「……なぁんだ。つまんないの」
はぁ、とため息をついて実験台に腕をもたげた彼女は、俺の目の前でそう呟いた。
声も、顔も……何もかも変わらないのに。
なのに、今はもう先ほどまでの彼女の姿はない。
「せっかく、楽しかったのに。……でも、辞めるなら必要ないんですよね」
「……必要ない?」
「そう。ばいばい、ってことですよ」
にっこりとした笑みは、紛れもなく彼女の物だった。
いつもと同じ、屈託のない笑み。
――……それが、俺の見た最後の彼女だったのかもしれない。
「……どういうことだ」
「何がですか? ……よく、意味がわからないんですけど」
「さっきの教室での話。……アレ、本当なのか?」
大きく息をついてから椅子に深く座って彼女を見ると、一瞬瞳を丸くしてから――……けらけらと笑い出した。
……いつもの彼女ならば、絶対にしない笑い声。
…………ああ。
やっぱり、『ホンモノ』はこちらなのか。
こうして実際に見ても、やっぱりどこかでは『違う』んだと思いたくて。
……馬鹿だな、男は。確かに。
「なんだぁー。先生、聞いてたんですか? じゃあ、話は早いですよね。そういうことです。先生は、もう用済みってこと」
「……何が目的だったんだ?」
「目的? ……んー……そうですね。しいて言えば、スリルかな? ほら、教師と生徒の恋愛って、昔から禁断って言われてるでしょ? 私、そういう恋愛って結構好きなんですよね。だから、今まで付き合った人って先生ばっかりなんです」
相変わらず感情豊かな彼女と違って、自分は感情というものが欠落してしまったかのようだった。
いつもの愛しさなんて欠片もあらず、冷ややかで無機質なもののみで構成されている気分だ。
「先生に言ったでしょ? この学校は教師と生徒の恋愛が多い、って。……あれ、ほとんどが私の体験談なんですよ」
くすっと笑ったその顔は、俺が見たことのないものだった。
ひどく艶やかで、とても18の女の子には見えない。
……小悪魔って言葉があるが、まさにアレだ。
「先生は結構イイ線行ってたのになー。ざんねん」
「……騙してたってことか?」
「…………騙す……?」
吐き捨てるように、小さく呟いた途端。
彼女が、わずかに反応を見せた。
先ほどまでの笑みは消え、反対に酷く冷徹な顔つきになる。
「何を言うのかと思えば……。何言ってるの? 本当の私なんて知ろうともしなかったくせに。いつもいつも、うわべだけの私を見て満足してたくせに。……被害者面しないでくれる?」
「人を利用することしか考えないで、そんなこと言う権利ないんじゃないのか?」
「都合よく人を利用してたのは、どっち? ……都合イイ女って思ってたくせに」
眉を寄せて、ひどく嫌そうな顔をした彼女。
……そんな顔もするのか。
人を疑わず、すべてを受け入れてくれる子だと思っていた彼女がしたその顔で、何もかもが崩れた気がした。
「先生は、私に何を求めてるの? 居場所? 逃げ場所? ……それとも、都合よく利用できる場所かしら」
「……なんだと……?」
「曖昧な関係のままだった彼女と別れて、隙間を埋めるために利用したんじゃないの? 今まで、甘んじて受け入れてたくせに。急に私の態度が変わったから気に入らないワケ? ……いったい、何様のつもりよ」
嘲るように笑ったその顔に、思わず眉が寄る。
これが、本当の姿なのか。
……俺が愛した、瀬那羽織という少女の。
「卑怯ね、先生は。私に惚れたクセして、いまさら何?」
「……それはこっちの台詞だ」
「あー、なるほどね。先生って、頭のいい女嫌いでしょ。自分より馬鹿な女だけ好きになるタイプじゃない?」
「……なんだと……?」
見下すような視線に、思わず瞳が細まる。
……どうしても許せなかった。
彼女にはしてほしくなかった顔だから………余計に。
「大したご都合主義の恋愛ですこと」
「……そっちこそ、俺の何がわかる。推測を事実と捉えるなんて、大した――」
「さぞや気分よかったでしょうね。何も知らない子を自分好みに仕立てあげる過程が。……エゴにまみれた汚い大人」
「その大人を利用したのは、そっちだろ? エゴにまみれてるのがどっちかなんて、考えればすぐにわかる」
だが、彼女は表情を変えなかった。
そこにあるのは、温もりなんて物を微塵も感じさせない、まさに無表情そのもの。
……もう、戻らない。
彼女の笑みが愛しくて、彼女だけいればいいと思っていたころには。
「利用できる物は、最大限利用する。それが、この世で賢く生きる術でしょ?」
「賢いも愚かも、誰かが決めることじゃない。それに、自分を偽ってまでこの世にのさばろうなんて思わないね」
「あら。いい子ぶらないでくれる?」
嘲笑とともに呟いた言葉は、1番彼女らしからぬ言葉だったのかもしれない。
だが彼女は、そのままの顔で言葉を続けた。
「先生。私のこと、好きだった?」
「……ああ」
「へぇ、そう。この、瀬那羽織っていう人間が?」
「ああ」
「じゃあ、私がこんな人間だとわかっても、好きでい続けることはできるハズでしょう? それが、何? 私が先生の思い通りの女じゃないとわかれば、態度を豹変させて」
「偽って俺を好きだと言っていたことは、悪くないのか?」
驚いたような瞳。
……そう。
一瞬だけ、いつもの彼女と同じ顔を見せた彼女。
……だけど、すぐに表情を変えてひどくおかしそうに彼女は笑った。
聞いたことのない笑い声で。
「私が、いつ瀬尋祐恭を好きだと言ったの?」
「……何?」
「私が好きなのは、いつだって『先生』よ?」
「っ……」
――……何も。
何も、彼女に言うことができなかった。
代わりに出たのは、やけに濃いため息だけ。
記憶なんて、なくなってしまえばいい。
本当の彼女に関することも、楽しかった彼女とのことも。
……何もかもが、空になればいいのに。
「じゃあね、瀬尋センセ」
最後に聞いた彼女の声が、心底疎ましかった。
俺は……これからどうなっていくのだろうか。
「……………」
だが、それよりもまず、正直言って不安だった。
彼女という人間の、これからの人生が。
事実を知ってもなお、案ずるのは彼女のこと。
……失う、のか。
椅子にもたれながら彼女が出て行ったドアへ自然に顔が向いたあと、ゆっくりと瞼が下りた。
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