「祐恭君さ、昼メシどーすんの?」
「え?」
 4時限目が終わる、少し前。
 ……どうやら、ぼーっとしていたらしい。
 『大丈夫?』と、笑ったままの純也さんが続けた。
「……あー……。どうしようかなーってのが、正直なところなんすけど」
 椅子にもたれると、軋んだ音がした。
 正直、朝から何も食べてなくて、胃に入れたのはコーヒーと緑茶だけ。
 ……あぁ。
 せめて、こういうときこそお茶菓子とか出てくれればよかったのに。
 なんて、普段はまったく考えもしないことを思い浮かべる。
 ……そういや、自分が学生だったときは、結構教師の優遇されてる光景が目に付いたんだよな。
 学生は菓子とか食ったら怒られるのに、なんで教師はいいんだよ……って。
「…………」
 そんなことを思い出したら、空きっ腹が動いた気がした。
「そういや、祐恭君さ。今日、店屋物取ってないよね?」
「ですね」
 さすがは、鋭いところを突く。
 普段ならば、彼女に朝イチで弁当をもらわなければ必ず俺も注文する。
 だが、今日はそれをしていない。
 ……なぜか?
 その理由は、あまりにも単純であまりにも切ないモノなんだけど。
「実は……今日、財布忘れちゃって」
「ありゃ」
「それでまぁ……手持ちが、600円なんすよね」
「……あー……」
 しかも、彼女に借りたんですよ。この金も。
 苦笑とともに告げ、ポケットの小銭を取り出してみる。
 うん。
 やっぱり、何度見ても増えることなく600円のまま。
 ……でも、借りられただけマシだと考えなきゃバチが当たるよな。
 バスに乗った時点で知り合いに会ってなかったら、それこそとんだ赤っ恥だったんだから。
「ほら」
「……え?」
 テーブルに置いた小銭を再びポケットに戻し、机にあった湯飲みに手を出したとき。
 立ち上がった純也さんが、俺のすぐ目の前にいくつかのメニューを差し出した。
「純也さん……?」
 思わず手にしてしまう、それら。
 もちろん、それが何かなんて見ればわかる。
 近所で出前してくれる馴染みの店の、品書き。
 …………いや、しかし。
 時間も時間ならば、金銭的にも余裕がなくて。
 なんて思いながら彼に苦笑を浮かべたら、緩く首を振ってから席に着いた。
「困ったときはお互いさま。つーか、朝から思ってたけどさ、メシ食ってないだろ?」
「……です」
「だったら、なおさら。おごってあげるから、何か頼みなよ」
「え。いや、それは……」
「いーんだって。……そりゃ、どうしても特上寿司が食いたいっつーなら、あとで返してもらうけどさ」
 それ以外なら、なんでもいいよ。
 くすくす笑って頬杖を付いた彼に、思わず丸くなった瞳のまま何も言えなかった。
 ……うわ。
 純也さん、カッコイイ。
 彼の頭上に、“漢”の文字が輝いて見えた。
「……すみません。ゴチになります」
「気にしないでいいって」
 拝むように彼へ手を合わせ、改めて品書きを見つめる。
 ――……と、そのとき。

「失礼します」

 少し離れた場所から、ウチの彼女の声が聞こえた。
「え……?」
「……あの……。……先生」
 今はまだ、4時限目が終わって間もない。
 だからこそ、彼女がここにいるのがなんだか不思議な感じだ。
「羽織ちゃん……? どうした?」
 驚いて彼女を見ると、後ろ手に何かを持っているようだった。
 ……何か。
 それはまだわからない。
「……大丈夫?」
「え? あ、あはは……ちょっと……走って来たから……」
 視線を移すまでもなく、彼女の肩がわずかに上下しているのが見えた。
 それで聞いてはみたんだが――……走って……?
 どうして。
 そうは思うが、はたしてそれを聞いてもいいものか……?
 多少彼女が恥ずかしそうに答えたのが少し気になって、思わずヘンなところで踏み止まってしまう。
「あのっ……これ」
「……え」
 どうしたものか。
 そんなふうに一瞬彼女から視線を逸らした瞬間、ちょうど俺の目の前に、彼女が四角い――……かわいらしい包みを差し出した。
 見たことはある。
 ……でも……。
「これ……」
「えと……あの、中身は……先生用にちゃんと作って来なかったから、もしかしたら食べられない物ばっかりかもしれないんですけれど……」
「いや、そうじゃなくて……」
「っ……ごめんなさい! 今日に限って、先生のお弁当忘れちゃって……。えっと、だからあの……コレ、よかったら代わりに……」
 きゅん。
 ……いやいやいや、わかってるぞ。
 変な表現だってのは。
 でも、それが1番しっくり来た。
 かなりにかわいらしくて、まさにパーフェクト。
 恥じらいながらも確かな思いが、ひしひしと伝わってくる。
 ……ああもう、ああもー……なんだコレ。
 かわいすぎて、いろんな意味でたまらない。
「……先生……?」
 俺が何も言わずに口へ手を当てたからか、彼女が少し困ったように顔を覗き込んできた。
 ……そんな顔するなよ。
 少なくとも、君が考えているのとは丸っきり違うと断言できるから。
「……えっ?」
 ふとあたりを見回し、気配を伺う。
 ……よし。
「っ……せん、せ……」
「ありがとう。……すげー嬉しい……」
 誰も――……という表現は適切じゃないが、少なくとも、こちらを見ているのは純也さん以外になかった。
「……そんな……」
 ぎゅっと彼女の手を握り、改めて包み込むように握り直す。
 少しでも、この気持ちが伝わるように。
 そんな思いを、たっぷりと込めて。
「……もぉ……せんせ……」
「いや、ホントだよ。……ありがとう」
 ……俺、愛されてるよな。ホント。
 思わずニヤけそうになるのを堪えながら、ほんのりと頬の染まった彼女に改めて笑いかける。
「あ。……いや、でも羽織ちゃんは? それじゃあ、昼メシどうすんの?」
 当然の疑問。
 このまま、ほわほわした雰囲気だったら忘れ去っていただろう。
 本来ならば、俺の机の上にあるのは彼女が食べるべき昼メシで。
 それを俺に恵んでくれるとなると――……話が若干違ってくる。
 ……せっかく持って来たのに。
 なのに、今度は彼女が俺の代わりに昼メシを工面しなきゃいけなくなるじゃないか。
「それなら、大丈夫です。今、絵里に買いに行ってもらったから」
「絵里ちゃんに?」
「はい」
 うなずいた彼女を見たままだったのに、視界の端では……なぜか純也さんが少しだけ反応したように思えた。
 ……なるほど。
 そういえば、今日はあんまり良関係じゃなかったんだっけな。
 ふとそちらを伺うと、まるで箸を噛んでるんじゃないかと思えるくらい力の篭ってる口元が見え、思わず苦笑が浮かぶ。
「ありがと。……でも、ごめんな」
「え?」
「無駄な金遣わせて」
「っ……! いいんですよ、本当に! ほら、あのっ……今日は、パン食べたい気分だったから」
 慌てて両手を振り、にっこりと笑みを浮かべた彼女。
 ……あー。
 ここに、さっきと同様ほかの先生がいなかったら、それこそ抱きしめていただろうに。
 残念ながら、つい先ほど戻ってきてしまったのでそれはできないのが……ものすごく無念だ。
「それじゃあ……失礼します」
「ん。わざわざありがとう」
「いいえ」
 ゆっくりと一歩後ろに下がった彼女に、改めて笑みを見せる。
 驕るでもなく、偉ぶるでもなく、むしろ謙虚な姿勢を崩さないままの彼女。
 ……なんていい子なんだろう。
 と、彼氏の俺が言うのは世で言う“親馬鹿”と同じ部類に入るんだろうか。
 でも、羽織ちゃんならみんな言ってくれると思うんだけどな。
 それでもなかなか口にされないから、敢えて俺が声高に言いたい。
 あの子は、本当によくできた子で。
 優しくて、陰日なたのない心根から優しい子だ、と。
 …………自慢に聞こえるか。
 まぁ、その通りだよ。
「……愛されてますねー、瀬尋先生」
「ぅ。……からかわないでくださいよ」
「ほう? 自分でもわかってるクセに」
「……それは、まぁ……」
「言うねぇ」
「はは」
 いたずらっぽい声で彼を見ると、やっぱりなぜか楽しそうな顔をしたままだった。
 まぁ……ね。
 コレくらいは、大目に見てもらいたい。
「……はー……。なんか、嬉しいな」
 かわいらしい包みを開きながら、思わず独り言が漏れる。
 ……これが、幸せってヤツか。
 噛み締めるように笑みを浮かべながら弁当の蓋を開ける――……と。
「っ……すげ……」
 そこには、それこそ輝いて見えるおかずの品々が詰まっていた。
 ……はー……。
 いや、もうなんか、本気でありがたい。
 後光が射して見えるくらい、きらびやか。
「……それじゃ、いただきます」
 ガラにもなく両手を合わせ、箸を手に取る。
 ……箸を。
 …………箸……。
「あれ……?」
 ない。
 弁当の蓋をどかし、包みをひっくり返してみても、やっぱりない。
 ……箸がない。
 となると、羽織ちゃんにもらった時点でなかったのか、はたまた……運の悪い俺がどこかの空間ポケットへしまいこんでしまったのか。
 …………。
 ……後者だったら、本気でタチ悪いな……。
「…………」
 思わずごくりと喉を鳴らすと同時に、腕を組む。
「ん? 箸ないの?」
「……そうなんすよ」
 純也さんに苦笑を浮かべてから、とりあえず割り箸でももらおうと立ち上がる。
 ……が。
「……あー。それがさ、昨日斉藤先生が使った割り箸で、最後だったらしいんだよ」
 途端に、そんな返事が先に来た。
「そうなんすか?」
「うん」
 頼みの綱だった、割り箸もない。
 ……さて。
 それじゃあ箸がない場合……人はどうしたらいいだろう。
 そう思って、とりあえず純也さんに聞いてみた。
 …………ら……。
「…………」
 彼は、にっこり笑ってごそごそと机の中を漁り始めた。
 そして、次に彼と目が合ったとき。
 これでもかといわんばかりの満面の笑みをたたえたまま、俺の目の前にふたつの物体を取り出した。

「薬さじとピンセット、どっちがいい?」

 これを究極の選択と呼ばずして、なんと呼ぼうか。
 ……そう、本気で頭に浮かんだ。


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