「お願いしまーす」
午後の授業。
それこそ、いつもと何も変わらない風景。
同じ号令。
……だが。
「あれ? 先生、服どうしたの?」
やっぱり指摘されたか。
「……いや……。別に、どうってワケじゃないんだけど……」
目ざとく指差したのは、1番前の席に座っていた委員長だった。
……いや、そんな楽しそうな顔しても何も出ないから。
とりあえず、手を振って断っておく。
「……ちょっとね」
言おうか言うまいか。
若干悩みはしたのだが、とりあえずやめておくことにした。
別に、敢えて自分の失態をさらけ出す必要もないだろうに。
遠くのほうで『何があったのか』と瞳を輝かせた生徒がひとり見えたが、だからこそ敢えて何も言わないことにした。
「…………」
こほん、と咳払いをしながら、我が身を見返してみる。
…………。
……確かに、やっぱ……ヘンな格好だな。
それは自分でも自覚してるから、仕方ないんだが。
でも、幾ら暖房が入っているとはいえ、やっぱりTシャツの上に白衣だけじゃ寒いだろう。
今の季節に、半袖だぞ? 半袖。
それでも、背に腹はかえられない。
Tシャツにセーターを着ているのは、確かに何だソレとは思うんだけどな。
「……授業を始める」
「はーい」
改めて咳払いをしてから教科書を開くと、数人の生徒がわざわざ大きな声で返事をくれた。
毎回、律儀だなとホントに思う。
とはいえ、ちらりとそちらを見てみると、なんかやけに楽しそうだったのが気になりはするんだが。
「それじゃあ、今日は次の章から」
机に教科書を広げたまま置いてから、見渡すように顔を上げる。
すると、そのときはもうこちらを伺うような生徒はひとりもいなかった。
……無論、例の彼女も含めて。
まぁ……その代わりと言ってはなんだが、熱心に隣に座るウチの彼女にちょっかい出してる姿が目に入ったが。
あれは、今から本当に少し前のこと。
不幸と言えば、不幸。
……だが、俺の不注意だと言えば、ソレ。
そんな、曖昧なラインのモノだった。
「瀬尋先生、これ開けてもらえます?」
苦労の末食べ終えた弁当を片しているときに、先輩教師である彼女が俺の所へ来た。
困ったような顔で差し出されたのは、ケチャップ。
そう。
家の冷蔵庫に転がってるような、あんな感じのケチャップだ。
だけど、それは新品で。
なぜ困ってるのかが、正直俺にはわからなかった。
「えーと……開ければいいんですか?」
「ええ、お願いします。……ちょっと、この蓋が硬くて」
それを聞いて、少し納得できた気がした。
……あのときは。
でも、少しとはいえ『ん?』と思ったんだから、避けておくべきだったんだろう。
簡単に開くはずのそれで思わぬ惨事を味わうなんてこと、考えてもなかったんだし。
「…………」
特に力を込めるでもなく、勢いをつけるでもなく。
ただただ普通に、蓋の内側にある、銀色の封を剥がそうと爪を立てる。
――……刹那。
ぶちょ
「っ……!!」
「あらっ!?」
情けない音とともにワイシャツへ赤いシミができたのは……想像に容易いはず。
そのあとは結局、また、彼女に頼るしかなかった。
……ワンパターンだと言われれば、その通り。
だが、瞬間的に俺の頭には、彼女しか浮かばなったんだから仕方がない。
「…………」
ひたすら謝ってくれる先生に手と首を振り、席に着く。
取り出したのは、スマフォ。
たったひとことながらも、彼女宛にこう送信していた。
『ケチャップが付いたら、どうしたらいい?』
返事が来るとは思ってなかったのだが、その数分後には、またセキを切らせた彼女がここまで駆けつけてくれたのだった。
あのときの、純也さんのひとこと。
祐恭君、相当今日はツイてないね。
まぁ……いろんな意味で、ツイてるって言ったほうがいいのかもしれないけど。
どう答えたものかと悩んだのは、本当に久しぶりだった。
「…………」
ふと、そんなつい先ほどの件が頭に浮かび、自分が黙っていたのに気づいた。
確か、ついさっきまでは教科書を声に出して読んでいたはず。
…………。
顔を上げると、当然のようにたくさんの生徒が不思議そうな眼差しを向けていた。
……そりゃそうだ。
俺だって、おかしいと思うからな。
「あー……えー……」
改めて咳払いをし、広げたままの教科書に両手を置く。
……疲れてるんだろうな。俺。
それは自分でも確かにわかってはいたんだが、まさかこれほどだったとは。
どうやら、精神的にも相当ダメージが残っているらしい。
「…………」
ふと、視線が彷徨うまでもなく、まっすぐに彼女を見つけた。
少しだけ不安そうで、だけど目が合った途端に少し驚いた顔を見せる。
……うん。
なんか……やっぱ、恋しい存在とでも言うべきか。
普段は目を合わせることも、まじまじと見つめることもないのだが、今日だけは違っていた。
必要なんだよ。
俺にとって、君は。
がっくりと肩が落ちそうになるのをこらえながら首を振ると、少しだけ気力が戻ってきたような気もした。
「それじゃ、今話したイオンの変化を実際に――……っ! ……て……」
気を取り直して、生徒たちへ向き直ったとき。
小さいながらもハッキリとした鋭い痛みが、左手を襲った。
「……つ……」
手を伸ばしたのは、すぐそこにあったなんの変哲もないビーカー。
……なのだが。
よくよく見てみると、その縁には細かなヒビと欠けている箇所が幾つかあった。
「…………」
実感すると、人間は改めて意識してしまうワケで。
例に漏れず――……俺自身の左手も、じくじくとした熱というか痛みというかを帯び始めた。
「先生? どーしたんですか?」
「せんせー?」
「なんかさー。先生、今日ヘンだよ?」
徐々にざわめき立ってきた室内。
それを聞きながら黒板にもたれると、一緒にため息が漏れた。
「…………」
何度目かのため息をついてから、蛇口をひねって手を濡らす。
ぷくっと小さな赤い点ができた指を、水で洗い流すために。
……はー……。
なんかもう、本気でツイてねー……。
どっと疲れが出たというか、ものすごくやる気が急降下というか。
正直、今日はこのまま“自習”と宣告してしまいたい気持ちでいっぱいだ。
……せっかく、さっきまた少しだけやる気のメーターが上がってきたのに。
やっぱり、こうもモチベーションが下がってしまうと、本気で何もやる気が出なくなる。
…………教師って大変だよな。
おしゃべりを始めた大勢の生徒を前にして、そんな不謹慎なことが浮かんだ。
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