のシャツだからサイズが大きいので、一応下着なんかが見えないようにはなってる。
……だけど、袖が長いから指先しか出てないし。
やっぱり、なんか……違う気がするんですけど。
「……うぅ……恥ずかしいんですけど……」
「これがあるから、平気だろ?」
「だ、だからっ! そういう問題じゃないんですってばっ!」
ぎゅっとシャツの裾を掴んで彼を見るものの、返って来た言葉はやっぱりそっけなかった。
「……ぅー……」
1日……じゃなかった。
昨日今日と、これでもがんばったつもりだったのに。
なんか……いつもの先生と違う。
言葉もそうだけど、あまり私を見てくれていないし。
「…………」
せっかく彼と会えて、同じ時間を過ごしていられることが本当に本当に嬉しいんだけれど、なんだかやっぱり腑に落ちない部分が残ったままだった。
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