「………………」
ソファに座らず、床にそのまま腰を下ろして、背だけを預ける。
ぼーっとした視線の先には、ハンガーへ乱雑に掛けられたスーツとコート。
数分も浴びてなかったあの暴雨なのに、未だぽたぽたと滴が床へ落ちていた。
「…………ち」
人相も悪ければ、悪態もつく。
そんな自分が心底ダメなヤツだとは思うが、今だけは自分で自分を擁護してやる。
お前は何も悪くない。
悪いのは、きっとすべての巡り合わせだから。
さっきまでの豪雨が嘘みたいに静かになった窓の外を見ながら、また、舌打ちが出た。
夕食は、ありあわせの――……というよりも、冷蔵庫にあったもの。
つまりは、残り物ってこと。
レンジで適当に温めて、適当に口にする。
……途端。
「ぅぁっち……!」
茶碗蒸しで火傷した。
なんだよちくしょう……!
そうは思うが、今回に限っては俺自身のせいだとハッキリわかるから、敢えて何も言えない。
そんなショボい“夕食”とは言えないモノを済ませたら、ちょうどよく風呂が沸いたことを告げる音が響いた。
短時間とはいえ思い切り雨を浴びたので、身体の芯から冷え切っていて。
……懸命だと思ったんだけどな。
とっとと風呂に入って、こんな何もないほうがマシと思えるほど酷い日を終わりにすることが。
――……なのに。
まだまだ足りないとでも言うのか、今日という日はそう簡単に俺を休ませてくれようとはしなかった。
「っつをっ……!!」
シャワーのコックをひねったら、冷水が出た。
…………あぁああああ……。
もー、なんなんだよホントに。
ホントのホントに、腹が立つ――……よりも、情けない。
自分自身もそうならば、翻弄され続けている惨めな俺も。
……そりゃあ、茶碗蒸しといいシャワーといい、それらはすべて俺自身の責任のようにも思える。
いや……思えるっていうより、確かにそうかもしれない。
でもな……。
でも。
なんかもう……ホントにここまでヘコまされると、人生投げやりになるっていうか、どーでもよくなるっていうか。
「……はは……」
こんなふうに、何度目かの乾いた笑いがこみあげてくるようになっていた。
境地といえば、まだいい。
だが、俺自身としては……すでに精神的にヤバい状態なんだなと、はっきりとわかる。
それはもう、ものすごくひしひしと。
「ははは……は……ぁ」
がっくりとうなだれる首を、俺にはもうどうすることもできない。
ここまでヘコんだのは、初めて。
自分の力じゃどうしようもできないことも、確かに起きた。
だが、自分の力で未然に防げたことも、いくつかはあったのに。
「…………」
だからこそ、ショックというか、情けないというか。
とにかく、今の俺はいっぱいいっぱいだった。
……早く寝てしまえば、きっと楽になる。
そう思うと同時に、瞳が閉じた。
ベッドまで行くのも、なんだか面倒くさい。
彼女がここにいたら間違いなく……俺を心配してくれるのにな。
「…………」
でも、今の俺には、風邪を引くことのほうが少しマシにも思えてる状況。
厄介なんだよな、いろんな意味で。
ヤケになってる部分がないわけじゃないからこそ、できるワザ。
ソファにもたれたまま瞳を閉じると、少しだけ心が安らいだようにさえ思えた。
どれくらい時間が経っただろうか。
ふと目が開いたのは、何かが振動する音のせいだった。
テーブルの上。
手が届くか届かないかの、ギリギリの場所。
そこで、ついさっき……何かを告げているかのような音がした。
「……電話?」
未だはっきりしない意識の中、ぽつりと言葉が漏れた。
あー。
ついに、独り言までぼろぼろ出るようになったか。
これはもう、相当末期だ。
「っ……」
フローリングへ直に寝ていたせいで、背中と腰が鈍く痛んだ。
……年だな。
昔は、朝までこんな格好でいても『痛い』と感じたことは少なかったのに。
「……あれ」
スマフォを手に取ると、メッセージの受信が表示された。
当たり前の動作でアプリを開き、確認……するとそこには、自分が思ってもなかったような相手からのひとことがあった。
『まだ、起きてますか?』
時計を見ると、すでに深夜0時近く。
普段、こんな時間にメッセージを送ってくることはおろか、そうそう起きていないはず。
それどころか、一緒にいるときだって少なくとも23時前には眠そうな顔をしてるのに。
「……珍しい……」
つい、そんな言葉が漏れた。
が、目は覚めた。
俺に起きているかと訊ねてくるっていうか、そもそもメッセージ送ってくる時点で、彼女が起きているのは確か。
だからこそ、自然と指が動く。
「…………」
起きてるよ。
たったひとことながらも……つい今まで寝てた人間の言う言葉じゃない気もしたが。
「っ……」
打ち終えてすぐ、彼女から電話がきた。
珍しい……っていうか、もしかしたら何かあった……?
そう思うと、これまでの雰囲気が一変する。
彼女らしからぬ時間帯。
そして、電話。
……もし、何かあったとしたら……。
「どうした?」
だから、ついそんな言葉で電話に応えていた。
『あ。……ごめんなさい、こんな時間に……』
「いいよ、別に。それで? 何かあった?」
少しだけ慌てているような彼女を落ち着かせる意味もあったのか、少しゆっくりとした受け答え。
……まぁ、寝起きだからってのもあるけど。
『あの……すごく迷惑っていうか……ひょっとしなくても、夜分遅くに迷惑だとは思うんですけれど……』
「いや、迷惑なんかじゃないけど」
『……でも……』
「大丈夫だって。全然気にしてないよ」
多分、“迷惑”って言葉を続けたことに、彼女は気づいてないんだろう。
少しだけいつもと違う雰囲気というか、ホント、急いでるっていうか。
そんな感じが、言葉の端々から伝わってくる。
声の感じからして室内ではあるんだろうが、いつもみたいに声を潜めた感じはないから、やっぱり何かあったのかもしれない。
『……あのっ……』
「ん?」
『これから……先生の家に行ってもいいですか……?』
「え……」
ごくっと喉を鳴らしてから、何かの決意を口にするかのように発せられた言葉は、耳を疑うようなモノだった。
『ぁ……ご、ごめんなさい。やっぱり迷惑ですよね。こんな時間に……しかも、急にだし……』
「いや、ちょっと待って。……え……? 何? 羽織ちゃん、今どこにいるの?」
『今ですか? 今は……まだ、家ですけれど……』
状況がまったくわからず、掴めないまま。
だが、それでも丸まっていた背が、まっすぐに伸びた。
……今から、来る。
ウチに。
ってことは――……これから、ここに、彼女が来るワケで。
…………。
……って、同じじゃないか。
どうやら、俺も相当動揺してるらしい。
「えっと……羽織ちゃんが出てきても平気なら、俺は一向に構わないけれど」
『ホントですかっ?』
「うん。……ただ俺、車動かないからさ。ちゃんとしたアシがあるなら……だけど」
そうは言いながらも、気持ちは当然『きてほしい。むしろ今すぐ』みたいな感じに傾きっぱなしで。
アシがないなら、孝之を叩き起こしてでも連れてきてもらいたい考えも当然ある。
……いや、待て。
彼女がどうやってここまで来るつもりかはわからないが、少なくとも、無茶するような子じゃない。
ということ、誰か『彼女をウチまで送り届けてくれる第三者』がいたからこそ、彼女がこんなふうに電話をして来たんだろう。
……第三者……。
孝之か――……はたまた、瀬那先生か。
いや、さすがに瀬那先生が『うん』って言うはずはないから、やっぱ……孝之なのかな。
少なくとも、あの瀬那さんが……心変わりするなんて考えられないし。
「…………」
……葉月ちゃん……じゃないよな?
いや、まぁ……ずっと向こうに住んでたのもあるし、確か誕生日は過ぎてるって話だったから……免許持っててもおかしくはないんだけど。
『それじゃあ、先生。……あの……鍵、ないから。申し訳ないんですけれど、着いたら開けてもらえますか?』
「ああ、それはもちろん。喜んで下まで迎えに行くよ」
『えぇっ!? だ、ダメですよそれは!』
「なんで?」
『だ……だって……。……寒いし』
そこで彼女が詰まるのは、少し引っかかる。
……が、しかし。
実際に下まで降りて彼女を迎えれば、答えをわざわざ今ここでもらう必要なんてなくて。
「わかった。それじゃ、待ってるから」
『あ……っ……はい!』
ひと呼吸置いてからうなずくと、自然に笑みが浮かんだ。
彼女が、来る。
今から、ここに。
……間違いなく。絶対に。
そう思ったら、嬉しくないはずがない。
ただでさえ、今日は1日いろいろなことがありすぎた日。
……こういう“想定外”なら、大歓迎だったんだけどな……。
嬉しそうな彼女の声を耳に残したまま電話を切ると、少しだけ気持ちが穏やかになった気もした。
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