「……先生……?」
「ん?」
 ソファに座ったままの、彼女待ち。
 のんびりと……そして、ある種の優越感にどっぷりと浸りながらそうしていたら、洗面所から身支度を整えた彼女が戻って来た。
 ……まぁ、目が合った途端にまた少しだけ照れたみたいな顔したけど。
「どうかしたんですか?」
「いや、別に」
 すとん、と音もなく隣に座った彼女へさり気なく手を回し、緩く首を振る。
 こうすると、当然のように彼女はまた俺の顔を覗き込んだ。

「昨日と違って、ずいぶん今日はイイ日になったなと思って」

 まさに、雲泥。月とすっぽん。
 今日ならばきっと、悪いことは何ひとつ起こらない。
 そんな、確信めいたモノもある。
「……羽織ちゃんのお陰かな」
「もぅ。大げさですよ。それに、私は何も――……え?」
「たくさんしてくれてるってば」
 また『何もしてない』と言いかけたのがわかったので、まず先手を打つ。
 手のひらを頬に当てて、撫でるようにしてから……今度は指先で唇を。
 途端に、艶やかな表情で俺を見上げた。
「昨日は、それじゃあ……先生にとっての仏滅ですね」
「そうかも」
 いや、間違いなく。
 俺も確かに、そうだと思う。
 目覚ましは止まってるし、車は動かないし、財布は忘れるし、怪我はするし……挙句の果てにはスマフォの水没。
 ホントに、救いようがなかった。
「……あとでディーラーに電話しないとな……」
「え?」
 ふと思い出すのは、愛車のかわいそうな姿。
 ……っていうか、かわいそうなのは俺だけど。
 まさか、動かないとはこれっぽっちも思わなかったからな。
 アレは、本気でショックだった。
「ついでに、スマフォも見に行こう」
「……そうですね」
「君も行くんだよ?」
「えっ!? わ……私も、ですか?」
「当たり前だろ」
 苦笑を浮かべてうなずいた彼女に鋭くツッコミを入れると、反対に今度は弾かれるようにして顔を上げた。
 ……いいんだよ。
 どうせなんだから、どこか遠いショップまで足を伸ばしてやる。
 もしくは、ディーラーの近くでもまぁ……いいっちゃいいけど。
 だが、しかし。
 まずは、なんといっても車をどうにかしてもらうのが先決で。
「名刺、どこにしまったかな」
 とりあえず、先日の点検で貰った担当整備士の名刺探しを始めることにした。
「……確か、この辺だと思ったんだけどな……」
 ソファから立ちあがり、パソコンラックの周辺を探す。
 ……って、いったいいつのだ。この書類は。
 まったく身に覚えのないモノから、埃がついているレシートまで。
 まるで、密林のようにうっそうとしているパソコン回り。
 …………。
 ……もう少し、整理整頓というモノを常日頃から心がけないといけないかも。
 少しだけ、今回のこともあってか反省という2文字が浮かぶ。
「……先生」
「ん?」
 ――……そんなときだ。
 まっすぐにテレビを見つめたままの彼女が、俺を呼んだのは。
「何?」
 珍しく、食い入るようにテレビを見つめたままの彼女。
 そんなに面白いモノをやっているのかとも思ったが、彼女の顔はそう言っていない。
 むしろ、何かとんでもないモノを発見した、みたいな……。
「……?」
 彼女の様子も気になって、ふと、すぐ隣にあるテレビの画面を見てみる。
 するとそこには、何やら制服のようなモノを着込んだ年配の男性が立っていた。
「…………」
 歳は、恐らく親父と同じかそのくらい。
 だが何よりも目を見張ったのは――……なんと言ってもこの、明かに不相応な格好だろう。
 薄いブラウンの、作業服めいた上下。
 そして、ぽこっと頭に乗っているようなグリーンのベレー帽。
 ついでに、襟に巻かれているスカーフのような……カラーのような。
 例えるならば、セーラー服の襟みたいなあんな感じのモノだ。
 ……が、しかし。
 下のズボンは――……なぜか、膝が丸見えな短パンで。
 ……これは……。
 膝にある真っ白い靴下が、やけに眩しく感じられた。

『本日は、ボーイスカウト冬瀬支部のみなさんに来ていただきましたー!』

 曇天と反して、やけに明るい声のアナウンサーが男性にマイクを向けた。
「……ボーイスカウト」
 ぽつりと漏れた言葉は、紛れもなく俺のモノ。
 ……ボーイスカウト。
 そういえば幼いころ、入っていた友人もいたっけな。
 そんな昔の記憶も一部蘇った。
「……で?」
「……え? あ。あの……ですね……」
 しばらくテレビを見つめていたのだが、彼女の表情の理由がわからない。
 そこで、腕を組んだまま彼女に直接訊ねることにした。

「それが……なんでも、昨日は『ボーイスカウト創立記念日』なんだそうです……」

 ぴたり。
 改めて手を動かそうとした俺の、動きという動きすべてが封じられた。
「……創立、記念日……?」
「です……」
 おずおずといった表情の彼女には、恐らく何か――……いや。
 むしろ、俺と同じ考えがばっちりと浮かんでいるんだろう。
 きっと……いや、間違いなく。
「………………」
 思わず、テレビを改めて見つめながら喉が鳴った。
 ボーイスカウト。
 それは、どんな困難にも負けることなく、自分で道を切り開く術を身につけるのがモットー。
 ……困難に負けることなく……。
「…………えっと……」
 すらすらと声高に告げられた言葉を聞きながらも、一向にイイ表情は浮かばなかった。
 俺は、占いとかそんなモノは信じないほうだし、人に言われてもまったく気にしないタチだ。
 ――……が、しかし。
 実は、六曜とかってヤツに限っては……割と、気にするほうだったりして。
 理由は、ウチの家系的なモノなんだが…………しかし。
 幼いころからそう育てられてきたから、としか言えないんだが……。
「…………」
 ……結構、痛い目に遭ったことがあるんだよな。
 特に、“黒日”とかって日には……特に。
 単なるこじ付けだとか言われればそれまでだし、これだってそれこそ占いなんかと大差ないと思う。
 だが、しかし。
 結局は、信じる信じないの……問題で。
「………………」
「………………」
 どんな困難にも負けない、屈強な精神と肉体を――……。
 つらつらと喋っている、冬瀬支部代表のありがたそうな言葉を聞きながらもなお、視線はそこから離れない。
 文明器機などに頼るな。体内時計という感覚を研ぎ澄ませ。
 車など使うな。2本の足で立って歩け。
 2度確認したら、最後にもう1度確かめろ。
 空腹に負けぬ強き精神を持て。
 人を頼るな、己だけを信じるんだ。
「…………」

 夢うつつなどに惑わされぬ、健全な精神を宿せ。

「……先生……?」
「…………はは……」
 大丈夫ですか? と続けた彼女にも、ただただ乾いた笑いでしか応えられない。
 なぜならば俺には――……まるで、そう言われているような気がしたから。

 ……ありとあらゆるものに、左右される自身。
 だが、昨日が『ボーイスカウト創立記念日』だからと言われると……不思議なもので、すんなり納得してしまえるから……不思議だった。
 …………。
 少し……いや、かなり切ないモノもあるが。
 …………今度は、なんちゃら記念日ってヤツまで気にしなきゃいけないのか。
 俺の人生、左右されすぎだろ。マジで。


ひとつ戻る  目次へ